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ミルキーウェイ

2-5

 気がつくと、草麻生は屋敷の広間で、暖炉の前に座っていた。バスから降りて、林道を歩いてきたのだろうが、どこまでも夢の中で、あの狩屋の屋敷の出来事の全てが幻灯の造り出した夢想以外の何物でもないと思える。火がぱちぱちと弾けている。火の子の舞う様に、鈴の音が重なり、また草麻生は目を閉じた。そうして目ぶたを開けると、そこには薺がいた。薺はつまらなそうに、指先で何かを弄んでいる。それは人形だった。小さな木彫りの馬。その木馬を指先で転がしている。クリスマスの夜に見た赤いドレス姿だった。
「どこに行っていたの?」
「知り合いの家だよ。」
「そう。」
そう言うと、もう薺は何も言わずに、ただ木馬を手の中で遊ばせた。薺の白い手を見ていると、先程までの時間はもちろん、今こうして目の前にいる彼女もまた夢に思えた。草麻生は目を閉じた。そうして、火の子が舞う音を子守歌に、またうとうとと舟を漕ぎ始めた。歌が聞こえた。目ぶたをかすかに開けると、薺が歌っている。昔の歌謡曲だろうか、歌の響きは火の波に重なって、温かに草麻生の耳朶を嬲る。歌声が広間に響くのに、静けさが増していくのはどうだろう。草麻生は薄目を開けて薺を見つめた。遥か万葉の頃からの、物哀しい消え入るように透明な声だった。そうして、その声に連なるように眦を震わせて、泣いているかのように思えた。雫がひと筋彼女のほほを撫でた。
「泣いているのか。」
「歌うときはいつも泣きそうになりますわ。」
歌うのを辞めて、薺はまた木馬を掌の中で遊んだ。
「今日、不思議な人に会ったよ。」
「まぁ、どなたですの?」
「男の子のような、女の子のようなね。」
「どちらでもあるのね。」
「あれは夢だったのかもしれないな。」
「その少年……、少女?」
「どちらでもあった。青髭の館でね、見つけたんだ。地下室にいたんだ。少女のような声で話すんだけど、少年の聡さがあった。少女のように賢しいんだけれど、少年のように無邪気だ。」
「その人は草麻生になんて言ったの?」
「なんて言っていたかな……。彼が言っていたことを思い出そうとすると、すぐに夢に取り込まれそうになるね。ぼんやりと霞がかったようにね。」
「その人の顔は覚えているの?」
「そうだね。それも思い出そうとすると、消え入りそうになる。でも、声は覚えている。君の声に似ているね。君の歌声に似ているね。」
草麻生は顔を上げて、天井を見つめた。火の色に燃えている。改めて目でぐるりと見渡すと、この屋敷は赤に満ちている。目の前にいる薺もまた、赤色に満ちている。
「私の声に似ているって、きっと私が歌っていたからね。あなた寝てたもの。」
「寝ていないさ。僕は君の歌うのを見つめていたんだから。」
「いいえ。寝ていたわ。私は知っているの。きっとそれは夢に私の歌声が交ざりこんだのね。私もよくあるもの。お昼寝しているときにね、テレビのニュースを点けっぱなしにしていると、アナウンサーの声やテレビの音が、私の夢に入り込むのよ。無限のようで、短い時間ね。」
「君も夢を見るのか。」
「そっち?複製人間だって、夢を見るわ。」
薺がほほ笑み、草麻生もそれにつられた。あの夢の匂いは、あの両性具有の人は、全てが草麻生の造り出した夢にしか過ぎないのだろうか。どこまでが夢で、この暖炉の前で見た幻想なのだろうか。薺はひょいと手の中の木馬を投げると、そのまま立ち上がった。草麻生は慌ててそれを受け止めると、薺を見上げた。薺は赤色の中であまりにも白い。幼い頃に見た幽霊のように、揺らめいて見えた。
「今はどんな人形を作っているの?」
「親父が言っていたよ。どうしようもない駄作だと。」
「あら。私は好きよ、草麻生のお人形。」
薺はかすなにほほ笑むと、そのまま背を向けた。そうして、振り返ると、
「早く私に似合いの人形を作ってくださいましね。」
草麻生はかぶりを振った。薺はほほを緩めると、前を向いて、行ってしまった。
