THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版⑫ 本編⑩ 第10章 フレデリック・ロルフ著 雪雪 訳
『アダムとイヴのヴェニス』
第10章
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ひどく落ち着かない夜を過ごした後、ニコラス・クラッブは朝の六時に起き、ジルドと一緒にサンマルコへミサに参加するために急いだ。彼は少年の不滅の魂の健康を心配していた。
クラッブは毎朝、まだ暗いときに外でこっそりとミサを捧げるという私的な習慣があった。その日を乗り切るための活力を少しでも吸収するためで、そのための自分のプライバシーを守ることを好んでいた。しかし、彼は少なくとも休日だけでも真っ当なクリスチャンとして、自分の使用人がミサに与るのを見届けるつもりだった。
二人は寺院の洞窟のような褐色と金色の陰に滑り込んだ。既に先細りしている高貴なサクラソウの星が煌めいて、足に触れるたび彼らに囁いていた。彼らが外に出ると、夜明けを告げる素晴らしく深い青が広がっていた。
十字架の小さな八角形の祠では、悟りのミサが始まっていた。彼らは反対側の柱に背を向けて、細く力強い姿勢で立った。一人はもう一人よりも頭半分ほどに背が低く、藍色の服を着て、胸元が白い三角形のガーンジーシャツに身を包んでいた。ニコラスはジルドが完璧であることに気付いた。全く動かず、福音書に三者三様のサインをすることもなく、うっとりとした表情で立ち、子供のような眼差しで神秘の核心を見つめていた。鐘の音も彼を現実へと引き戻すことはなかった。昇天が近づいていることが告げられた。ニコラスは彼の背中を軽く叩いて囁いた。
「ここには神がいます。もし君がクリスチャンなら、跪きなさい。」
そして主人と使用人は横並びに跪いた。
最後の福音の後、ニコラスはニコポイエアのマドンナに特別な賛辞を述べに行った。彼女の祭壇ではミサが行われていた。そこでは聖体が配られていた。ニコラスは両膝をついて拝礼し、敬意を表した。ジルドは彼に同行し、片膝を曲げた。
「伏せなさい!」
ニコラスを鋭く注意した。そして、彼が伏せるのを見た。
二人がそこから移動するとき、ジルドはgenuflectionことは正しいのではないか、と主張した。
アトリウムから出てきた時、それに応えてニコラスは命令を下した。
「君は教会では僕の真似をするんだ。主なる神に向かって両膝を床につき、主の幕屋を通り過ぎるときは片膝を床につけて敬礼する。そして、しるしで魂を強くするのだ。いいね、 私の息子よ。」
「旦那様。イギリス人はとても信心深いね。」
「ええ。彼らは何事も恥じることはないし、誰かを恐れることもありません。イタリア人の何人かもそうですね。」
「旦那様。私もそうではありません。」
親愛なる読者よ、自然が花を咲かせる過程がゆっくりと、確実であるということを考えたことがあるだろうか。長い準備期間を通して地を耕して、肥料を与えて、穴を掘り、掘削して、灌漑し、蒔かれた種が芽を出し実る前に観察し、状況を整理し、そしてその芽が成長し、葉を茂らせ、花を咲かせるまでのことを考えたことは?
今、私の作劇が自然の方法に従っていることを、貴方が鋭敏でも気付かないかもしれないから、ここで尋ねたまでだ。
私はこの本を書き、大地を整え、種を蒔こうとしている。時間をくれるだろうか?そうすれば、アマランサスという花を見ることができるだろう。アマランサスとはキリストの災い、あるいは愛の嘘と呼ばれる花だ。
コーヒーが終わると、ジルドはパッパリンを磨くためにクラブへと向かった。
ニコラスは煙草を巻いた。イギリスからの便りはなかった。手紙を出すには早すぎたのだ。何故みんな電報を打たないのだろうか。もし彼らが惨めな生活を送るのなら、イギリスでお願いしたいところだ!
彼に、大きな爪がぶつかってきた。さらに、この不名誉な一団と彼自身がヴェニスで関わっていて、彼らはさらにクラッブを悩ませようとしていた。天の御名において(彼の脳は夜中に起きてきて、彼の身体を殴りつけてくる)、このような新しい人々とまったく関わりを持たずにいることの義務や意味や利点は何だったというのか。興味深い仕事に対しては、あらゆるリソースとエネルギーを注ぎ込んできたというのに。
しかし、もしイギリスの友人であるボブーゴやピアリー・バスローが、ひょんなことからゴロツキになることを選んだとしたら、新しい友人を作るのはいいことではないだろうか?困っている人間はどうやったら友人を作れるのだろうか?どのような種類のことを話せば、その類のことに繋がっていくのだろうか?
ヴェニスに住む外国人合唱団の指揮者であるウォーデンのような人々について考えてみよう。彼らは災難に見舞われた際の治癒についての考え方をクラッブに示してくれた。彼らは死にゆく者たちの生殺与奪を握る前代未聞の傲慢な審問官の如しで、大地を踏み鳴らす雄牛のように振る舞ってきた。
ニコラスは彼らにチャンスを与えるほど充分な夜を過ごしたのだろうか?彼らが巻き込んできたゴシップのような忌まわしい疑惑の網を編む機会やその材料を提供するほど、彼は愚かなことをしたのだろうか?
