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タルホと月⑥ 『レーディオの歌』 考察


稲垣足穂の小説作品である。

この『レーディオの歌』は1939年の作品で、足穂39歳の時の作品。

短編であり、文庫ならば10ページ程度の作品であるが、この作品は難解を通り越して、読んだ人間のほぼ大半は筋すら理解できないまま終わるだろう。

私も何度も読んで読んで読んで、自分なりにこの物語を解釈した。この文章は足穂にむけて、こういうことでしょうか?というつもりで書いている。
ネットでいくら叩いても、この小説に関しての解説はほぼ皆無に近い(というか、ない)ため、自分で考えるしかないのである。

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今作は、「それは恐ろしい夏休みであった。」という書き出しから始まる。その恐ろしい夏休みは、海岸沿いで火事があったり、鯖色の半月が妖しく光る刻限に、御伽噺めく大パノラマの峡谷の線路から修学旅行の女子学生の一団が乗った列車が崖下に落ちる顛末が描かれる。
この書き出しの一連の文章は名文で、素晴らしい描写力である。特に、女学生の母親が渓谷にやってきて、娘の乗っていた電車は無事だと聞いてホッとしたのもつかの間、やっぱり乗っていたと聞かされて卒倒するのは、なかなか他では見られない。然し、物語はそこから急に、そんなことがあった世間を余所に、私は1人の少年を追い回していた!という主人公の独白へと移る。
その少年はお寺の子である。主人公はどうやらその少年と懇意にしていたが、拒絶されたようで、彼が出没する場所を徘徊し、挙げ句には寺に上がりこんで、なんとか彼と接触しようとする。『お小姓の命は長ごうて三年』、という時代小説で憶えた文句が彼をヤキモキさせるのである……。
美しいうちに、その少年と再度何らかの接点を持ちたい……。もうすぐおっさんになるのでな…という感じである。

少年の父である(かもしれない?本当の父親かどうか、主人公は疑っている)住職からも追い出されそうになる。
と、ある日少年が水兵服に菫色のリボンをつけて麦わら帽子を被っている、余所行きの装いをしているのを見かける。その少年は同じ格好をした少年と、青いコイルなどのついた手製のレーディオの実験をしていた。そのレーディオから催眠音波のような曲が流れて、洗脳された少年は海へと向かい、それを父親の企みだと看過した主人公は彼を海から救い出すが、引き上げた少年は彼の目当ての少年ではなく、別の少年だった。すぐに目当ての少年を水から引き上げるが、然し、既に時は遅く……。
最終的には主人公は、赤く灼けた三日月の錨が西の海の涯に浸ろうとしていたとき(原文ママ)、少年も、そして、雛罌粟色のパラソルを差した黒目がちの彼の姉もまた、三年前に既に死んでいたことに気づいて、物語は終わる。

まぁ、意味不明な話である。
然も、それに加えて足穂独特の場面転換の飛躍、主人公の転調、曖昧な説明、不親切な情景描写と、わからないことのオンパレードで、多分新人賞にこれが提出されれば一次審査で落とされるであろう(意味がわかれば傑作である)。

今作は、この1作だけでは全容がつかめないように出来ている。いや、基本的には稲垣足穂の作品とは、全作品がコスモ的に通底しており、どの銀河に属した作品かを知ることでそれを読み解くことが可能になるのだ。詳しいファンや、研究者には当たり前の前提であるのだが、一見さん殺しではある。足穂は、気に留めた、同じモティーフを繰り返し使うし、そもそも、1つの傑作等はない、凡て、部分と全体(ヴェルナー・ハイゼンベルク)は不可分であるという考えであるからして、凡ての小説は汎ゆる面で1つなのである(マラルメの、世界は1つの書物に至るためにある、的な考えとも似ている?)。これは、他者から手紙を自作に引用し落とし込む足穂の作風から明らかである。

だからあっちにもこっちにも、色々な作品を読んでいくと、ふとモティーフが繋がる快楽がある。余程のファン以外は、気づかない話だが。

今作『レーディオの歌』は、足穂の『彼ら「THEY」』というエッセイ的な自伝とほぼ同じ話である、というのがわかる。『彼ら「THEY」』は単行本になった際、この『レーディオの歌』も収録されていて、関連している作品が幾つも収録されている。『彼ら「THEY」』は1946年の作品で、『レーディオの歌』の方が古い作品だ。『レーディオの歌』は、途中名称を変えて、『秋夕夢』(美しい秋の夕方の夢)という名前になったりして、都合3回ほど、掲載本を変えるに従い、改訂されている。
『彼ら「THEY」』でも、お寺の少女めいた少年を追い回す足穂の回想が描かれて、それが『レーディオの歌』では幻想小説へと昇華されているのである。

