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獣姫

5-3

 三日後、自宅に届けられた真田芳雄の作品の目録に目を通す。分厚い革張りの作品集は、先日見た工房に置かれている人形とは別に、既に販売された作品を主に収録しているらしかった。パラパラと頁を捲っていく。気付くと、頁を捲る手を緩めることのない自分がいた。三日前のやり取りが思い出される。自身の小さなプライドを傷つけられた事に対する防衛本能からか、攻撃的になって彼に反論した。反論したはいいが、この作品集を見ているうち、自身の惨めさが浮き彫りになっていくのを痛感する。真田は天才だった。全ての人形が魂を有しているかに俺の瞳に映る。自身の心の内を吐露するかの如くに人間めいた感情をその瞳に宿している。目録は頁ごとに作品の写真、作品の名称、サイズ、創作年月日、価格が記載されていた。どの人形も最低六桁、高い物では八桁のものまで。富裕層でもなければ手を出す事すら憚られる価格帯が作品の下で踊っていた。俺のデザインにその価値はあるか?笑ってしまう程に虚しい需要の違いだけが俺の心の深奥に突き刺さる。B4サイズの版下一枚のデザインで俺が取れる価格はせいぜいが十五万前後だろう。デザイナーとしてはそれなりの地位にいるつもりであったし、他業種と比べても何の意味も無い。これまでも幾人かの芸術家達と仕事をし、彼らの金銭価格や稼ぎ出す金額に対して感嘆してはみせても、嫉妬を覚える事等金輪際なかった。俺を嫉妬させているのは金額云々ではないことを俺は誰よりも理解していた。俺が感じている虚しさは、彼が口にしたデザインという言葉が起因しているのは火を見るよりも明らかだ。舌打ちしながら目録をソファに投げ捨てる。仕事机からキャメルを取り出し、一本口に銜える。甘い煙が肺を満たす。俺は椅子に腰をかけ部屋を睥睨する。市内の分譲マンション。価格は約四千万。真田の人形数体で充分手に入る額。ここに部屋を買うのは冒険だったが、いい加減に地に足をつけ生活したかったのだろう。三十年ローンという言葉も俺の耳を素通りする。部屋は俺の好みの黒を基調とした家具で埋め尽くされている。目の前の仕事机は特にお気に入りだ。数年前に旅行したスペイン・バスクの小さなインテリア家具の店で一目惚れした品。黒、というよりも些か紺色を加えたかの様な艶のある光沢が俺の琴線を刺激した。大枚叩いて買ったこのデスクは俺の仕事の質を上げてくれる様にすら思えた。事実、この机で仕事していた頃、俺の元にはファッション雑誌やファッションビルのカタログ、百貨店の新規ロゴデザイン等複数の仕事が舞い込んで来ていた頃だった。その数ヶ月の働きで一年は食えたものだった。
部屋内をキャメルの煙が満たす。俺は顳顬を揉んだ。俺がしているのは誰にでも出来る仕事なのか。真田の言う通りだった。誰にでも出来る仕事だ。真田のしてきた過去と現在の仕事。そのどちらも独創性と希少性において、俺が手がける仕事と比べるまでもない程、価値あるものだった。この目録を作ったデザイナーは誰だろう?俺は自然と生じた疑問を確かめる為に、カタログを手に取り外装を改める。皮の匂いが鼻をつく。美しく無駄の無いタイトル使い。この仕事を行ったデザイナー、装丁家に敬意が沸き上がる。この仕事を引き受けるべきか、否か。俺はその二択を頭の中で弄んでいた。無論、的場は俺がこの仕事を引き受けることを前提に話を進めている。断られる可能性なぞ露程も頭にないだろう。的場に取っても大仕事だ。幾度か的場に助けられて来た経緯を考えると、今更引き下がるのも気が引けた。手元の目録を眺める。俺には、このデザイナー程の仕事も、そしてあの膨大な真田芳雄の作品と彼自身をレイアウトする自信も、今の段階では決定的に足りていなかった。
 
 的場と待ち合わせしたのは嵐山から程近い珈琲ショップだった。昭和三十年代から一世紀近くもの間、変わらずこの場所に佇んで来たかのような風体の珈琲ショップは、看板のペンキも剥げかけ、色あせていた。約束の五分前に店内に着くと、的場は既に珈琲を啜っている最中だった。
「悪い。遅くなった」
言いながら俺はキャメルを銜え火を点ける。
「いいさ。まだ約束の時間前だ」
オーナーの奥方らしき年配の女性が注文を取る。俺は珈琲を注文した。
「今日は真田先生、不在らしい」
突然の的場の言葉に俺は眼を丸くした。
