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水族館

 水族館が好き。
 いつから好きかと言われると、「はいいついつからです間違いないですね」とはならないが、記憶では7歳ごろから好きだ。7歳の誕生日、私は父に魚の図鑑をせがんで買ってもらった。その図鑑を眺めるのが大好きで、学校から帰るやいなや部屋でずっと眺めていたことを覚えている。だから、私は7歳になる以前から魚、もとい海や川が大好きだったのだ。よく祖父に釣りに連れて行ってもらったりもした。今も魚釣りは大好きである。
 それと水族館の空間が大好きだ。大きな水槽に囲まれながら、青い光で包まれる。優雅に泳ぐ魚や、微睡んでいる小さな生き物たち。そのどれもが神秘的。薄暗い一角に行けば、まるで海の深くに踏み込んでいるような気分になる。ゆったりとした生き物たちを眺めながら、癒しと落ち着きを堪能するのだ。
「じゃあさ、水族館いこうよ」
 電話から聞こえる声が私を水族館に誘う。もちろん私は二つ返事で「はい行きます!」と言いたいところだが、そうは言えない。
「いいですね水族館」でも、と続けるつもりがなぜだか言葉を遮ってしまった。
「よし、水族館で決まりだね。楽しみだなぁ」
「楽しみですね」
 私は思ってもいないことを口から出してしまう。
 相手はその後も何かいくつか喋って、私は全てに「うん」と言ってしまう。気づけば今週末、11時からランチをしてから水族館に行く約束を取り付けてしまった。

 週末、私は駅のホームで彼を待っていた。何度も手鏡で髪や化粧を確認してしまう。しまいには笑顔の練習をし出す始末だ。約束の時間まであと20分。そろそろ彼は来るだろうか。心臓の鼓動が早くなる。この音が聞かれてしまわないだろうかと、不安になる。
「桜さん、お待たせ」
改札を抜け小走りで彼がやってきた。
「あ、えっと、うん」
動揺したことを悟られてはいないかと、私は顔を伏せた。顔を伏せたことで、また何かを思われないかと不安になる。
「きょうは暑いねー。じゃあ、お店が混まないうちにご飯食べに行こっか」そう言って、彼は私の手を取った。
 彼の動きがあまりにも突然過ぎて、私は体をビクつかせながら手を引っ込めてしまった。
「あー、ごめんごめん。急すぎたかな」彼は笑いながら話す。
「ご、ごめんなさい。」
 顔を上げることができない。
「えっと、ごめんね。とりあえずランチ行こっか?」
 彼がまた手を差し伸べて来たので、私は咄嗟に体を縮こめてしまう。
「ごめん、なさい」私は謝ることしかできない。
 しばらく、沈黙が続いた。改札を抜ける人たちの靴が足早に流れていくのが見える。彼の靴だけが私に向かっている。
 ごめんなさい。ごめんなさい。うまくできなくてごめんなさい。
「はぁ」
 私はそれを聞いて、底に落ちた。
「きょうは急なことをしてごめんね。また連絡する。またね」
 彼がそう言うと、私に向かっていた靴が、そっぽを向いてしまった。
 彼が遠ざかる。私は顔を上げることができない。
 私は、今日、一度だって彼の顔を見ただろうか。

 水族館は、いつもより静寂で、それが尚更私を孤独にさせた。薄暗く、濃い青。冷たいガラス、独り震える肩。こんな場所、ずっと抜け出したいと思っていたのに、それなのに私は一歩だって動く気にはならなかった。

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