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獣姫

3-3

 邸宅は静まり返っていた。難波を車から下し、肩で支えながら玄関まで歩いていく。
歩きながら俺は奇妙な事に気付く。お前は先程から唸り、吠える。それだけだ。俺は一度もお前の言葉を聞いていない。お前は言葉を喪ってしまったのか。それとも、お前は最初から言葉等持たなかったのか。静まり返った邸宅には東条の兵隊の姿形もなかった。ハッタリ、東条のハッタリだったのか。夏子が慌てた様子で奥から駆け寄って来た。俺はお湯を用意させた。蔵へと難波を運び込み、昔懐かしい様々な器具で埋め尽くされた場所で俺は再び難波と二人きりになる。何度お前を手術したことか。何度お前の命を助けた事か。有り合わせの道具しかないこの蔵の中が即席の手術室となる。難波を産み出したのが俺で良かった。俺以外の誰かが難波の肉体に触れたのならば、卒倒しても可笑しくないはない。難波の身体を構成する様々な要素を頭に叩き込み、産み出した俺だからこそ、その身体が包括するあらゆるものをこの手で知り尽くした俺だからこそ、奴の身体は再び息吹を吹き返すのだ。大量の血が難波の身体の中から溢れ出る。俺は細胞一つ一つを丹念に愛でるかの様に、奴の身体を点検していく。俺の額が汗に塗れ、零れ落ちそうになる度に夏子の手がそれを優しく拭い取る。片目での手術。俺自身怪我を負った身だというのに、時間が経過するにつれ集中力が鋭く増していくのだ。俺が夢中で難波の身体にメスを入れ続けていると、その腕をキツく握りしめられる。難波の眼が俺を見据えていた。その瞳は疑いなく震えていた。お前と自分の未来に巨大な不安を宿した瞳。いつか難波と俺は互いに自分たちが消費して来た命を思う機会があった。そのツケが回って来たのだと。今こそそのツケを払っている最中なのかもしれない。難波の力強く、同時に弱り切った手をそっと握ってやる。
「大丈夫だ。安心してろ」
難波は微笑み瞳を閉じる。神様がいるのであれば今こそ俺に力を下さい。娘が悲しむ顔をもう見たくないんです。こいつは俺の息子同然なのかもしれないんです。飛び散る難波の真っ赤な鮮血が俺に必死に命乞いをしている。
 手術が終りその後、難波は生と死の境を彷徨った。文字通り彷徨したのだと奴は笑って言った。なにせ警察に嗅ぎ回れる前に朦朧とした難波とお前は長野へ渡ったのだから。難波は起き上がり様感謝の言葉を俺に告げた。二度死の淵から戻って来た奴の体臭は、以前よりも何倍も獣の香りを宿していた。
 
 俺は翌日から事件の渦中の人物として取り沙汰された。死体として発見された東条一派。異形の生物の死骸。新聞やテレビは連日連夜この事件を取り上げる。警察が来るわずか前に経った
お前達の姿は、写真や映像にいくつも押さえられてはいたが、その何れもがお前達の存在を特定し確定する判断材料としては乏しく、都市伝説を育む為だけの素材に留まった。二頭の獣の姿を見たと唾を飛ばして騙る者や、いやあれは人間だったと反論する声も聞こえた。俺はそんな声はどこ吹く風だった。これから俺はマスコミや政府の連中による袋だたきの対象になるのだろう。鳴り止まない電話は夏子の精神をますます疲弊させていく。俺が夏子に与えたのは一時の愛と心蝕む非日常か。だが、俺達夫婦の事よりも、俺はお前達夫婦の事が心配でならなかった。難波は立つ前に俺の事を先生とは呼ばず、お義父さんと呼んだ。お前達が異種間結婚をすることにも最早驚き等微塵も無い。ただ、お前達の行き着く先を思い茫漠たる不安に苛まされるのだ。
 東条の兵隊が来る事はなかった。奴らに眼をつけられてはいたが、本人が死んだ今は最早次に寄生する対象に躍起になっているのだろう。少なくとも俺達夫婦は奴らにとって殺す価値もなく、同時に合成生物の研究は金に成り得る事を知ってはいても、知識の無い連中には単なる朝三暮四だと見切りをつけたのだろう。俺が恐るるべきは政府、警察、公安、マスコミ連中だった。ありとあらゆる秘密を俺達から引き出そうとする。俺達のプライバシー等あってないようなものだ。俺が折れてお前達の存在を漏らした時、それはお前達の終りを意味していた。口が裂けてもお前達の存在を語る事など出来ないのだ。あらゆる取り調べが俺に施され、あらゆる尋問が繰り返された。俺はあらゆる嘘を並べたて、お偉方を煙に巻く。俺を突いても何の旨味も無い事を教えてやる。獅子王の塩基配列のデータを奴らは欲しがった。俺を法律で裁く事も出来るのだと地方検事補が歯を剥いて笑った。俺が犯した犯罪の数々を不問に付す代わりに差し出された条件は、俺が抱える獅子王のデータ。奴らはノーベル賞もののこの発見と創造を共通の資産にしたいと申し出た。俺に提示された額は三億円。端金だが、余生三十年なら静かに暮らす事が可能な額。奴らが共同研究として本格的に獅子王の培養に成功すれば、その何百倍もの金額になって奴らに還元される。パンドラの箱を開けたのは俺だが、いつも最後にはその中の物を狙う連中に散々荒らされ悲劇が拡散する。俺は奴らの提示した条件を呑んだ。ほぼ死に体となっている俺には充分過ぎる額。そしてその見返りに俺は静かな暮らしを約束される。充分過ぎる条件。騒ぎが鎮火し、周りを囲んでいたマスコミ連中が消えていくのと同時に、何かを思案だけの時間が増えた。俺は再び禁断の研究に手を伸ばす。それを実現する為に躍起になるのではなく、いつかお前達が帰って来たその日の為に何かの役に立てたらと願いを込めて。再び動き出す、お前の為の器。お前と難波の為の器。

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