「不在って…今日は写真撮りもあるだろう。インタヴューも行う予定なんだろ?岡田さんはまだ?」
「岡田君は寝坊だ。あと三十分後にここに来る。大丈夫。先生、勝手に撮影していいって言ってくれてるし、それに下村さんもいるからさ」
「困るな。まぁ真田さんがいなくてもあの工房なら腐る程いい絵が撮れそうだけど」
「だろう?素材には事欠かない。なにせ素材も最高のものばかりだ。今日は下村さんに先生に関するエッセイの執筆を頼もうか。インタヴューでもいいし」
的場は思いついた言葉を速射砲のように放つ。そのマシンガンはショットガンのように周囲に散らばる。珈琲が運ばれて来る。口の中で熱く蕩ける液体に、身体の芯も暖められる。
「目録、眼を通したよ」
「おお、どうだったよ?流石真田芳雄か?」
「天は二物を与えずとは嘘だな。才能はあるところにはたんまりと溜まってるらしい」
俺の嘆息に的場がほくそ笑む。
「そりゃあそうさ。でも真田先生も一朝一夕でここまで来た訳じゃあるまい。人形製作も三十年の月日をかけて培って来たわけだろう?それに加えて今まで磨き上げて来た生命の創造に対する情熱。沢山の要因が何乗にも重なって今の先生になったんだろう」
沢山の要因。様々な要因。その全ては無というものに命を与えることが起点となり、真田芳雄を突き動かしていた。狂気じみた信仰心の為せる業か。
「正直ビビったよ」
的場がポツリと零す。
「何が?」
「お前と真田先生の喧嘩さ」
「喧嘩じゃない。せいぜいが討論だ。それに俺が一方的に言い負かされた」
「先生がお前の自尊心をくすぐるから」
「創作をークリエイティブを生業にした人間には言っちゃいけない言葉があるんだ」
「お前、引こうとしてなかったもんな」
「あの時は頭に血が上っていたしーそれに俺の言い分も最低限は伝える必要があるかと」
ドアが開き、備え付けられたベルが鳴った。皮のジャケットを着込んだ無精髭の男が店内を睥睨している。
「早かったね、岡田君。こっちだよ」
的場が手を振って店内をキョロキョロを見回す男に声をかける。男は細めていた眼をより一層細め、こちらに気がつくと一礼してみせた。
「すいません。遅れてしまって」
「三十分遅れるんじゃなかったのか?」
「ある程度さばを読んだんです。そっちの方が思ったより早かったって喜ばれるでしょう?良い不良作戦です」
なるほどね、と口にし、珈琲を啜る。隣に座った岡田はホットカフェオレを所望した。図体のデカさからは似つかわしくない甘党だ。
「十一時でしたよね?」
岡田の質問に的場が首を縦に振る。
「もう暫くしたら出ようか。今日は写真撮り放題だぞ、岡田君。四谷くんが仕事しやすい様にじゃんじゃんいい素材を撮ってくれよ」
「俺がディレクションしますから。いい素材だけを切り取りましょう」
ブローカーの様に調子のいい言葉を並べて立てる的場を制し、俺は岡田に笑いかける。岡田は困った様にはにかんだ。俺は鞄から目録を取り出し、岡田に手渡した。
「作品集?凝ってますね」
「中身はもっと凝ってる」
岡田が目録をパラパラと捲る。その表情が徐々に煌めきに満ちて行くのが傍目でわかる。再び静かな嫉妬心が心の奥底から沸いて来る。
「綺麗な人形だなぁ。これが稀代の問題児の作品?」
「芸術家は得てしてそんなものだよ。大半が碌でなしで理解不能だ」
「ワクワクしますね。被写体がいいと、俄然写真もよくなるんだ」
岡田はにっこりと微笑みそう言った。的場は上機嫌で頷いていた。俺はまだ断る理由をどこかで探している。
 
 真田の屋敷は相変わらず周囲の風景から浮いて見えた。少しばかり古めかしいだけで、よくある日本の家屋そのものだ。だが、内面が外面に影響しているのか、屋内に眠る数多の人形達の怨念めいた感情が噴出しているのか、この屋敷だけがこの一帯で一際不可思議な異彩を放っている。屋敷では客人を待ちかねたかの様に下村が三人分のお茶を用意していた。
「お待ちしておりました」
慇懃に頭を下げる下村は、僅か数日程度で心無しかふくよかになったかのような印象を受ける。頬が微かに熱を帯び、桜色に火照っていた。下村が出した茶を啜る。中国茶だろうか?下の上でまろやかな何とも言えない甘みととろみが混じり合う。
「美味いですね。舌に何とも言えない感触が残る」
「先生のお気に入りでして」
「先生は今日は?」
俺が口にした問いに対し、下村はただかぶりを振る。