 一人取り残されて、草麻生は暖炉の火を見つめた。ぱちぱちと揺らめいている。そうしているうちに、だんだんと、意識がはっきりとしてきて、彼は現実に呼び戻されたようだった。立ち上がると、そのまま階段を上り、原田のアトリエへと向かった。ノックすると、原田は一言、入れとだけ言った。扉を開けると、人形たちが草麻生を一斉に見つめた。そうして、原田は人形に向かい合っている。巨大な、天井に頭が着きそうなほどの人形。巨大な人形は、そのまなこをしっかりと開いて、草麻生と、父である原田を見下ろしている。それは古代の神を思わせた。原田は振り向いて、草麻生は見つめた。ほほが痩けていて、黒い髪は疲れが伝染したかのように、萎れている。
「どうした?」
「今日あいつの家に行ったよ。」
草麻生がソファに腰を下ろすと、原田は何度か頷いて、そのまま自分も向かいあって腰を下ろした。
「どうしてあいつの家に?」
「僕の事を複製人間だと。」
「馬鹿馬鹿しい。」
原田は脣をゆがめて、かぶりを振った。
「つまらない冗談だ。複製人間は薺だけだ。お前も見ただろう。薺の死体を。お前はあれからもずっと生きている。」
「何を作ってる?」
草麻生は巨大な人形を指さした。原田は横に佇む巨大な像を見上げて、
「素戔嗚尊だ。」
「神話に興味があるのか。」
「でかいものを作るときは、神さまじゃないとな。」
素戔嗚尊は、草麻生を見下ろしていた。まだ服も纏っていない裸の姿である。腹が少し出ているが、上半身の筋肉は偉容を誇っていて、その名前を聞くと荘厳なものすら感じられた。原田の指先が作った筋肉。木片から筋肉を掘り出す指先。原田の指先は無骨だが、しかし何よりも繊細に木や鉄から筋肉を掘り出す。そうして、人の形代に命までのせてしまう。
「あんたが神さまのようなものだ。僕にも、薺にも。」
「薺にとってはそうかもしれん。」
「僕にとってもそうだ。あんたがいなければ、僕も薺も生まれようがなかった。」
原田は自嘲したように顔をゆがめた。その目は血走っているように思えた。
「薺は複製人間で、僕は複製人間じゃない。」
「そうだ。」
原田はしっかりと頷いた。そして、その眼は一瞬だが、透明な真理に満ちていた。きらきらと星が舞っていて、澄み渡った。そうしてまた濁りが現れた。
 夢の中で、自分が複製人間であることを願っていた。死んでしまった薺もまた複製人間で、俺たち兄姉は同胞なのだと。俺はただ上手く生き延びただけだ。それならば、どれほどに美しい御伽噺かとも思う。俺と薺は同一で、双子座のようなものだ。複製人間のアダムとイヴだ。そうして、同じように作られた虹彩で見つめ合い、いつしか契りを交わすのだ。全て草麻生のかりそめの夢だが、原田の言葉しだいで、それが夢から落ちてきて、現実になるのだと思えた。草麻生は自分の夢想を掌で弄んだ。そうして、自分がくるくると、木馬の人形を回していることに気付いた。美しい記憶の回転木馬。そうして、記憶がくるくると回るように、薺が水から引き上げられた光景が心に浮き上がってきた。同じシーンを何枚も繋げたフィルムのように、何度も何度も冷たい水の底にいた薺が、原田の手に抱きかかえられる。そうして、原田は草麻生にすり替わる。
「お前の考えていることは幻想だ。複製人間はまだ世界に数体だけしかいない。そして、そのどれもが奇怪な出来損ないだ。奇蹟は薺にだけ降りた。」
幻想が破れた。そうして、出来損ないの複製人間のいくつもが思い出された。この屋敷でお手伝いをしている、名もない人々。魂のない人間。
「逆に薺が複製人間ではなくて、ほんとうの人間なのかもしれないな。」
「そうかもしれないな。だがお前も見たはずだろう。薺の死体を見ただろう。」
またフィルムが脳内で再生される。美しいほどに氷めいた薺の白さよ。
「あいつはあんたの弱みを握っているように見える。」
草麻生は素戔嗚尊を見つめたまま言った。原田はため息をついて、
「金を借りている。莫大な金だ。あいつは合成生物でたんまりと儲けた。」
「どれくらい?」
「俺が人生を五回はやり直さないと返せない。」
原田の顔は引きつっていた。そうして、金の話になると、脣の端が歪み始めた。
「あいつの屋敷で怪しいものを見つけた。」
原田は何も言わずに、上目遣いで草麻生を見つめた。草麻生は気にする素振りも見せずに、
「両性具有の人間。あれもあいつの合成生物の賜物か。」
「両性具有の人間ね。」
原田は頤に手をやると、髭をさすった。髭には白い物が混じっていて、原田の歳を年齢以上のものに見せている。
「少年か少女か、そのどちらもあってどちらでもない、スフィンクスのように妖しく奴の研究室に鎮座していたよ。」
