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美獣

1-6

練習が終わり、帰る道すがら、美月は公武を追いかけてきて、また小鳥たちを見たいと言い出した。そう言う美月の脣は、艶やかに潤んだ紅が塗られていて、それは恵を思い出させた。
「かまわないけど、門限は大丈夫なんですか?昨日も、もう門限は過ぎていたでしょう。」
「かまわないわ。ねぇ、公武さん。私、不思議なんですのよ。どんどん踊りが新しくなるようで。」
「踊りが新しくなる?」
公武が聞き返すと、美月はほほえんで、
「そう。なにかがこぼれだしたみたいに。なにかが吹き出したみたいに。新しい踊りが、どんどんどんどん湧いてくるんですの。」
「それは美月さんの心の中から?」
「それがわからないんですのよ。昨日、公武さんの部屋に行ってから……。」
公武は黙った。しかし、美月はうれしそうに、女の顔をして、公武を見つめるのである。
「それは美月さんがもう十六で、女になったってことかもしれない。女に成長しているのかもしれない。」
「そうね。だって、十六って、もう結婚できる年でしょう。そう考えると不思議だわ。私はもう、誰かの妻になれるのね。」
「それなら僕はどうなんだろうな。」
美月の言葉を茶化すように、公武が言った。
「公武さんだって、結婚できるんじゃないかしら。」
「僕はまだ二歳だよ。」
「でも、生まれた身体は二十歳以上でしょう?それなら二十二歳だわ。」
「人生経験が足りないかもしれない。」
「そんなの、十六の娘も同じことだわ。私もまだ子供だもの。でも、恋心かもしれないわ。そういうものが踊りに影響を与えるのかもしれないわ。ほんとうに不思議ね。女の子が女に変わるのって一晩なのね。それなら、男の子も、一晩で男に変わるのね。」
そう言っているうちに、二人は公武のアパートの前についていた。そして、美月は何の衒いもなく、公武について、アパートの玄関に入った。その行いが、公武の胸に、異様なもののように迫った。恐ろしい前触れのようで、幼い経験のない心臓が、鐘を打つようだった。
 美月はまだ十六の娘で、何の手ほどきも受けていない娘であるが、しかし、たった一晩で、ここまで女としての花を咲かせることは、やはり公武には受け入れがたいものだった。あの、紫陽花の中で踊った、薔薇の精に夢を見ている少女の面影は消えて、ただ匂うような女がそこにいた。
「あなたの幼い頃を、また見たいわ。」
そういうと、美月はローファーを脱いで、そのまま部屋の奥へと消えた。中から小鳥たちの鳴き声が聞こえはじめた。
 公武が部屋に入ると、美月は公武のベッドに座って、部屋を見回していた。昨日までの、小鳥に興味を示していた少女はいなくなっていた。
「何かお酒に酔っているみたいだね。」
「あら。そうかしら。」
「ええ。何か、昨日の恵さんみたいですね。」
「恵さん……。恵さんに興味があるの?」
美月の表情が曇った。あからさまな嫉妬だった。恵には憧れを抱いていて、公武に好意を持っている。奇妙な感情だった。
 公武はかぶりを振って、
「いいえ。恵さんはあくまでも、僕の御姉様のようなものです。」
「御姉様。御姉様。」
御姉様、という言葉が可笑しかったのか、火が点いたように美月が笑って、何度も何度も繰り返した。
「恵さんは、あなたの御姉様なのね。」
「御父様の次に親しくして頂いたのが恵さんですから。」
「じゃあ、私は何人目なのかしら。」
美月が長い髪をゆびさきで梳いた。部屋に、髪の匂いとマメルリハの匂いとが交じった。どこか、楽屋で嗅ぐポマードのような香りに思えた。
「美月さんは、何人目だろう。」
「今まで何人に恋したことがありますの?」
「どうしました?やっぱり恵さんですね。昨日踊りを見てから、彼女が取り憑いたかな。」
そう言うと、美月は顔をかすかに曇らせたが、しかし、すぐに表情を戻して、
「質問に答えて。何人ですの?」
「僕は恋をしたことはありません。何人か、きれいだと思った人はいますよ。美しい人だなって、目を奪われて……。」
「心を奪われたりとかは?」
「心までは。ありません。」