(恐らくは悪戯かもしれないが、確かに)フィッツジェラルド=ヴェプナーという間違いなく不幸な人物を巻き込んだように。
「おお、神よ、お許しください!」
ではどうすればいい?何も考えるな。今日のために。今日のBeneficenzaのために。
ニコラスはまだ広間でガゼッティーノとブラブラしていた。そのため、ジルドはまだ自分の仕事をする時間があった。すると突然、診療所の婦長が飛び込んできて、彼に襲いかかった。
「まぁ!親愛なる貴方!」
彼女は口を開いた。
「私たちの愛するレディ・パシュの誘いを拒むことなんて、ありえなくない?」
クラッブは硬直した。
「それが最もまともではないことだからですよ。レディ・パシュにーこれは神のみぞ知ることですがーパーティに誘われたんです。私は行けないと言ったんだ。だって、私はパーティーに最適な服なんて持っていませんでしたから。そしてこの話は終わりになりました。ですから、これで納得して、貴方も良い少女になってもらって、もうあちらに行ってもらえますか。」
「なんてことを言うの!私たちがどんなにがっかりするのか考えてみてちょうだいよ!」
クラッブは、彼らが失望することを心から願っていた。「私たち」とやらが確実に、失望に陥るように最善を尽くすつもりだった。ただ、彼はそうとは言わずに、ただその無分別な彼の甲羅でもって、口論者を侮辱した。
「ねぇ、でもね、何らかの服を手に入れることはできるでしょう?」
「ヴェニスで?パーティに最適な服が?今夜までに?私がやろうと思えばね。でも、そんなことをするつもりはありませんよ。」
「なんですって。貴方はそうしなければならないわ。親愛なるレディ・パシュがどれほどまでに傷ついているか、お考えにならないの。」
「申し訳ないが。」
「彼女は貴方のことを知りたがっているのよ。診療所で貴方が見せた優しさに感謝したいのですよ。」
「その必要はありませんよ。」
「彼女は今まで誰にも断られたことがないと、そう言っていますわ。」
「私はね、今はただ奇妙な実験に夢中になっているだけですよ。」
「ねぇ、考え直してくれません?私はこれから小間物屋にメルケリアに買い物に行かなければならないのです。考え直してくれますよね?」
「無理ですね。」
「彼女は今までの人生でこんなに鼻であしらわれたことはない、と言っていましたよ。」
「そりゃあそうでしょうね。大使の女性を拒否することは、主権君主の階級以下の人間には出来ないことですからね。」
「まぁ……、彼女は貴方の「ノー」という返事には応じないということだけは言っておきます。」
「それは怖い。わざわざ来てくださってどうもありがとう。次からは電話で呼んでくれますか。私はちょうどBeneficenzaに行くところでなんです。パーティーで何があったのかは、明後日にでも全部話してくれたらそれで充分です。」
その女性を追い払おうとするやいなや、ウォーデン夫妻が開封した手紙を持って階下へと降りてきた。
「ああ、ここにいたのですか。おはようございます。」
とティアサークが言った。
「私は貴方が考えを変えてくれますようにと、それを言いたかったのです。」
「レディ・パシュのパーティのことを仰っているのなら、難しい話ですね。」
「ああ!それはとても哀しいことだ。私達に、なんとか貴方を説得することは出来ませんか?実はあるメモを持っているんです。」
「それはどうもありがとうございます。私はそれについてはもう全部知っていますよ。それから、あまり大きな声では言えませんが、もう待ちきれませんね。」
とクラッブはそう付け加えるように言うと、二階に駆け上がった。
クラッブは怒りにより殺伐としていた。妨害、脅し、力、汎ゆる種類の反対に直面したとき、彼は凄まじかった。低俗な人々には絶対に理解することが出来ない怪物と化した。多くの人は、三度目くらい、或いはある程度の段階で、抵抗の意思を示した後に屈服してしまうだろう。しかし、クラッブについては、未だかつてそんなことはなかった。彼は屈することはなかった。彼はとてもとても長い受難の中におり、ひどく逡巡していた。しかし、彼は一度戦地へと赴くと、粘った。その時彼にとっては、正しいだの、間違っているだの、成功だの、失敗だの、好都合だの、不都合だのなどは、何の意味も持たなかった。
彼はただただ粘り強く、イディオリズム的に固執したのだ。
親愛なる読者が、彼の甲羅を砕き、凶暴な鋏を破壊し、キリスト教的な残酷さや慈愛(この用語は「慈愛」である)をもって、手づかみで、あるいは一本ずつ、彼の指や爪を引きちぎった。ニコラスはじっと横たわっていた。足を引きずり、或いは切り刻まれた遺骸を引きずったまま、どこかの隙間に入り込んだ。そして新たな鎧を身につけ、執拗に争いを続けようとした。
彼はついにこの尊大な未亡人に対する無礼極まりない決意は固めた。彼はレディ・パシュを知らなかった。レディ・パシュは、見た目は痩せている綿毛のような女性であることを除けば、馬のような長い顔をした、背も高い、ボンネットは高い場所に位置して、垂直の硬い弓がしなっていた。そして、頑固な牝馬の耳をしている。夜にはメアリー・スチュアートの帽子を被り、(もちろん、そのような女性聖典に記されているのだが)、女性の頭飾りに関する聖パウロの言葉に背くような女性である。
彼女は、人生の代償を洋梨の形でみせつける真珠の雫を身につけていた。
彼女の本当の姿が、診療所の婦長の大騒ぎや、おべっか使いのウォーデンたちの媚びへつらう姿の中にどれほど描かれているのか、彼は知る由もなく、また詮索する気にもなれなかった。
とにかく、いずれにせよ、(彼女は全額値引きを許可しているが)人から取らないと満足出来ない彼女を取り囲む鰒や鋏虫や寄生虫たちに嫌悪感を抱いていた。そして、彼女たちはさらに別のものをひったくったり引っ掻き回したりするつもりのようで、それはニコラス・クラブにとって、あまりにも不快極まりないものだった。