「それはお前の視た夢だろう。」
原田は草麻生の言葉を一笑に付すと、そのまま机に置かれたままのグラスに手を伸ばし、中の琥珀色の液体に口をつけた。
「夢とは思えなかった。僕はあいつと言葉を交わした。あいつは今も、あの闇の中で僕を待っている。」
「人間の牡と牝のキメラか。あいつなら作りかねんが、狩屋の研究はそこまで進んでいない。精々種の混成、それも小動物が関の山だ。」
「僕はあいつと喋ったんだ。あいつは、自分と遊ぶときが幸福だと話していたよ。」
原田の顔つきが変わり、身を乗り出すようにして、顔を草麻生に近づけた。酒臭い息が漂う。
「お前は幻想の中にいるな。しかし、恐ろしい幻想だ。現実と混じっている。」
「幻想と現実?」
「あいつは糞野郎だ。あいつは異常性欲者だ。だが、天才ではない。あいつが作れるのはほんとうに小動物の混成、それが限界だ。」
「あんたは天才?」
原田はまたグラスに口をつけた。原田こそが夢の中にいるのではないかと思えた。眼は先程までの透明感が薄れ、白濁としている。
「だから途中で諦めたのさ。作ることをセーブしたのさ。危険だからだ。ああいう狂った野郎を呼び込んでしまう。」
原田は夢見るように、視線を宙に這わせて、喋っている。草麻生はそれに引き摺られるように、彼の眼を見つめた。そうして、恐れているように見えた。屋敷に籠もって人形を作る。人形はいくつも作られた。しかし、ただ屋敷を覆うだけである。
「金はどうやって返すんだ?」
草麻生の言葉に、原田はかぶりを振った。
「返しようがない。十億もの金額を返しようがない。」
そうして原田はまた酒を呷った。そのまま素戔嗚尊を見上げて、草麻生を見ようとしなかった。
 アトリエから出ると、二階の窓から雪が止んでいるのが見えた。そうして、空は明るく澄んでいた。星々がきらめいていた。部屋に戻ると、薺がいた。薺は、ベッドに上に乗って、天体望遠鏡を手にしていて、そこから窓外を見上げていた。
「何してる。人の部屋で。」
「天体観測。」
こちらを見ることもなく、薺はじっと望遠鏡を覗き込んでいた。草麻生は所在なく、ベッドに腰掛けると、
「何が見える?」
「一角獣座。」
薺はレンズから眼を離すと、口元を緩めた。白薔薇が咲いたようにほほがやわらかい。
「一角獣座の物語は何だったかしら?」
「あの星座には物語はないよ。でも、一角獣はたくさんの物語があるね。一角獣は乙女にしか捕まえることができない。」
「あら。じゃあもう私には出来ないわね。」
草麻生はほほ笑んだ。そうして、
「冬は星がよく見えるな。」
「ほんとうに。どれだけの星があって、どれだけの星が私たちを見ているのかしら。ねぇ、星にまつわるいろいろなことをお話したの覚えてる?ここは天の河銀河だって。たくさんの銀河があるって、あなた言っていたわ。」
「ああ。言っていたね。アンドロメダ銀河や乙女座銀河。」
「私は乙女座銀河がいいわ。」
「どれだけ広いんだろうね。まぁ、僕らには生きているうちに、宇宙に行くことはできないだろうな。」
「あら、いけますわ。」
「宇宙船でも作るのか?」
「いいえ。星が出来るのは、爆発からでしょう?そこから銀河が出来るのでしょう?だったら、こう眼を瞑ってね、そうして心の中で感情を膨らましますの。そうしたら、きっと心に火がついて、爆発してね、私が銀河になるのよ。」
草麻生は何も言わずに、ただほほ笑んだ。そうして、
「君が銀河になったら、なんていう名前の銀河なんだ?」
「そうね。なずな座銀河ね。」
「じゃあ僕は?」
「草麻生は草麻生座銀河。だめね、語呂が悪いわ。それに、草麻生は信じていないでしょう。私は信じているもの。私は星になれるのよ。星みたいにきれいでしょう。」
そうして幼い子供のようにすました顔で、草麻生を見つめた。
「信じるか、信じないか、それで星になれるかが決まるわけだ。」
薺は頷いた。そうして、天体望遠鏡をベッドに放ると、立ち上がり、バレエのステップを踏み始めた。
「こうして踊るとね、お月様か、お星様のようでしょう。」
しかし、草麻生には花にも見えるのだった。美しい白薔薇のようにも見えた。彼女が白薔薇の星座になる夢想が、草麻生の心に浮かんだ。そうして、自分もまたそのときに、星座だった。射手座のように弓を持ち、つがえた矢で彼女をいるのである。
「ママはきっと踊りがとても上手かったでしょうね。」