公武はそう言って、ふと、少し前に、美月の踊りをはじめて見た時に感じた、陶酔のような思いが心に浮かんで、視線を彼女から外した。美月は首を傾げて、
「私の初恋は、光本先生ですわ。」
「たしかに男前です。先生の年は……。」
「もう四十だわ。それに、先生には奥様がいらしたわ。幼い子供の夢ですわ。」
「美しい夢ですね。」
「初恋はみんな美しいですわ。でも、みんな叶わないのね。」
「きっと僕はまだその美しい夢を見ていないんだと思います。」
公武は、地面を見つめたままそう言った。美月は、そんな公武に対して、すり寄るように、身体を寄せて、距離が縮まった。しかし、公武は、それこそ、まだ二歳か三歳の子供のように、どうしたらよいのかわからずに、ただ尻込みをした。そうするうちに、興が冷めたのか、とたんに美月は公武のベッドに凭れて、静かに公武を見つめた。
「ほんとうに美しい身体ですわ。」
美月は、舐めるように公武を見つめた。公武は何も言わずに立ち上がると、
「もう遅いでしょう。送りますよ。」
そう言って立ち上がると、美月を促した。美月は少しふて腐れたようにほほをふくらませたが、それも愛らしい娘のしるしだろうか。
 美月を送り届けたのち、唐突に変わってしまった少女の心に、公武はどう接すればよいのか図りかねた。美月は、名前の通りに、月の満ち欠けのように、姿形を変えていく。しかし、公武は、美月の残した芳香に、また我を忘れて、自分を慰めた。自分を慰めた後、自分がどこにいるのか、彼にはわからなくなる。満足と後悔とが彼をいじめ抜き、いっそのこと、獣にでもなって美月を犯してやろうかと思う。しかし、美月の心は、そういう公武の獣性よりも何枚も襞があって、それに分け入ることは、公武に恐ろしいことだった。
 公武は、部屋に戻ると、窓外に浮かぶ月を見つめた。月は白く照っていて、夜の陽のようである。その陽は手を伸ばしても届かない。あまりにも美しい火だと、自分の心の中に浮かぶ火のようだと、公武には思えた。

  彼』の屋敷を訪れたのは、それから二週間後のことだった。文芸誌の締切が二本あって、『彼』は屋敷を出られないでいた。その間も、稽古の進捗状況を、逐一恵が報せに来ていた。
 夏を迎えて、緑は一層濃く茂っている。鎌倉の町並みと違って、人気がほとんどない。『彼』の屋敷の生け垣には、小さな赤い牡丹が咲いていた。一枚の花弁が落ちて、しべがかすかに剥かれている。風に晒されて、しべがそよいでいた。
 夏になると、『彼』の屋敷の匂いはひどくなる。獣たちがあまりにも多いから、その匂いだった。それを全てお香で消そうとするから、より匂いがひどくなった。玄関からもかすかに臭った
 公武が屋敷に着くと、お手伝いが顔を出して、奥からはかすかに管楽器の音色が聞こえてくる。お手伝いは、匂いにはなれたもので、気にする素振りもなかった。
「先生はあと一時間ほどはお部屋からお出になりません。奥の間で待っていてくださいまし。」
お手伝いに促されて、奥の間に通されると、革張りのソファに、恵が深く腰掛けていた。恵は顔を上げて、公武を認めると、すぐにぷいと視線を逸らした。公武は気にする様子もなく、恵の向かい側のソファに腰掛けると、部屋の中を見回した。チェストに置かれた蓄音機に、レコードがかけられていて、音楽のはじまりはここだった。
「『ピーターと狼』ね。」
セルゲイ・プロコフィエフの、子供のためのオーケストラ曲だった。
「あなたのために、先生がかけたのかも。だって、子供のためのオーケストラだもの。」
恵はうれしそうにほほえむと、立ち上がって、棚に置かれたレコードのジャケットを手に取った。そこには、ディビッド・ボオイの写真と、狼が描かれていた。
「ディビッド・ボオイも、きっと複製されるでしょうね。」
「彼は死んでまだ五十年経ちませんから。しばらくは無理ですね。」
「一番美しいときを復元するのね。」
恵の言葉は、公武にも向けられた言葉なのだろうか。公武は、一番美しい頃のニジンスキーを復元している。それならば、時が経ち、その容姿が変わったときに、『彼』は公武を捨てるのだろうか。
「花の命は短いものよ。」
恵はそう言って、公武を見つめた。眦が垂れて、山猫が現れた。恵の表情は、どこか美月を思わせる。美月の表情が、恵を思わせていたのに、今はどちらも入り交じるようで、同じ娘のようである。
