見出し画像

薔薇の踊子

1-21

 絵里奈は発表が近づくにつれて、ナイーブになるどころか、だんだんと大胆に、皮を剥いたように、新しい表情になっていく。その新しい色合いに、恵はどきりとさせられる。それは、一緒に練習していても同様で、ふいに、絵里奈から、ローザンヌのビデオ審査の踊りは何を選んだのか尋ねられたとき、これほどまでに、大人の娘になっていたのかと、驚かされた。そうして、そのような恵の心境はお構いなしに、絵里奈はほほ笑みながら、
「私はオーロラのヴァリエーションにするのよ。」
「そういえば、えりちゃん、オーロラの練習よくしてたもんね。」
「めぐちゃんは?」
「決めかねてたんだけど……。」
結局、キトリのヴァリエーションを踊ることにしたのだった。サタネラのヴァリエーションがあれば、それを選んだのだが、課題曲にはなく、どうしようかと思案していたときに、国元が助言してくれた。小柄だが、キャラクターとして映える素養のある恵には、キトリが案外向いていると、それは古館の助言でもあったのだがー……、しかし、恵はキトリは踊ったことがあまりない。それどころか、ディベロッペ・エカルテ・ドヴァンなど、苦手な技もあった。しかし、アラベスク・ピケや、ディベロッペ・クロワゼ・ドヴァンなどは、綺麗な立ち姿もあって、様になる。何よりも、その山猫めいた顔立ちが、きれいに立つとすっとしなやかな動物めいて見えて、オリエンタルに美しく見える。そうして、レッスン場では、キトリのヴァリエーションを続けて、コンテンポラリーでは、○○を選び、これは吉村の下で特訓をした。それに加えて、白鳥のコール・ド・バレエ。そうして、学祭のジュリエットと、十五歳の頭と身体を総動員して、何とか全てを踊りきろうと、努力を続けた。そうしているうちに、次第に、その全てが重なるようで、三ヶ月での自分の上達が、恐ろしいほどに感じられた。それゆえだろうか、一年前のビデオ審査、なぜあのような演技で満足していたのか、それもまた恐ろしい、若さ故の無知無謀だろうか。
 教室からローザンヌへ挑戦するのは、深雪と、真帆、それから十四歳になったばかりの佐理、そして絵里奈と恵の五人である。吉村も国元も、勿論全員が参加出来れば夢のようだが、現実的に、深雪と絵里奈、この二人が通るものと考えている。しかし、恵はわからない。実力は充分にあって、華も出てきた。そうして、踊りに自分なりの美学が感じられるようになった。正直なところ、この三人共が、ビデオ審査を通過しても、全くおかしいとはおもえないほど、実力がついている。
 そうして、教室は、秋の公演と、ローザンヌの審査とで、もう目も回るほどの忙しさだった。絵里奈も、もう自分の中に籠もり始めて、恵を見てくれる時間が減った。しかし、それで良いのだと、恵にはわかっていた。もはや、踊り手同士は、ある意味ライバルであって、ミーアが公武に向けた視線の意味も、彼がそれを忘れようのなかったことも、恵にはわかっていた。ただ、恵には、あの晩に見た、公武と川端の、悪夢のような交感に、心がまだ乱されていた。それは、時間を経て行くにつれて、次第に薄れそうでもあったが、薔薇の棘のように、いまだに心の深奥に刺さって、あの夜の鈍痛を引き戻す。その鈍痛が踊る間際は消えても、踊っている時に、彼女の足から胸、そうして頭までにも浸食する。踊り終えると、いっそうに寂しさが募って、もう立てないほどだった。
 あれから、練習の終わりにベッドに潜り込むと、スマートフォンで、ニジンスキーを調べた。彼が、ニジンスキーの複製人間だと聞かされた時には、調べようともしなかったのに、今はその昔の人を、誰よりも調べて、そうして、ディアギレフとニジンスキーの、同性の愛を知って、それから、モーリス・ベジャールとジョルジュ・ドンの、同性の愛を知って、しかし、だからこそあれほどに美しいのだろうかと、もう今はこの世にはいない幽か存在を夢見た。その幽かな存在の複製で、焦がれている彼も、また同性を愛しているのか、それとも、川端からの一方的な愛なのか。しかし、川端はコリオグラファーではない。ダンサーですらない。あの二組とは決定的な隔てがあって、それは揺るぎのないものである。そうして、川端は公武の心がないと、そう言っていた。魂がないと。魂がないと言って、彼のむき身の魂を傷つけたのであるのならば、それは一番の罪だろう。そうして、公武のむき身の魂に触れたのは、共に踊った恵だけだろう。恵は、目ぶたを瞑った。星がしらじらと舞っている。恵のことを、白薔薇の星座と言ったのは、公武だった。そんな星座ないでしょうと、そう尋ねようと思ったけれど、言葉にすると、本当に無くなってしまう。それなら、彼と私の中で、二人の中で、白薔薇の星座が空でくるくるとピルエットを回るのならば、それでいいのではないかと、もう何も言わなかった。
「ニジンスキーとディアギレフね。」
クラシックのコンテの練習が終わって、ビデオ審査の撮影を頼むカメラマンに、国元は電話をかけていて、その隣で、恵の問いに、古館が呟いた。
「恋人みたいなものでしょうか?」
古館は唸って、なんと説明して良いのかわからずに、
「盟友みたいなものだろうね。」
「盟友?」