「今日は化野まで」
「あだしの?」
「化野念仏寺。水子供養で有名な寺でございます」
なるほどと、俺はただその応えに素直に頷いた。
 先に下村のインタヴューを行う。携帯に接続された集音マイクが下村の声を綺麗に吸い上げる。当たり障りの無いインタヴュー。眼鏡の奥に秘められた情熱とでも形容しようか、彼が何故に真田に惹かれ、真田の元で修行するに至ったのかを懇切丁寧に拾い上げる。小さな冊子な分、予算も少ない。的場は編集者としての経験からか、読心術に長けていた。紙面の企画構成、そしてインタヴュアーとしても彼はそれなりの物を持っていた。言葉巧みに下村から重要な言葉を引き出そうと、口八丁の質問を始める。生い立ち、幼少時代、趣味嗜好。それらから導き出される言葉はやがて本丸へと近づく事を的場は熟知していた。下村の不遜とも取れる表情の薄い能面にすら、色気が宿ったかのように的場の言葉は彼の心の襞をくすぐる。岡田がシャッターを切る音が耳朶を震わせる。俺は目の前に映る下村のインタビュー頁をどう構成するか頭の中でラフを描く。小一時間程経ち、下村の顔に疲れの色が見えた。休憩がてら河岸を変えようと提案すると、下村は腕を組み少しの間思案していた。
「何か?」
的場の問いに下村は顔を上げる。その顔は先程のインタヴューの成果によるものか、俺達を信用し始めた様に思えた。眼鏡の奥が爛々と輝いている。なるほど的場は人誑しだ。的場の編纂する雑誌でコラムを書きたいと手を挙げる著名人も数多くいるのも頷けた。
「一人。面白い人物がいる。先生のお弟子さんの一人。雛菊さん」
「女性?」
「ほら、以前あなた達も会ったでしょう?先生のお弟子の一人。先生の血縁でもある」
あの美女が頭を過る。うなじに白い体毛を靡かせる狼人。
「彼女にもインタヴューをしても?狼人、失礼。先生に深く縁のある人物なら大歓迎だですけど、彼女は嫌がらない?」
下村は微笑む。
「先生は嫌がるかもしれませんね。先生は元々メディアがお嫌いだし、自身の身内が晒されるのも不愉快に思われる」
「ならば尚更」
「だからこそ、です。先生は怒らせた方が面白い本音を吐きますよ。あなた達はそれこそが仕事でしょう?それに狼人兼お弟子なのは彼女だけ。きっと面白い言葉が聞けるわ」
下村の言葉に的場の口角がひくつく。面白い話だとは思った。的場は間違いなく食いつくだろう。俺が反対する理由もなかった。寧ろ、君に近づけるのなら俺には願ったりだ。
「でも先生が怒って本の出版を差し押さえるかもしれない」
「それをさせないように関係を作るのがあなた達の仕事でしょう?大丈夫。先生の逆鱗に触れるかもしれないけれど、そこまでのことではないわ」
言葉遣いがいつの間にか女性めいていた。下村はどこか中性的な匂いを放っている。的場がチラと俺を見る。俺は肩を竦めてみせた。にべもない、肯定の合図。
 二階の奥の間が君の工房だった。下村が襖を開ける瞬間、俺は遊郭で待たされた筆下しまえの童子の心境に戻る。開いた襖の先、小さなアトリエが俺の眼前に広がる。大小様々な美しい人形達の木枠が丁寧に箪笥や机の上で眠っている。天井から吊り下げられた白色灯は美しい燭台を思わせる。それらに君の仕事道具だろうか、映画の小道具のように玩具めいた工具が細いピアノ線に結びつけられ、天蓋の如く中空で静かに浮いていた。
まだ彩色も済んでいない裸同然の人形。その人形を片手に、Tシャツとチノパン姿の君は襖を開けた闖入者を見つめていた。数多の人形の中に立つ少女。少女というには歳をとりすぎているのかもしれないが、周囲の人形が彼女をより幼く見せさせているのかもしれない。静謐な人形の中に佇む人形師の君もまた同様に人形のようだ。上目遣いで俺達を見つめる君の瞼は長い睫毛に覆われて重たげな印象を与えた。君は無言で人形を机の上に置くと、ペコリと頭を下げて一礼する。その動作に釣られて俺達も同様に一礼する。
「雛菊さん。こちら編集者の方々」
ずり落ちそうな眼鏡を人差し指で押さえながら丸山が言う。君は頷きながらまた一礼してみせた。
「壮観ですね。素晴らしい人形たちだ。」
的場の言葉に君は苦笑しかぶりを振る。髪の毛が揺られて甘い香りが漂う。
「売り物にもならないです。先生の人形と比べられたら玩具同然だわ」
「謙遜ですよ。これだけの人形、そうはお目にかかれない」