そのことを彼は明らかにしたのだ。同時に、ニコラスはウォーデンと彼の誉れ高い友人との関係を終わらせた方がいいかもしれなかった。診療所の婦長に場所だけ教えて、舟に留まるべきだったのだ。そしてニコラスは慈善団体を訪れて助けるという約束を破る必要はなかった。
しかし、それ以上にBeneficenzaを除けば、ヴェニスの他の全ての人々は、彼が望んだ自身の唯一のことを碑文に刻むために、一掃されるべきだった。
彼はレディ・パシュ宛に手紙を書いた。彼女の誘いを断った真実の内の半分(彼が隠してきた)が受け入れられなかったことを残念に思い、そして、彼が感じた赤裸々かつ不愉快な真実をそこに書き、それは彼をさらなる迫害から守ることに効果的だろうと思われた。
彼は身の丈を超えた生活をしていた。イギリスでの彼の仕事が上手くいっていないように思われた。彼は、自分が破滅寸前ではないかとそう思った。
いずれにせよ、彼は今年中に、収入を得られなくなる可能性が極めて高かった。このような障害(と彼が判断した)は、彼がより安定した立場の人々と交際する資格を剥奪するのにも十分作用していた。
「貴方の奥方には、周囲の人々を閉じ込めておく、そのことだけに集中し、私のことは放っておいてくださいますよう、お願い申し上げます。」
彼は冷酷にも、燃えるような誠実さをもって、容赦なくそう結論づけた。彼はむしろ自分の苦悩を積み重ね、そのことを書いて相手側に強く投げつけたことに満足していた。
「これで彼女が危害を加えてくることはないはずだ。」
彼は自分にそう言い聞かせ、二枚目の紙を取ると、こう書いた。
『拝啓、旦那様。
私は貴方と貴方の奥方がなぜ私に気付いてしまったのか、それは尋ねるつもりはありません。ただ、私たちの親密さをこれ以上深めないほうが良いと警告させて頂きます。私は本当に現在の友人の他に新しい知り合いを作りたくないのです。私情ですが、今、私は深刻な混乱状態に陥っています。そして、少なくとも今年は収入が全くの0になる可能性もあるのです。貴方をフィッツジェラルド・ベプナーの騒動の再現に巻き込むのは心苦しいのです。ですから、今ここで私達の関係を絶つことを(それは貴方自身の為にもなります)心から忠告させて頂きます。混乱を避けるために、です。
ニコラス・クラッブー敬具ー』
そして、書き終わると罠から逃れた鳥のように喜びながら、レディ・パシュへの手紙はレターボックスに入れ、ウォーデンへの手紙はホテルのホールにある番号のついたキーフレームへと投げ入れ、クラブブチントーロの陽気に滑るように向かっていった。
ロイヤル・リトル・ガーデンは活気に溢れていて、群衆と選手たちでごった返していた。ヴェニスの若者は、どこの国でも見られるような見事な体格を有していた。この街では、誰もが揺り籠の頃からを泳ぎ、5歳以上のほぼ全員が泳げて、全員が二十世代、三十世代に渡って漕いできた(構えて引くよりも、押し続けてきた)。この漕ぐという運動には、舟を前方へ推進させるための力のバランスと、絶え間ない状況の変化への適応能力が求められる。
だから、それを見る人には、探そうとしなくても、鋭く、敏速なものが目に映るだろう。
高貴で引き締まった首、豊かに盛り上がった肩、逞しい腕、まったくもって見事な胸筋、よく締まった尻に、そこを起点に形作られるしなやかな筋肉質の肉体。長く、細く、筋肉質で丸みを帯びた脚。大きく、機敏で、逞しい体。かつてヘラスが王冠を与えた不滅の若者の、大きくて俊敏で賢明な脚。テュークやウィートリーのような画家は、その特権をないがしろにしている。
一般的(または偏屈な)な強者による無知の過失が起きるのは、まぁ当然のことである(彼らはデルフィのアギアス、リュシッポスの形式規範を聞いたことすらないのだから。)。
しかし、チャンピオン・オールの選手たちのトレーナーたちがそれらに無関心であることは、まったく不可解である。と、いうのも、ヴェニスの六人のセクスターには、十分な訓練を受けて教育された若いバルカイオーリが少なくとも三人はいた。彼らなら、三年以内にボート競技の主要な世界中の全てのトロフィーを獲得することもできただろう。
ジャルディネットには、あらゆる競技の団体が参加していた。白と黒の誉れ高いブチントーロ、勇敢な白と青のボートクラブであるクエリーニ(全ての賞品を獲得する人々が在籍している)、フットボールクラブ、自転車クラブ、漕艇クラブ、ウォーキングクラブ、フェンシングクラブ、体操クラブに、学校やパレストレの中隊に、そして、"錬金術師 "の称号を持つパドヴァ大学から複製された緑と赤で切り裂かれた中世のベレッタを身につけた古風な工業大学の大隊など。
伝説のPro Calabria Sicilia と書かれた白い腕章が全員に配られていた。その腕章が彼らが生意気盛りであることの証明だった。
集金人が缶をガチャガチャ鳴らしたり、木箱をガタガタ鳴らしたりしている。浅瀬には舟たちが並んでいる。トピ、ヴァレサーネ、パッパリーニ、バルケッテ、カヴァリーネなどの舟の群れがテラスの階段の脇に浮かんでいる。
そして時折、 戦隊は隊列を組み、慈悲深い人々を感動させ活気づける音楽とともに、鋭い日差しの中を行進した。
ヴェニスの礼儀作法としては、イギリス人に対して負担を強いることを避けていたから、クラッブは自分が働く権利を主張しなければならなかった。
「もし旦那様が昨日の仕事を繰り返されるなら......。」
とそう仄めかされていたのだ。
彼は三人の漕手のために辺りを見回した。舟のスピードを加速させることを見越してだった。
小さなブチントーロ号の小柄な操舵手がヘブライ語で志願した。猿のように活発な彼は、13世紀のヘブライ語の可愛らしい名前を持っていて、ウィリアム・GRACE OF GOD・メミ・グラジアデイと名乗った。クラッブは彼を眺め回した。快活な動きとその表情、高慢な小さな鼻、悪魔のような小さな目、そして既に黒ずんいる小さな上唇は、同意し頷いていた。
「旦那様!金髪の人!公正な人たち!」
小鬼はそうジルドに叫んだ。
「イギリス人は私を船首のオールを漕がそうとさせる。」