「僕も見たことがない。でも、親父は言っていたよ。母さんの踊りはとてもきれいだったとね。」
そうして、子供の頃に見た母と原田の写真が、草麻生の心に蘇った。思えば、死んだ薺との思い出は、もうあの死の日しかないのである。それから先、今目の前にいる複製の薺こそが、草麻生の薺だった。この薺こそが、草麻生の半身であり、半神である。先程の恐ろしいほどに奇怪な草麻生の空想よりも、薺の幼い御伽噺の方がよっぽど美しいものだと、草麻生に感じられた。
「草麻生は私と会ったときと変わらないわね。まだまだ子供ね。」
薺はステップを止めると、草麻生を見つめてそう言った。
「今日、御父様に言われたのよ。私は夏に、狩屋先生のお家に行きますわ。」
草麻生は、突然に天井が崩れてくるかのように、足下が崩れ落ちるかのように、臓腑が全て流されてしまった身体のように、心から現実感が消え失せた。
「どういうことだ?」
「パパと狩屋先生のね、お約束がありましたのよ。」
「約束?何の約束だ?」
「そんな怖い顔しないでちょうだい。私は狩屋先生のお家でお世話になりますの。私は二十になったら、先生のお家に嫁ぐのよ。」
「あいつの嫁になるということか。」
「そう。本当は十六の頃にね、行くことになっていたの。ほら、狩屋先生が四年前に来られたときのこと、覚えてる?まだだって、パパが引き留めたのよ。」
草麻生の頭に、原田の眼が浮かんだ。歪で、紫煙の色をした、ひび割れた瞳が、草麻生を覗き込んでいる。そうして、もう一つの眼である。それは透き徹っている、どこまでもどこまでも透き徹り、人を捉えて逃がさない、狩屋のガラスの眼である。そうして、目の前の美しく冷たい水晶の眼は、草麻生をじっと見据えている。睫は幾百の兵士がこちらに向けた弓である。瞬く度に、矢が放たれる。
「先生は私を愛しているわ。だから、私は先生の元に行ってね、そうして、先生と新しい命を作るのよ。子供の頃からね、先生にそう言われて、育てられたのですわ。」
草麻生は目ぶたを閉じた。そうして、ほほ笑んで、立ち上がると、ゆっくりと薺のほほを撫でた。薺は眼を閉じて、嬉しそうに、哀しそうにほほ笑んだ。そのほほ笑みがあまりにも美しいから、草麻生は涙すら出なかった。
 深夜に、草麻生は眼を覚ました。そうして、部屋から出て階下に降りると、暖炉の火が盛っている。その火を、原田は延々と見つめている。鬼がそこにいるかのようだった。あの素戔嗚尊に込められているのは、今この場の原田の魂かもしれない。原田のペルソナは剥がれ落ちて、ただ剥き出しの怒りが顔に浮かんでいた。草麻生は原田の前に立つと、
「恐ろしいことだ。」
「あいつは狂っているんだ。俺も人のことを言えた義理じゃないが……。」
「小さな娘が育つまでか。あいつを異常性欲者だと言っただろう。」
「恐ろしいのはあいつが神になろうとしていることさ。あいつは薺を孕ませるつもりなんだろうな。そうして、魂のない複製人間が、魂のある人間の子供を授かったときに、あいつは神になるんだ。魂のないものに、魂を与えるんだ。」
草麻生は何も言わずに、原田を見ろし続けた。そうして、原田が草麻生を見上げると、その眼に草麻生が何度も見たあの美しい氷のような少女の死体が浮かびあがる。そうして、その少女の死体は、大人になって、今まさに美しい大人になって、また何度も原田と草麻生に抱き上げられる。手をだらりと落とし、冷たい肌には血の色が差さない。なのに、魂が抜け落ちたのにあまりにも美しい。今こうして彼女が夏の盛りの美しい薔薇になって、狩屋の腕に抱かれるのであれば、それは草麻生に許されざることだった。いっそのこと、また水底で冷たい死に抱かれるほうがどれだけかましであろうか。
 草麻生は自分の身勝手な幻想を振り払うと、
「あいつを殺しても構わないか?」
「狂気の眼をしているよ。構わない。だが、薺の心はどうなるんだ?」
「あいつは洗脳されている。」
「狩屋と魂で響き合っている。薺には魂がないが……。だからこそ、神に近しい狩屋に、魂を感じている。」
もはや原田と話すことは何もなかった。草麻生は原田のほほをつかむと、その眼を覗き込んだ。小さな愛らしい愛らしい薺がほほ笑んでいる。曇った眼の中でほほ笑んでいる。

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