的場の言葉の通りだった。幾体もの人形達が紡ぐ御伽の世界がこの部屋の中に構築されていた。それは装飾だけでなく、君の作った人形が醸し出す空気が何よりも重要な素因だ。
「先生の作品は数百万の値がつくわ。時には数千万の。パトロンも大勢抱えてる」
「金額の問題なら俺のデザインは先生の数十分の一の値ですよ。無論、先生に勝てる作品を作れる自身は無いが。それでもそれなりの自信はあるつもりです」
俺の言葉に君の表情が固まる。しまったと思った直後、君は笑い出す。
「いや、俺は値段の問題だけじゃないと言いたかっただけでー」
君は手を差し出し、俺の言葉を制す。その顔は微笑みに彩られていた。
「大丈夫。理解しているわ。でもあなた、ご自分のデザインにもの凄く自信がおありなのね」
「それなりにね。十年以上はこれで食ってるんで」
「あなたは編集者さんじゃないのね?デザイナー?」
「彼が編纂する雑誌のデザイナーです。メインでアートディレクションもしている」
君は挑発めいた微笑みを浮かべ俺を見つめる。俺はなんてことのない涼しい顔を装ってみせたが、内心は心臓が太鼓を叩いていた。
「デザイナーさんに会ったのは初めてよ。と、いうかクリエイターと呼べる知り合いはほとんどいないんです。はほとんど先生と下村さんしか知らないから」
「あまり外へ出ない?」
「それもあるし、時間が惜しいから」
「何の?」
「人形造り」
乾いた音が部屋の中に響く。下村が両の掌を合わせていた。的場と岡田は顔を見合わせて惚けている。俺はまた一人暴走していたのか。
「その惜しい時間を割く事になって申し訳ないのですがね。雛菊さん。あなたにこの方達のインタヴューを受けて欲しいの」
「インタヴュー?」
君の問いに小首を傾げて君は微笑む。下村は彼女の問いに静かに頷いた。
「そう。先生にまつわる言葉をね、あなたから引き出したいのよ」
完全に女言葉へと移行している下村だが、これが普段使いなのだろう、君は特に気にした様子もなく腕を組み、この提案に関して何かを考えているようだった。
「私は構わないわ。でも先生が許さないでしょう?」
下村が肩を竦める。かぶりを振って溜息をつく。
「この方達もね、それを懸念していた。けどね、面白いでしょう?あなたから見た真田芳雄、僕から見た真田芳雄。多角的に見た方が、本当の真田芳雄像に迫れるわ」
「偶像だから崇拝されているのかも」
「だからこそここらで化けの皮を剥がした方が先生の精神衛生上の為にも良いでしょう?」
下村は微笑む。目尻に出来た皺は、真田への積年の思いを伺わせる。それが愛憎なのかどうかは今の俺の知る所では無かった。君は若干の逡巡の後、小首を縦に振る。
「いいわ。インタヴューは先生にまつわることだけ?」
的場が首を振る。
「あなた自身の事も話して欲しい。君自信の事柄が先生へ繋がって行く鍵になるから」
「インタヴューはこの部屋で?」
「宜しければ。あなたの部屋の写真、あなたの人形も撮りたい」
俺の言葉に君の表情が歪む。
「それはだめ」
有無を言わせない強い口調だった。君の態度が一変に硬化したのが部屋全体の空気から感じられる。
「何故?」
「先生の人形と私の人形。較べられるでしょう?それが耐えられない」
職人気質?プライドが許さない?君の発言の真意は不明だが、君の要求を呑めないのならこのインタビューの敢行が不可能になるのだと言うのなら、こちらは引き下がるほかなかった。
「構わないよ。じゃあ、あなたはインタヴューだけ。人形も、部屋の写真も撮らない。あなたの写真は?」
「出来るなら出たくはない」
「何故?あなたに興味のある人はたくさんいると思うし。やはり実像があった方が読者も喜ぶ」
的場が食らいつく。狼人を紙面を飾る。売り上げに直結する美味しい素材を的場がミスミス放置するとは思えなかった。
「インタヴューと肩書きだけなら構わない。それ以上は私の今の生活を壊す事になりうるから」
こう言われたら的場も引き下がる他なかった。口惜しそうに渋々頷く的場の顔に俺は思わず吹き出しそうになる。
「念のため撮影はしておきたい。人形は写さない。あなただけを写すから」
俺の言葉に君はしょうがないとばかりに苦笑して頷いた。岡田の顔が生き生きと輝き出す。岡田がライトの準備を行う間、俺は質問内容を的場と打ち合わせする。横目に君の微笑んだ顔が浮かび上がる。

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