そう言われて、ジルドは船首に漕ぎに行こうとした。朝日の中に、金色と赤色の6本のクラブの旗がはためいていた。ニコラスが三本目のオールを舟の真ん中で漕ぎ、長くて軽い船体は、敬虔な仕事のために海の上を滑り始めた。
ヴェニスの二本のオール(またはそれ以上の数のオール)を要する船には力が必要だ。ニコラスとジルドのペアは、熟練した幼児のように舟を操った。三本のオールで漕ぐスピードは、かつてない速さだった。小さなユダヤ人は、まるで悪魔のように巧みに舟を操り、汎ゆる岸壁や橋の上で、汎ゆる言葉で、汎ゆる人に、驚くべきヴェニス語を使って饒舌に語りかけた。こうして、サンタ・マルガリータへの旅は始まった。荷物を積んでサンザッカリアに戻る途中、小さなグラツィアーディは貨物の上で煙草を吸って楽しんでいた。その間、ニコラスとジルドは船首と船尾で漕いでいた。
正午になると皆すっかり疲れて汚れてしまって、クラッブはトラットリアで三人で昼食を食べて、その後即座に労働を再開することを提案した。しかし、ヘブライ人はそれを拒否した。後者を嫌がったか、或いは(恐らくは)キリスト教徒と一緒に穢れた豚を食べることを恐れたのだろう。
ニコラスの脳裏には、ファノ・ラッツァーロの水路上にある美味しいコーシャ料理の店があったのだが……(※コーシャ料理とはユダヤ教の食べ物の規定に合致した料理のこと)。
いずれにせよ、メミは手を洗ってシャツを着替えたいのだと、そう言い訳をした。そして彼は逃げ出してしまい、他の者たちは食事を取ると、新しい三人目の漕ぎ手を探すためにクラブへと戻った。
テラスに再び集まった群衆の中に、背が高く、厳粛な面持ちの少年がいた。彼は見た目も良く、真っ直ぐで有能、船首で漕ぐことになった。彼はベルトラミオ・エルナンド・ジュゼッペ・マリアと名乗った。ニコラスはそれでは長すぎると言って、「ゲッツォ」と呼んだ。緑色の帽子とムーア人の青黒い大きな目からそれを取ったのだ。ヴェニスでは、その人の身嗜みが注目され、そこから名前がつけられるのだ。
ゲッツォはまるでイギリス人のように強烈な集中力を持って穏やかに漕いだ。然しながら、彼はいつも通りすがりの女の子たちに目を向けていた。
「なぜあの娘たちのことをこんな風に見るんです?」
ニコラスは彼のそのグロテスクな行動の真似をして尋ねた。
「彼女たちを観察したいんですよ。旦那様。」
ニコラスは声を上げて笑った。
「何ですか?」
ゲッツォは尋ねた。
「英語ではobserveは顕微鏡を通したような入念な検査のことを意味するんですよ。」
ゲッツォはくすくす笑い、
「だから私は観察していたんですよ、彼女たちを。」
と、生意気に言った。ニコラスはこの若者を気に入った。
彼は普通のヴェネチア人とは対照的だった。何よりもお喋りだが、その実、彼らの武勇伝を見つめ続ける観客のように、常に空虚で不安な見通しを持ち続けているようだった。
午後の旅は、雑多な収集があり、多様化した。ニコラスとゲッツォはジルドをパッパリンに残し、狭い路地を歩き回り、できる限り多くの情報を拾い集めた。ヴェニスでの私的な慈善活動には驚かされるばかりだった。その豪華さは公式のものとそっくりで、そこでは必死の秘密主義が繰り広げられていた。ニコラスは幻影となり、スラム街では「カラブリアとシチリアのために」というゲッツォの力強い墓女のような声が響き渡り、驚くほどの敬虔さの泉をもたらしていた。
小間物屋がこっそりと真新しい毛布を20枚を俵に詰めて持ってきた。ジルドはそれらを舟の中に仕舞い込みながら、ヴェネチア人的な驚きをもってコメントした。恐ろしく痩せ細った老裁縫師が不思議そうに屋根裏部屋への階段に手招きし、数え切れないほどの人たちを連れてやって来た。そして 隣人には見られないようにと懇願しながら、分厚いショールを2枚差し出した。もちろん、他の場所であれば、このような贈り物は盗品だっただろう。
「どうやって隠しましょうか?」
とニコラスが尋ねた。彼の腕にはたまたま何もなかった。
「やあ、お婆さん!」
ゲッツォが勢いよく叫んだ。
「あんたのベッドカバー掛けに1リラ払うよ。」
ヴェネツィア人はいつだって何でも売る。ニコラスは笑った。
「いいや。」
ニコラスは言った。
「5リラ分だ。」
彼は祝福の言葉と共にそれを置いた。そしてショールはベールに包まれたままパッパリンのもとへ向かった。
お茶の時間になると、舟が狭いリオ・サンルーカ川に沿ってロケットのような勢いで突進してきた。クローク橋の側の格子の扉から、ゴンドラで家に贈り物を買いに行くのだと叫ぶ、通りすがりの化粧塗れの女性の叫び声が聞こえた。こういったことも、この場所の性質柄、よくあることだ。
そこで1枚5フラン相当の紙幣10枚を受け取ると、それは通りすがりの集金人に手渡された。ニコラスは、大変高価な軟膏も、アラバスターの箱も、金品に関わるものに関しては避けた。それらはマグダラの聖マリアから貧しい人々へのささやかな献金にすぎないからだ。
ああ、なんということでしょう、親愛なる読者よ。
ゲッツォは、立ち去る時、悪戯めいた若者の目つきを浮かべていた。そこには間があった。
「どうしました?」
ニコラスは疑う様子もなく、せっかちに尋ねた。
「僕はよくここで気晴らしをするんです。」
そう若者は微笑みながら答えた。それは、単に巨大な人類の叡智に対する小さな貢献のことを指していた。その瞬間、クラッブはたちまち気分が悪くなった。道徳的な乱れがあったからではない。クラッブだって持っていなかったのだから。しかし、その早熟さが彼の潔癖な本能を害したのだ。彼はゲッツォの細い針金のような上腕二頭筋を掴み、叩いた。そして彼を、ヴェステ通りを上り、マーチストリートの22番地にあるの菓子職人店へと連れて行った。
「イングリッシュ・ティーはいかがですか?ここの紅茶は最高ですよ。いらない?」
彼はコーヒーを注文した。紅茶とコーヒーに、ハムサンドイッチと12種類の豪華なタルトレットが添えられている。
「さてー。」
ゲッツォの白い歯に菓子がしっかり挟まった時に、クラッブは話し始めた。