「はたまた、戦友みたいなね。志を同じくとしていて、互いに高め合っていく仲、みたいなものかな。」
「でも、本とかで読みましたよ。二人は愛し合っていたって。」
愛する、愛し合う、そのような言葉が、自分の口から出て驚いて、そうして、
「公武君がそうなのか、気になるの?」
古館が尋ねると、恵は何も言わなかった。少女の恋の光るようなのに、古館は心の温まったが、しかし、何故彼女がそのようなことを気にし始めたのだろうか。複製人間が、どれほどまでに、その素体の影響を受けているのか、同一なのか、まだ未知の分野だと、雑誌の記事で簡単に触れていただけだから、古館にも軽はずみなことは言えなかった。恋をして、その相手が知りたいあまりに、彼女は伝記などを読み込んだのだろうか。そうするならば、伝記というものはあまりにも罪だと、古館には思えた。複製人間が生まれ落ちたのならば、それは、誰かの複製であって、人形のようなものだ。当然、人格はあるけれども、しかし、彼ら彼女らと生涯を共にする決意をした人がいるとして、必ずその素体のステータスや、歴史を紐解くことになるだろう。そうであるのならば、彼ら彼女らは、自分たちも見たことのない景色を責められるのか。そうであるのならば、いっそのこと、その素体のままに復活したのならばどれほどいいのか。しかし、そうであるのならば、また別の問題が発生するのだろう。
(堂々巡りだな。)
古館は、もう考えることに、何も意味のないように思えて、
「公武君はまだ少年でしょう。まだ恋もしてないだろうね。それだから、大丈夫じゃないか。」
何が大丈夫なのか、古館は自分で言っていてもわからなかったが、しかし、恵はまだ納得しかねるようで、俯いていた。そうして、スマートフォンを仕舞うと、国元は古館たちの所に戻ってきて、
「恵ちゃん、あなたも来週、撮影大丈夫かしら?」
「え。撮影ですか?」
「そう。絵里奈の審査用ビデオの撮影を村上さんにお願いするの。どうせなら、五人まとめて終わらせたいのよ。お金の問題ね。」
国元はそう言うと、ウィンクして見せた。あと二週間ほど猶予があると思って安心していたが、絵里奈の撮影はもう五日後である。恵は急に不安になって、
「先生、私、まだ練習が不十分だわ。」
「自信がないの?」
国元の、挑発めいた物言いに、恵は、最近なりを潜めていた山猫の形相になって、
「大丈夫、だと思います。」
そう言うと、二人の下から離れて、バーレッスンを始めた。その様子を見ていた古館は、
「相変わらず容赦ないね。」
「もう恵ちゃんも充分キトリを踊れてるわ。一度撮影しておいて、もしそれで仕上がりがまずいなら、もう一度撮っておいた方がいいし。」
「なるほどね。」
国元は、万が一のことを考えて、恵のビデオ撮影を、二回するつもりなのだろう。予算は嵩むが、しかし、そちらの方が確実だろう。
「ねぇ、さっきは何を話してたの?」
国元に振られて、古館は応えにくそうに咳払いすると、
「はじめに、僕らの仲を尋ねられてね。」
国元はきょろきょろと周りを見渡して、
「なんて答えたの?」
「もうみんな知ってるからって、そう言っていたよ。」
「ねぇ、なんであの子はそんなことをあなたに聞くのよ。」
「僕と君が愛し合っているか。ダンサーが愛し合うのはどういうことか。愛し合うダンサーがパートナーになって踊るパ・ド・ドゥは、どんな気持ちなのか。」
古館の言葉に、国元は言葉が出ずに、
「それで、あなたはなんて?」
「どうだろうな。俺はそういう風に考えたことがないんだ。ただ踊りが得意で、踊ると自分がどこまでも高く昇っていきそうになるから……。」
「そこに私は介在しないわけね。」
古館の答えに、国元は臍を曲げたのか、心なしか声が低くなった。
「うーん、踊りと君とは、俺は分けて考えてしまうな。ダンサーによって、答えは違うだろうけれど……。」
そうして、古館は、先程恵が尋ねていた、ニジンスキーとディアギレフ、モーリス・ベジャールとジョルジュ・ドンの関係を、改めて考えた。あの二人は、それぞれに異性の恋人や配偶者もいたはずだが、しかし、それぞれにメンターとミューズの関係があったのだろう。男をミューズと呼ぶのもおかしな話だが、しかし、どちらも女の色香があるから、それぞれが芸術家の魂を虜にしたのだろう。そうして、ニジンスキーは、踊ることを神と交信すると、語っていたことを、古館は思い出していた。ジョルジュ・ドンとベジャールは、ダンスは愛そのものだと、語っていた。それであるのならば、自分にとって、ダンスとは何だろうか。他者が介在しないダンスに、意味があるのだろうか。まだ幼い恵は、何を思ってダンスを踊っているのだろうか。この、小さなバレリーナたちは、ローザンヌに向けて、あるいは公演に向けて、あるいは発表会に向けて、それぞれが練習に勤しんでいるわけだが、彼女たちはまだ鏡に映る自分だけに向けて踊っているのだろうか。そうして、自分が介在していないと、不服そうな国元は、自分とのパ・ド・ドゥで、愛を感じているのだろうか。古館はしばらくの間、バーで足を伸ばす恵を見つめながら、なんとなはしに、思考を漂わせていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?