「もちろん、私もね。女がきれいなのは、短い間だわ。だって、美月ちゃんなんて、まだまだ若くて愛らしいわ。」
恵はジャケットを手にしたまま、またソファに座り込んだ。足を組むと、太ももの白いのが光った。
「そんなに変わらない。」
「お世辞なんていらないわ。先生も飽きっぽいでしょう。骨董に凝って、色々な絵に手を出すけど、飽きたらすぐにぽいだもの。たくさんの絵や壺が捨てられたわ。その次は動物ね。犬猫鳥に蜥蜴まで……。今度はバレリーナ。」
「でも、恵さんは御父様のミューズでしょう。恵さんを舞姫にしたいと、常々言っているじゃありませんか。」
恵は天井を見上げて、けたけた笑うと、
「ほんとうに子供のようにやさしいのね。でも、先生はもう私には飽きていて、今度はあなた。あなたに飽きたら、今度は誰を買うのかしら。ディビッド・ボオイ?それこそ人形の館のようだわ。」
ときおり、ディビッド・ボオイの声が会話に交じった。英語のナレーションだから、公武にはわからなかった。
 扉が開いて、『彼』が部屋にに入ってきた。寝不足なのか、目の下に深い隈があった。恵の向かいのソファに腰掛けると、大きな欠伸をして、
「どうだ?稽古は順調か?」
「ええ。問題ありません。ただ、やっぱり二役もやると、どうやって役に入ればいいか、わからなくなりますね。」
「ニジンスキーは楽屋で時間をかけて役に入り込んだそうだ。でも、たしかに二役もやると、それもなかなか難しいかもしれないね。」
「お客さんの期待は、稀代のバレエダンサーの生き写しですもの。だから、役なんて誰も見ていないわ。公武は普段どおりに踊ればいいのよ。」
恵はそう言って、すました顔で、レコードジャケットをテーブルの上に投げ捨てた。『彼』は顔をしかめて、
「大切なレコードだ。お前のアパートの家賃を半年は払える。」
『彼』は手を伸ばして、ジャケットを手に取ると、立ち上がり元の場所に戻した。振り返ると、
「さぁ、ソファから立つんだ。出かけるよ。」
『彼』がそう言うと、恵は首を傾げて、
「どこに行くの?」
「競売だよ。複製人間の新しいものが出品されてる。お前の馬鹿にしていた骨董に交じってね。」
「まぁ。扉の外で聞いてらしたたのね。出歯亀なのね。」
『彼』はほほえんで、そのまま部屋を出た。
 公武は、競売という言葉に、ひどく狼狽えた。複製人間の競売というものがあるということを、彼も知っていたけれども、『彼』の口からその言葉を聞くと、途端に現実味が現れた。急な吐き気に襲われて、公武は扉に手をついた。
「大丈夫?具合が悪そうね。」
心配をしたのか、恵が公武の肩に手を置いて、そのまま彼の手を握ると、ソファまで導いた。ソファに座って、公武が深呼吸をすると、
「先生も人が悪いわね。あなたは子供なのに。配慮がないわ。」
「それは恵さんも一緒です。」
そう言われて、恵はあっけにとられた顔をして、すぐにほほえんだ。
「怖いなら行かなくてもいいわ。でも、あなた以外の複製人間なんて、私も見たことないし、あなたも見たことないでしょう。良い機会だし、行ってみない?」
「競売だって。人間が物のように扱われるんです。」
「そうよ。だって人間じゃないんだもの。」
恵は、冷たい目のままそう言った。とても透き徹っていて、清水のようにすら思えた。
「きれいな目をしています。」
「私が?」
「ええ。真っ黒で、ほんとうに、水のようで。」
「黒い水?そんなの、美しくないわね。」
「いいえ。とても美しい色です。でも、ときおりそこに火が灯ることがあります。」
「そう。あなたはよく人の目を見ているのね。じゃあ、先生の目は?」
公武は、『彼』の目を思い出そうとした。しかし、思い出せなかった。『彼』の表情の全ては思い浮かぶけれども、しかし、『彼』の目は上手く思い出せなかった。
「よく思い出せません。」
「私はよく思い出せるわ。とても濁っているわ。白内障みたい。犬や老人のような、白く濁った目よ。私、あの人は盲目なんじゃないかって、ときどき思うことがあるわ。美しいものが好きなくせに、盲目なんて、おかしいじゃない?」