「よくあのボドレーのことを話せましたね?」
「ヴェニスで一番おいしいんですよ、シニョーレ。」
「どうしてそれを知っているんですか?」
ゲッツォは自慢気に微笑んだ。
「貴方はどれくらいこの大罪を犯したことがありますか?」
それはなかなかに冗談だった。
「月に2度ほどですかね。」
「いつから?」
「約1年前くらいですね。」
「何で支払っているんですか?」
「値段は5フランです。でも私たち学生は3フランでいいのです。」
「そのお金はどこで手に入れたんです?」
「私は週に3フラン稼いでいます。その半分は貯金を。」
「君は何歳?」
「15歳。それと2カ月。」
「違法なことをしたのはいつ?」
「約半年前ですかね。」
「そうですか。大罪を犯すようになったのは、君がまだ小さかった頃ですね。誰が最初に君をそこに連れて行ったのですか?」
「誰も、 シニョーレ。僕は一人で行ったんです。」
「どうしてですか?」
「僕はそこでお祈りをしたかったんです。それに、私の友人の一人は13歳の時に行ったんですよ。」
「君たちは二人とも、大豚の小娘だ!」
ニコラスは煙草を巻き、不愉快そうに吸い始めた。ゲッツォはしょんぼりとしてしまった。このイギリス人が彼を尊敬しなくなるのは当然のことだろうか?そう彼は心配になったのだ。
「君の家族について教えてください。」
また突然、ニコラスは話を続けた。
「君のお父さんは?君はどこに住んでいるんです?何人兄弟がいる?姉妹は?彼らの何をしている人ですか?」
「シニョーレ、父はリヴォルノの英国海兵隊で機関長兼エンジニアとして働いています。僕は叔父さんと叔母さんと一緒に工廠で暮らしています。それから、弟が2人いて、妹が2人いて、みんな学校に通っています。」
「お母さんは?」
「シニョーレ《旦那さま》、(躊躇いがちに)彼女は街に住んでいます。」
「続けて。」
「離婚したんです、シニョーレ。」
「どうして?」
「父と母の性格が合わなかったんです。でも誰も責められません。」
「それは裁判した上での離婚ですか?」
「いいえ。でも、彼らは別れることに同意しています。」
「君は学校には通っているの?」
「ええ。新しい商業学校に。シニョーレ、お願いです。母が離婚したことは言わないでください。」
「私は何も知りませんよ。」
ゲッツォの微笑みが戻った。重苦しかった若い顔に、悪戯な甘さが灯った。
「シニョーレ、クローク橋で邪魔してしまったことを許してください。」
「君は私を邪魔したのではないよ。君は僕をうんざりさせたのだ。」
少年はクラッブをポカンと見つめた。
「それはとても奇妙なことですね。」
と、そう彼は言った。
ニコラスは今度は不機嫌そうに見つめた。
「誰が最初にこの手品を教えたのか教えてくれますか。」
「誰でもありません、シニョーレ。私がそれを見つけたんです。私はそう思います。学校では皆そう話しています。習慣なんです。」
「それがイギリスの習慣ではなかったことを神に感謝するよ。」
ニコラスは吐き出すように言った。
「知っていますか?イギリス人の男の子が、気の置けない知り合いに君のようなことを言ったら、2週間は快適に座っていられないほどに叩かれるんですよ。」
少年の青黒い大きな目がさらに大きく見開かれた。ニコラスは軽蔑と憤りを感じながらこう続けた。
「おませなブタ野郎どもめ!君らくらいの年頃のイギリスの少年はな、フットボールやクリケット、野球、ファイブスをしたりするんだ。それから、彼らは走ったり、泳いだり、ボートを漕いだり、ジャンプしたり、狩りをしたりするんだ。彼らは泥の水溜りで豚のように鼻を鳴らしたりしない。彼らのほとんどは二十歳になるまで、君らの言う罪を知らないんだ。その結果、健康で強くなるんだ 。」
「僕の父は、イギリス人とアメリカ人の船乗りは世界で最も強いと言っています。」
「もちろん。そして、健康的な食べ物と素晴らしいワインを持つ君たちイタリア人は、次の強者なのかもしれない。君らのような小僧のときに、恐ろしい不治の病で恐ろしいほどの馬鹿をやらかさなければね。街でときどき見かける、不潔で首の低いドイツ人の船乗りたちよりもずっと丈夫で、遥かに耐久力があり、遥かに強いんだから。」
「それは本当ですか?」
「本当だ。さあ、このタルトレット(※カナッペなどに使われる小さなタルト)を十二個袋に入れて、私の使用人に渡してください。そして私たちの仕事を終わらせましょう。」
とニコラスはそう言って、彼に会計を払った。
黄昏が深まる頃、彼らは再びパッパリンに戻った。舟は狭く暗い運河に低く横たわっていた。そこには積荷が追加されていた。ジルドは乗船について監督するのに気を取られて、タルトレットのことを意識できていなかった。
「旦那様、許可を頂けますか。貴方の感情を害してしまったことを。私は神の愛のために祈ります。」
「許可する。神の愛のために。」
「あらゆる隙間にフラスコの宝物があるんです。」
「フラスコ?フラスコってなんだ?」
「マルサラワインを20本と、それからピュアオリーブオイルが20本あります。旦那様が留守の間に、ある人が来てこう言ったの。これがブチントーロの英国勇士の舟なのかどうかって。だから私はこう言ったの。「YES」。そうしたら彼は言いました。こんな感じ。ソゾーニョとサルヴィーニという立派な会社が、イギリス人に対する友情からカラブリアとシチリアのbeneficenzaためにこれらの商品を提供したのだ、って。だから私はこう答えたの。「主人はこの会社にとても感謝しております。」
旦那様、お許しを。」
この旅は、パッパリンにとっては最も過酷な旅だった。ジルドはフラスコをとても手際よく、折り目の中に巧妙に詰め込んでいた。しかし、40クォートのフラスコと山のような織物が、五人の乗りの非常に軽い舟に積まれていた(おそらく、ちょっとした荷物は2人分しか積めない)。
そして暗闇の中で、両側にゴンドラが並ぶサモワーズ運河のあの恐ろしい小さな溝を通っていくと、最も不快な恐喝的で意地悪なゴンドラの船頭がきた!