例えば、『レーディオの歌』作中に、再び少年と昵懇になるための方法を考えてはじめて、然し、方法がない、という下り、境内に引っかからせるモデルプレーンなど制作していなかったからだ、という言葉があるが、このモデルプレーン制作に関しても、『彼ら「THEY」』に記されているし、また、少年をボートに乗せる下りも同様に描写されている。

『彼ら「THEY」』は、鷺香水のエピソードから始まり、足穂の出会った少年少女たち、彼らがどういう人間で、どういう風に死んでいったかが書かれる(この話も読みにくいし、他の話と繋がる。どこまでが脚色で、真実かはわかりづらい)。
ここで書かれるのは、鮮烈な印象を足穂に残した上で、若くして死んでいった者たちである。それは皆、一様に美しい少年少女で、足穂に憧れを与えた。
足穂は作中にて、ヨブ記の36章14節を足穂は曳いている。
『我なんぢの凡ての行ひし事を赦す時には汝憶えて羞ぢその恥辱のために再び口を開くことなかるべし』
そうして、まことにまことにそうあらんことを。
との足穂の言葉で、『彼ら「THEY」』は結ばれている。
上記の14節に関しては、『彼らは若くして死に、その命は恥にて終わる』という意味合いが書かれている。これは、ヨブに対して若きエリフが説く章が32章から38章まで続く、その中にある言葉である。

ヨブ記のヨブは、信心深い人間だが、汎ゆる不幸を心身に受けて、神に問を投げかける。
『彼ら「THEY」』に登場する少年少女の1人に対して、彼女もレプラの末裔という表記がされているが、レプラとはハンセン病のことであり、つまりはヨブが蒙った病と同様なのだが、このようなことは、普通の読者にはわからないだろう……。
ヨブ記36章では、エリフがヨブに対して神の注意を聞き入れることを説くが、14節は、神からの呼びかけ、神からの注意に対して聞き入れない者たちのことを指した言葉になっている。足穂は気に入り(フェイバリット)の人々に対して、常に冷たい視線もある。
それは、『戸塚抄』のユリ子さんに対しても明らかだが……。

足穂はこの時期、カトリック傾倒期なので、非常に説教臭い言葉を作中に取り入れている……(この後、仏門の方へ心動かされて、晩年死ぬ間際にはカトリックへ再び戻る)。

そして、この『彼ら「THEY」』こそが、先のヨブ記の言葉を照らし合わせるのであれば(※つまり、エリフが長々と頑ななヨブに対して滾々と説くように、神を信じていない、傲慢な人間は若くして死ぬ、魂が腐る、ということ)、足穂は『彼ら「THEY」』に、対して、足穂の一番愛している世界文学である、フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』を重ねているにほかならない。

この、『春のめざめ』は思春期の性の目覚めによる少年少女の悲劇だが、登場人物の一人であるモーリッツを、足穂は少年像の雛形として愛しきっている。
彼らもまた(主人公メルヒオールは別だが)、若くして死ぬのである。
これが重要なのである。神を信じない、神をも恐れぬ先に、魂が腐り、死が待つのである。

さて、『レーディオの歌』は作中には登場しない。これは、『……』にて表現されているが、それは書いた時点で足穂には書けなかったからだと、自分で書いているが、その後、『少年』という雑誌で見かけたこの歌をこそ、『レーディオの歌』だとしている。
それは七理紫水こと歌人の七理重恵の歌である。4番まであるが、割愛する。これをもじって作ろうとしたが、止めたそうである。

目にはさやかに 見えぬどそれと

連ねる電線せんも 建つる柱も

浪路遥かに 隔つる消息たより

いかに送るか 奇しき奇械

この七理重恵氏は様々な校歌などを作詞していて、その感覚があるのかもしれない。学校の歌である。校歌は、少年たちを取り囲む聖歌なのである。

『彼ら「THEY」』では、結びに足穂が、彼らとの時間を、永劫回帰の夏休みという言葉にて表現しているが、つまりは『レーディオの歌』は永劫回帰の夏休みを書いた作品なのである。
つまり、足穂的ループものと言えるだろう。ループものは、既に幻想小説として、1939年に書かれていたのである。

永劫回帰とは、ニーチェの思想であり、超人的な意志により、永久的に同じ時間が繰り返すことである。永久的に、同じ時間、つまりは、自分の愛した少年を追い回した夏休みが続く。
そうして、『レーディオの歌』においては、主人公は、これが最後かもしれないと、水の中に沈む水兵服のおめかしした美少年を抱きめるのである。彼は、最終的には少年も、パラソルの少女も死んでいたことに気づき、然し、また同じ瞬間を繰り返すのであろうか。

足穂の言う、『永劫回帰の夏休み』とは、『それは恐ろしい夏休みだった』、のである。
これは、非常に足穂的なテーマを書いた作品だったのである。

と、いう解釈でよろしいでしょうか?足穂さん。

次回は今回書かなかった足穂の小説の賞のスタンスについて書く。

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