恵は、美しい黒い目を公武に向けたまま、半ば独り言のようにそう言った。しかし、それも一瞬のことで、恵はゆっくりと両手を伸ばして、公武の両のほほに手を置くと、にこりとほほえんだ。
「さぁ、行きましょう。きっと面白いわ。あなたもいつまでも籠の鳥じゃつまらないでしょう。」
ぱっと両手を離すと、恵はそのまま部屋を出て行ってしまった。恵は、公武を彼の部屋の鳥たちと、揶揄したのだろうか。
 公武は、左胸を押さえた。鼓動がどんどん早くなっていく。このまま、音に呑まれて、自分は狂うんじゃないかと公武に思えた。ニジンスキーと違う人間なのに、ニジンスキーのように狂うのならば、それは正しく複製人間だった。
 屋敷の前には『彼』が呼んだタクシーが停まっていた。公武が乗り込むと、車はすぐに発進した。
 夏の匂いがした。公武には三度目の夏だった。
 車は北鎌倉から横浜に向かった。港北区の、シティホテルにタクシーは停車した。ロビーには、『彼』を待っていたのか、三人が入るとにこやかにほほえむ男がいた。『彼』に手を差し出しながら公武を見つめて、
「やぁ。初めまして。もう外には慣れたかい?」
「あなたは……。」
公武が怪訝な顔で尋ねると、男はスーツの胸ポケットから、名刺を取り出した。名刺には、遠野という名前と、その下に鑑定士と書かれていた。
「鑑定士とは……。」
「科学者のような、技術者のようなものにも片足を突っ込んでいるけどね。君みたいな複製人間を欲しがる先生のような人を相手に商売しているんだ。骨董か何かを査定するみたいな肩書きだが、そういうわけじゃない。あくまでも仲介のような仕事……。ただ、複製人間を競り落としたお客さまに、きちんとほんとうの複製人間か、それとも紛い物かをお伝えしないといけないからね。」
「だから面白い商売だと思ってね。紛い物も何も、複製人間は紛い物そのものだろうと、彼の話を聞いて思ってね。」
なんとはなしに『彼』がそう言って、公武は心が冷たいものに触れるかのようだった。
 遠野はうれしそうに『彼』の横に貼り付きながら、競りの会場まで三人を案内した。エレベーターで十五階に上がると、緋毛氈の敷かれたロビーが現れた。スーツを着た何人かが、何やら楽しそうに談笑していた。ときおり、聞き慣れた名前が聞こえて、それらは全て故人だった。
「今日の一押しはなんだい?」
「カタログを見てないんですか?先生のお好みのバレリーナなら、今日は可愛らしい牝猫がいますよ。」
「ほう。」
「アリス・ニキチーナです。最低落札価格はおそらく七億前後ですな。最ピケは四億からです。」
「それは手が出ないね。公武も、今なら十億は下らないだろうね。」
「ダンサーも、女性と男性は価格に大きく差が開きます。先生も、舞姫が欲しいんなら、どうです。借金してでも。」
遠野がそう言うと、恵の目がかすかに揺らめいた。しかし、それは公武の錯覚かもしれなかった。
「何人くらいのお客さんで競売をするの?」
「百人前後ですね。最低でも数億の資産がないとね、競売に参加はできない。」
「新しい奴隷制みたいなものね。」
「さしずめ私は奴隷商人みたいなものですね。先生のような貴族階級の嗜好品を扱うんだから。」
「僕は貴族にはほど遠いよ。ただの駄文を量産している売文家だ。しかし複製人間は骨董や動物みたいな嗜好品とはわけが違う。とにかく金を食う。」
「生きたお人形遊びですな。服もいれば飯もいる。家もいれば、恋もする。」
「何?お前は恋をしてるのか?」
突然水を向けられて、公武は固まった。その様子を見て、『彼』はほほえんで、
「恵か美月か?どちらも年頃だからね。」
話をしているうちに、会場に入った。広い宴会場に、いくつものパイプ椅子が並べられて、その奥のステージに、緋毛氈が敷かれている。司会らしき男が、壇上に並んだ数人の人間のプロフィールを読み上げていた。
「すごい。全部複製人間?」
恵が尋ねると、遠野が頷いた。ステージ横には、二つに区分けされて並んでいるパイプ椅子があって、複製人間たちは、それぞれそこに座っていた。皆一様に、ここがどこかわからないようで、子供のような幼い顔つきだった。しかし、そのほぼ全てが成人しているようだ。
「ああやって、落札された複製人間と、出番待ちが分けられている。」