そして、カッレ・ヴァッラレッソ通りでは蒸気船ポンツーンによって突然カナルアッツォに押し出され、そしてそこから来る風と潮の流れに逆らって、サンマルコ盆地を横切ってサンザッカリアへ向かった。ニコラスが陽気に三人とも泳げるから大丈夫だ!と言った。そして積荷は彼のものではなかった。
「お願いです、シニョーレ、明日も来てもいいでしょうか?」
とゲッツォが尋ねた。そのとき、ジルドは夜間に停泊するクラブの柵に鎖で舟に鍵をかけていた。
「もし君が清潔で、今日と同じように働いてくれるのなら構わないよ。」
ニコラスは冷たく承諾した。
ニコラスはジルドを連れてボンヴェッキアティで食事をした。そのとき、彼はレディ・パシュのパーティが終わるまではウォーデンには近づかないようにしようと思いついた。恐らく、彼がわざと二人を拒否していることをこれまでの事例と比較し、二人で協調して審判を下すことだろう。
ニコラスはチキンとミックス野菜のサラダを選んだ。それからジルドが自分の食事を選ぶようにリストを渡した。一緒に食べるという取り決めは、なかなかすぐにはうまくいかなかった。少年のマナーは重要ではなかった。それらは絶妙で目立つことはなかった。彼は健康的な食欲を持っていて、自分の分を味わって最後まで食べた。しかし、彼は幸せではなかった。ニコラスは何故だろうと不可思議だった。ニコラスはジルドに自分の食べたいものを選ぶように指示を与えた。
ウェイターは1リットルの古いヴァルポリチェッラを取りに行った。ジルドはリストを検めると、突然、早口で話し始めた。
「旦那様、聞いてください。私がここで食べる時、ランチとディナーで、旦那様のように、37種類の異なるプレートが用意されます。七面鳥、揚げた雄鶏、揚げた魚、それからマスタードタルト、zabajon がが続きます。そして私は、いつもその後、夜中の2時に目が冷めて、寝室の窓から路地に吐いちゃいます。だから、旦那様、お許しください。私の気品のために、ゴンドリエーレのように食べさせてください。神の祝福あれ。」
「ゴンドリエーレはどのように食べるんです?」
「一つのプレートに、ポレンタかパンを一山、それから小さなビーカーに水を入れたワインを。それで終わり。」
「お好きなように。」
ジルドは笑顔を炸裂させて礼を言い、リストに視線を戻した。しばらくして彼は叫んだ。
「ねぇ!そこの黒人の方。」
少し動揺した cameriereが急いでやって来た。しかし、きちんとした服装で、風格があり、ワインの注文をしてもまともだった。
ジルドはこう命じた。
「片方は茶色のもので、もう片方はとうもろこしのお粥で。そして魚のお出汁は自由に料理に使ってみて。」
ニコラスの目に、茶色と黄色で出来たメチャクチャな料理が入ってきた。それは野獣のようだった。
しかし、その匂いは高貴で、滑らかなものだった。彼は生まれつき魚に対して苦手意識を抱いていた。そして、今までそれを味わったこともなかった。しかし、この「sepe con polenta」は魚のように見えなかった。茶色い塊は豊かで高級なトリュフだったのかもしれない。ジルドはその料理を大いに楽しんだ。
コーヒーと3.45リラの勘定を済ませると、ニコラスは水上で穏やかな1時間を過ごさないかとジルドに提案した。
濃紺に染まった夜、月は欠けていた。
ニコラスは厚手の青いボートマントに身を包んだ。彼は舟を漕ぎたくなかったので、パッパリンの船首の肘掛け椅子に座った。
彼は籐の肘掛け椅子を愛していて、それを「正気に戻れる椅子」と呼んでいた。これは彼に、他のどんな肘掛け椅子よりも遥かに座り心地がいいものだった。
「旦那様、中ですか?」
とジルドはクラッブに尋ねながら、船尾の高い場所にあるヘッドライトに火を灯していた。舟はラ・グラツィアに向かって、自分の考えを醸成させるために、ゆっくりと進んだ。
「旦那様。」
どのような言葉を組み合わせても、ヴェニスの夜の正確な印象を編み出すことはできない。けれども、塗料で描くよりは確実に表すことが出来た。これは、ヴェニスの幾千もの異なる夜のひとつに過ぎない。ビロードのような静けさと爽やかな匂いの、素敵で青い青い夜。
壮大な広さと幅を持ち、バシリカや宮殿や鐘楼が持つより一層の藍の塊が飛び散り、広場や波止場からは、点々とレモン色の光が撒き散らされて、それらは松明の火に照らされて、星を散りばめたランタンが濃紺の海を輝きながら滑空していく。
これを読んでから、ヴェニスの夜を見てみよう。そう、ヴェニスの夜の一つだ、覚えておいて欲しいー。
その後、カ・ペーザロ国際近代美術館まで足を延ばして、この現代美術館がヴェニスの夜をどう表現しているのか見てみよう。
それらは、青さと果てしないほどの星の光以外であればなんでも出来るだろう。それから、広さと静けさと匂い、そしてビロードのような輝かしい深みも。
私はミティ・ザネッティを除く。彼はヴェニスの夜の真実性をキャンバス上に顕すことが出来る。
しかし、彼はカ・ペーザロ国際近代美術館には展示しないし、彼の絵は(色彩豊かではあるが)油彩画でも水彩画でもパステル画でもない。それらは唯一無二のものだった。その静かで超越的な美しさには心が癒された。
