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貧乏で書くか、金持ちで書くか。

川崎長太郎は私小説家であり、住んでいる家に激烈なインパクトを齎す作家である。実家の物置、トタン小屋である。

こんな家からこんなおっさんが出てきたら、そら怖いよな

有名な作品では『抹香町』というものがあり、まぁ、貧乏な永井荷風みたいな感じである。


抹香町は私娼窟街であり、彼はここに入り浸っていて、その体験を元にした小説を多く書いている。それが2度ほど、ブームになったそうだ。

永井荷風といえば、超大金持ちであり、それは印税というよりも、実家が糞金持ちなおかげで、糞ボンボンという、ナチュラル・ボーン・金持ちである。


永井荷風は『濹東綺譚』とかで叙情性のある娼婦との戯れなどを詩情豊かな世界を書いたが、川崎長太郎には詩情はない。ダラダラとどうしようもない日々が流れていく〜的な感じである。
そこに、物語的な面白みはあまりないのだが、女性との感情のやりとりの末の破綻などが面白い。

私は川崎長太郎のいいファンではないので、彼の作品の多くを読んでいないが、彼は弟を生贄して文学に生きる道を選んだ。本当には、実家が魚屋さんだったのだが、地に足のついた仕事よりも文学を選んだのである。そのせいで、弟が家業を継ぐことになった。

100年前も同じである。文学とは、本当には金のある人間の世迷い言であり、貧乏人には贅沢な嗜好品なのである。荷風みたいに、金があって仕方ねぇぜ、的な感じ、それは川崎長太郎文学には無縁なのである。

戦中は文学は滅殺されたが、戦後になると娯楽に飢えた人が多く、活字が欲された。それは、戦禍に巻き込まれた神戸の俳人西東三鬼も同様のことを書いていた。
長太郎文学も一時期はたくさん売れたそうで、然し、また困窮して、そのあとで、また晩年にブームになり売れた。

読んでいて、気が滅入る、というわけではない。気が滅入るのは車谷長吉とかの私小説だが、川崎長太郎のものは、どうしようもないねぇ……、という諦観があって、そこに逞しさが根付いているようでいい。

まぁ、本来的には、文学というのは金持ちの世迷い言であると同時に、貧乏人にはきよい魂の発露なのである。
仮に、売れずに困窮していようが、小説というものはそこから底辺が本領発揮なのである。

そもそも、藝術を志すというのは、西村賢太の言うところの、人生を棒に振ることであり、それで生計を立てるなどとは烏滸がましい話である。
まぁ、川崎長太郎はそれで生計を立てようとしていた、いや、立てていた時期もあるわけなので、別に間違ってはいないが、印税で暮らす、とか、小説家志望の方はそのような幻想は捨てたほうが潔いのではないかと思う。つまりは、一角の作家になり、稿料だけで食える人間になる、或いは、その界隈にまつわる仕事だけ食えるようになる、というのは作家として目指すべき道なのかもしれないが、別に、他の仕事をしているからといったって、小説を書けない道理はないのである。

人生は長いようで短いが、然し、書く時間は無限にある。
その時間を捨てているのは自分であって、その気になれば、本当にたくさんの作品を書くことも可能なのである。
然し、結局は評価がついてこない、金がない、困窮、そらバタンキュー、になり、人々は筆を棄てる。趣味ではいいのではないか。趣味も半世紀も続けていたら石をも穿つ。今生で認められていないのであれば、来世があるのではないか。

川崎長太郎の小説に、『無題』という、徳田秋声に見出されたデビュー作があって、それはとりとめもない文章である。無題、とは、本当に無題であり、これはある種、完成されていない、小説未満の拙い文学の卵に過ぎないよう思える。けれども、とても瑞々しい感じがあり、今ならば、小説にはなっていない、という、あの、選民思想めいた、よくわからない論理をかざされるであろうその文章には、川崎長太郎本人の魂が宿っていて、それは続けて続けて書かれていく中で、その力が獲得された。

誰にでも、『無題』の作品はあるものだ。その無題を磨くか磨かざるか、それは、詰まるところ保証のないものであり、ハッピーエンド未満の物語の主人公になるなど、到底は許容出来ない人はそもそも文学という魔薬でオーヴァードーズを起こすため、今すぐに筆を放擲したらよろしいのではないかと思う。

まぁ、川崎長太郎はそもそも実力のある人で、芥川賞候補にもなり、若くして有名作家にもその才能を認められているほどなので、世間一般とは異なるけれども。

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