公武は、また吐き気を覚えた。遠野は、この光景がさも当たり前のように思っていた。そして、それは『彼』も恵も変わらないようだった。
「すごいわね。面白いわ。公武も、ああやって競りに出たのね。」
「公武の頃はもう少し小規模だった。あの頃は複製人間は水物だった。」
「今も水物です。金持ちの道楽扱いですからね。日本でこうして競りが多いのも、日本発祥の研究成果だからです。ほとんどの複製人間の国籍は日本ですよ。だから、競売にははるばる海外の金持ちが多くやってきます。今は水物ですが、あと三年、いえ、ひょっとしたらあと一年もすれば、もっともっと大きな産業になるでしょうね。」
遠野は目を輝かせて言った。司会者が、アリス・ニキチーナの名前を呼んだ。そうすると、会場がわっと沸き立って、ざわめいた。ステージ横の緞帳の裏から、アリス・ニキチーナが顔をのぞかせた。また沸いた。そうして、『牝猫』の衣装を着たニキチーナが、くるくると回りながらステージに中央に近づいてくると、観客の興奮はさらに跳ねた。数多の声が交じりあって、その声の大きさに、ステージ横の複製人間たちは、怯えたような顔つきだった。
 公武は、目眩を覚えて、その場から離れた。ぐるぐると、踊ってもいないのに、世界が回転するかのようだった。ロビーの長椅子に座って、その喧噪から離れると、ドア越しに、金額を競い合う声がぶつかっていた。九億五千万という数字が聞こえたあと、ドアが開いて、恵が歩いてきた。恵は両手を広げて、聖母のようなほほえみを浮かべて、公武に近寄ると、しゃがみこんで、公武の髪の毛を撫でた。やわらかい手で、普段の恵とは違う娘のように思えた。恵は、静かに公武を見つめて、
「心が弱いわね。」
公武は首を振った。
「あんなもの。僕には堪えられない。僕もああしてここに来たんだ。」
「でも、ステージの上なら、私だって同じようなものだわ。」
「僕はステージの上だけじゃない。生きているところ、どこだってああいう扱いだ。」
「そうね。だからあなたはぺトルーシュカだって、言ったじゃない。アルルカンや、プルチネッラみたいに、道化や人形が、あなたの役割なのよ。」
公武は恵を見上げた。さきほどまでの聖母のような顔のままで、しかし魔女もその中にいた。
「でも、あなたが美しい身体を持っていることは、それは複製人間だからでしょう。そう考えると、あなたのことをうらやましがる人間も、多いと思うわ。」
恵は、爪先を立てて、いつものように、くるくると回ってみせた。背の高くない恵が、爪先を上げるだけで、ほんとうの白鳥のように見える。
「じゃあ、自然に生まれたあなたは、ほんとうにうらやましい限りですよ。だって、そのままの美しさで、賞賛されるんだから。」
恵は、踊るのをやめると、公武の横に腰を下ろした。
「ぺトルーシュカは、物語の最後に、ムーア人に殺されて、おがくずだらけの人形に戻るでしょう。」
恵が言うと、公武は頷いた。
「それから、幽霊になって現れて、自分に命を与えた魔術師に怒りをぶつけるわね。」
「まるで僕みたいですか?」
「好きなバレリーナには逃げられて、自分より強い男に殺されて、最後は親を恨むのね。」
公武は立ち上がって、恵を見下ろした。妙な怒りが湧いて、公武は拳を握った。
「そうやって怒るのはいいことだわ。あなたには魂があるのよ。ぺトルーシュカみたいにね。」
魂と言われて、以前、恵に魂がないと言われたことを、公武は思い出した。
「でも子供の魂だわ。もっと大人にならないと。そうしないと、あなたはいつかきっと狂うわ。だって、前科があるんだもの。」
そう言って、恵は立ち上がると、公武の脣に脣を重ねた。薔薇のような脣が、公武を覆った。公武は、恐ろしい欲望の火が自分に沸き立つのを感じていた。そのまま、恵を抱きしめた。恵の手が、公武の手を振りほどこうと、抵抗を見せたが、それはかすかだった。抵抗したはずの恵に誘導されるのかのように、女子トイレに抱き合うまま入ると、恵は女になっていて、公武の手は汗で滑った。そのまま、薔薇をもう一度咥えた。今度は抵抗もなく、ただ恵の身体は獣めくと、そのまま公武を飲み込んだ。

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