舟は緩やかに優しく進んでいく。無限の空を背に高く構えて揺れ動くジルドのほっそりとした美しさは、夜空の濃紺に重なっていくようだった。月明かりに照らされる彼の瞳の輝き、彼の歯の輝き、彼のガーンジーシャツの白い三角形は、暗闇から美しく顕れてきた。
ニコラスは、考えるという仕事をしなかった。意識の流れを楽しんでいた。
サンゾルジの向こう側で、少年はいつもの舟へと急いだ。その背後には、静かな海に映る聖マルコと聖テオドールの柱が縞模様を描くレースのようなピアツェッタの星星の炎があった。前方には、黒い小島をボタンのように連なり留めている南ラグーンの白くて広い銀色の輝きがあった。
ラ・グラツィア、サンクテメンテ、サッカセッソヤ、サントスピリト、 ポヴェグリア、ポルヴクレのサンタンジェロ、アルガのサンゾルツィ、そして金融機関のさまざまな小型のカヌーたちが並んでいる。
ジルドは、船首の下にある戸棚から布を取り出した。そして、ガンウェルを濡らした夜露を乾かすために拭いた。彼はこの種のことをすべて機能的に行った。いつも暇さえあれば、即座に、そして自ら献身的に舟を磨くのに没頭した。ニコラスはいつも彼をつぶさに観察し、彼のことを想像し、知りたい願っていた。彼の穏やかで読めない顔について、彼の穏やかさと間違いのない馬車のような仕事ぶりと身のこなしについて、彼の漕ぎ手として連れてこられた見知らぬ少年たちに対する態度について、彼の仕事に対する完璧なパフォーマンスについて、彼の立ち位置と美しさの概念について、そして、彼は自身の主人の心を理解し、疑うことなく服従する、そのことについて。
彼はなんと素敵な生き物なのだろう!その重々しく説得力を持つ顔はまったく心を隠していないように見えた。そしてそれは非常識でもなく、全く何もないというわけでもなかったのだ。
彼は彼自身のみで充足して生きていた。彼は完璧さと素晴らしさを併せ持ち、貴重な宝石のような純粋さと静けさも持っていた。未だ目覚めていない魂が持つ、とてつもない潜在的な力が、そこには見え隠れしている。これほど満足のいく顔はこの世界に他にはないだろう。そう、一つもない。
この世界の愛らしく、賢しく、善良、醜く、愚かな、邪悪な顔、全てが不安で、全てが利己的で、全てが意地悪で、すべてが不満で満たされていない顔ばかり。
ジルドの切ない花のような顔は、何も考えていなかった。何も欲していないのを知っていた。そうだ、それがジルドが大きく孕んだ特徴だった。自分が何も欲していないのを彼自身が知っている。何も望んでいないー。自分自身に自信があるのだろう。きっとそうなのだろうか……。
ニコラスは不思議に思った。彼には自信というものがあるのか。どうだろう。その静かな警戒心、生き生きとした機敏な活力は、(これまで)決して捕らえることはできなかった。昼寝をしている時も、一目見ただけで静かに動き出すように、直感によって準備をしていて、言葉はほとんど必要なかった。
強く巨大で心ない使用人たちは過去にニコラスを腹立させた。この面白いが面倒な人物たちは、絶えずこちらから突き続けなければならなかった。
ニコラスがちょうど準備に取りかかろうかと考え始めたときに、誰かが『Pronto!』と大声で叫び、誰が口論したのか、誰が命令について話し合ったのか、誰がいつも嘘をつきあからさまで愚かな自己弁解をし始めたのかをそのことに非常に奇妙で彼は当惑させられた。
しかし、責任を見逃すことができるのは、何よりも心強いことだった。
主人が何を望んでいるのか、主人自身がそれを知る前に、どうして正確に知っていたのだろう?(彼の仕事ではないのに)このままでは牢獄に入れられた心の活動のために、多くの鉄格子が取り払われてしまうだろう。
そしてまだ、ジルドは何事について何も特別な懸念を持つことはなかった。
ほとんど質問もせず、犬のような忠実さに身震いすることもなかったのだ。
彼はニコラスがこれまで見てきた全ての使用人よりもはるかに優れていた。例えば、Beneficenzaに関わったあの若者たちだ。ジルドは彼らに対して、なんと巧みに、不敵に、そして即座に注意を払った。あの小さなユダヤ人はー「旦那様!金髪!イギリス人は私に船首でオールを漕がそうとする!」ーあれはなんと不謹慎な発言だっただろうか。当然、一番小さな漕ぎ手が舟の船首のオールを漕ぐものである。そして、ジルドは彼に何も答えなかった。そのエビの上げる金切り声を聞いて、船首のオールから離れていった。そして揺れるガンウェルに沿って、船首まで軽やかに踊るように進んだ。ニコラスに指示を言いつけられる前にである。
そしてその間、サンタマルガリータで積荷を待っている間、メミが自分の英語のお師匠がどれほど金持ちなのか、一体彼がその人にいくら払ったのかや、なぜ彼は常に舟の中で気を逸らすのかなど、お喋りをしていたとき、 ジルドはなんと見事な怠惰な笑みを浮かべて、それを実に皮肉めいた、そしてなんとも言えない程にかむような仕草で(顎を手の甲で擦る素早いしぐさ)を見せてくれたことだろう。
「ああ、お喋り好き、jabberer、prattler、cackler、twaddler、poll-parrot、bibble-babbler。」
と唖然としていた。なんと愉快なことだっただろう。ベネチア人、確かにブチントーロのメンバーは皆、「ニコラスには自分たちの言葉を理解できないんだ。」という固定観念を抱いていた。
その理由はわからないが、恐らくは、ニコラスがいつも彼らに自分の言葉を話させるからだろう。可能な限り自分の言葉を喋らせ、そのお返しとして、非文法的かつ非道い発音の、非常に古風なヴェネチア語を喋ることに、悪戯な喜びを感じていたからかもしれない。しかし、適切な場面においては、彼は自分の前で語られたことを正確に理解し、当惑した態度を見せた。
それにも関わらず、彼らは彼の顔に向かって鼻で唸りながら、彼に理解させようと苦心するのが習慣だった。 そして、彼がついていけないという自由な妄想の中で、彼と彼の行動について議論していたのだ。
彼は、グラツィアデイの不作法はすべて聞いていた。
ジルドが彼に失格の烙印を押して、これ以上親密な関係を築けないようにしたのだ。一方、ゲベルトラミオのゲッツォはというと......、彼はジルドには何も言わなかった。彼の仕事はパトロンとの関係であって、barcaiuòloとの関係ではなかった。ユダヤ人なら召使いと親睦を深めたことだろう。クリスチャンは、自分を主人の客人だと思い込んでいた。それは当然のことだった。
しかし、ジルドにもゲッツォにも共通する資質があった。彼らの若さの持つ真摯さである。けれど、ゲッツォは極めて男性的だった。ジルドはどっちか。ジルドも極めて男性的ではあったが、今、彼らをペアにしてみたらどうだろうか、闇と光、活力と肉体、知識と純真――大いなる天国、いいや、宇宙とは離して考えよう。いや。いや、何もしない。どうして心配する?ジルドに任せればいいのだ。(彼の愛用のきれいな掃除用具を船首の下に収納したまま)ジルドがやるべきことをやってくれるだろう。
実際、ニコラスはジルドに任せておけば安心だと思っていた。どんな状況でも、どんな事態でも、ジルドは完璧に信頼できた。彼は確かに、これまでに与えられた範囲において、パトロンとこの邪悪な世界との間に見事に立っていた。全世界の中で、他に誰がいるのだろうか。
モルレとサルトル、 カリバン、ボブーゴ......彼が少しだけこの中に裏切り者として入ってくるとして?一体彼らに何の意味があるというのか。ジルドのお陰で自分を知り、彼と一緒なら、どんな厄介者の組み合わせにも対抗できると知っていた。そう、そうだ。だが (親愛なる読者よ、蟹の本質的な内面の柔らかさがどのように作用しているか、よく覚えておいてほしい)、彼はこの一つの考慮すべきことをよく心に留めておかなければならなかった。自分のことは自分のことであり、ジルドのことはジルドのことだということ。
確かに、ジルドはニコラスに仕えたいと思っていた。それはどこまでだろう?ニコラスは自分に友人の助けを期待する権利など持っていないことを知っていた。しかし、従者としての助けは受けることは出来る。ニコラスには、それ以上のことを頼んで、ジルドの権利を侵害する権利などなかった。それだけで彼は感謝していたし、賃金を支払い、他には何も求めなかった。
ジルドには、子供のように素朴で、本人は守ることも使うことも知らないであろう権利があった。ジルドは、ニコラスが主張する保護を受けなければならないのだ。彼の名誉と命は、ニコラスに仕えるべきだと主張した。彼は奉仕することを主張した。彼は仕えるべきだった。彼はそれ以上のことを望むだろうか。その可能性を考えることすら許されなかっただろうか。彼の命は救われた。彼は食べ物も、衣服も、住む場所も手に入れ、給料もよく、好きな職業に就いた。その見返りとして、彼は働いた。とてもよく働いた。
Gratitude?そんなものはなかった。喜んで完璧な奉仕をすることで満足するのだ、ニコラスは、そう自分に言い聞かせた。
「Con permesso。」
とジルドは呟いた。
彼の掃除作戦は、いつの間にか主人の椅子に近づいていた。彼はガンウェルに沿って布を広げ、船首を磨くためにバランスを取っていた。ジルドが這うように戻ってくるとき、内気な夜のため息が少し恥ずかしそうに吹いて、彼の額に高貴な波打つ美しい羽毛の輝きが現れた。ニコラスは突然、それを吹いてみたい衝動に駆られた。その美しい感覚的な動きを再び見る束の間のためー、それはニコラスの唇から手が届くところにあった。
「陸地へ。」
ニコラスは即座に命令し、その衝撃を自分で確認し、自分の心を激しく律した。どの類の軽蔑だったのだろうか、まさに競い合う寸前だったのだろうか?その軽蔑は使用人からのものである。
しかし、おそらくジルドが彼を鼻であしらうことはなかっただろう。
(そうだ。この愚か者め!お前には戯れている時間や機会があるのか?)
こう言って彼は、自身の沈みがちな魂を奮い立たせた。
第11章へ続く
次回は12/15頃更新予定です。→自分の創作を優先し、間に合わず…。申し訳ございません。12月中に更新いたします。
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