見出し画像

獣姫

4-2

 君がチーズケーキを食べ終えたと同時、僕らは席を立ち北山の老舗着付け店へと赴く。閑静な住宅街に不釣り合いな町家。改装したのだろうか、縁側部分がショーウィンドウになっており、白く鮮やかなウェディングドレスや、雅な和装で着飾った二体のマネキンがお出まししてくれた。ごめんくださいと声をかけると、壮年の女性が微笑みながら近寄って来る。
「おおきに。いらっしゃいませ。ご予約のー」
「難波です。今日は娘の付き添いで」
「よろしくお願い致します。さぁ上がって下さいな」
香の匂いは周囲の部屋の奥から漂ってくるのだろうか。周囲の喧噪とは縁遠い不可思議な程の静けさに、異界に迷い落ちたのかと錯覚する。
「それじゃあ、お嬢さんはこちらに。お父様方はー」
「ここで待ってますよ」
「覗いちゃダメだからね」
君は悪戯っぽく僕たちに微笑みかける。僕は苦笑してかぶりを振る。
襖がパタンと閉まり、君は部屋の奥で先程の女性と何やら話し込んでいる。と、僕の脇を通って今度は中年の女性が襖の奥へと消えて行く。手には艶やかな紋様の着物と帯を持っていた。
「随分豪勢なお店ですね。お値段も張りそうだ」
門馬が周囲に飾られた掛け軸を見つめながら呟く。
「丸山君ー國子の許嫁に紹介してもらいました」
「丸山が?」
「彼は僕らの事情をよく知ってるから」
門馬は静かに頷いた。丸山は門馬の後輩に当たる。まだ二十三歳だが、獣医として門馬の家で働いている。京都ではそれなりの名家の出のようで、なかなかの資産家だ。岩倉のあたりに実家があると聞いている。君と出会ったのは確か、今から三ヶ月程前、門馬の付き添いで屋敷にきた時だった。あの時、先生は酷く怒り狂った。門馬が先生の信頼を破ったことに対して大層ご立腹だったと記憶している。僕自身、突然の訪問客に狼狽えはしたが、君の体調が優れなく二度も吐いていたことから、門馬を責める間もなく家に上げ、君の体調を診てもらった。門馬と丸山は的確な診断をしていた。解熱剤を打ち、容態が落ち着いた君の手を丸山は延々と握っていた。他人に対してひどく警戒心を露にする君が、丸山に対しては一切の疑いを持たなかった事を、暫くしてから気付いて愕然とした。その後、丸山は何度も君に会う為に診断に訪れていた。丸山の一目惚れだった。君も悪い気はしていなかったのだと思う。いつ頃か、門馬と丸山のコンビは丸山のシングルへと変化し、丸山は君の主治医になった。先生は丸山の対して敵愾心を露にしていたが、君が彼を邪見にする態度に難色を示したため、渋々とではあるが二人の仲を兎や角言う事は無くなった。
「逆に事情を知らない連中と絡むことが多くなる。難波さん、それは理解してるんですよね?」
「先生の考え方は紛れも無く正しい。それは僕もそう思います。國子はいつまでも篭の鳥として生きるべきだーそれを僕が言うのは筋は通るが、資格はないんでね」
僕は嘆息する。門馬の言う通りだった。先生の言う通りだった。今後君が生きて行く上で立ちはだかる数えきれない程の障壁。それらをすんなりと飛び越えて行くのは限りなく困難だ。僕のちっぽけな脳味噌で考えるだけでも、数百という問題が大口を開けて君を待ち構える。顳顬を揉む。曾末なことは今は気にしないことにしている。どの道、状況はこく一刻と変化し、その都度対応しなければならなくなるのだから。
「ねぇ、パパ。見たい?」
襖の奥から君の声が呼びかける。
「ああ、見たいよ」
僕の答えに満面の笑みを浮かべる君を容易に想像できる。襖が開き、着物姿の君が姿を現した。門馬が着物の色を順に口にしていく。紅色の唇。桜色の頬。微かに耳を彩る白い体毛も艶やかで美しい。真紅の着物に添えられた青い紫陽花の装飾が眼に涼しい。紺色の帯も、君を包む赤色の着物をより一層映えさせてくれる。人づてに聞いた色合いと記憶にある色合いが混じり合い、モノクロの世界に色を浮かび上がらせる。最初は不可思議な感覚だったが、なれた今では色盲も悪くない。
「綺麗だよ。國子」
僕の言葉に君は嬉しそうに頷く。門馬も横で見惚れているのがわかる。君が近づいてくるにつれ、柑橘系の匂いとお香の匂いが混ざり合い、媚薬のような甘い匂いを醸成させていた。隣に付き従う女性二人が、言い方は悪いが君の美しさを際立たせてくれる。
「とても綺麗だ。ママに見せてあげたいよ」
言い放ってからしまったと思ったが、それはもう後の祭りだった。君を覆う笑顔は直ぐに雲で覆い隠され、無表情で固く一文字に唇を結ぶ。
「ありがとうございます。とても綺麗にして下さって」
そう店の女性に語りかけながら、自分の口が軽はずみに滑った事を悔やむ。君の顔が曇り空に覆われていく。
 夕方の六時から今出川の老舗の天麩羅屋で挨拶を交わす約束だった。両家の親が集い、若い二人の結婚の意を確認し合う。北山から行きのタクシーの車中でも君は塞ぎ込んだまま、窓の外を流れる京都の町並みを見続けていた。門馬は何食わぬ顔でタクシーの運転手と政治について語り合っている。いつもはタクシーの運転手に話しかけられるのがうざったくて仕方ないと文句ばかり言っている割には、今はこの空気からの唯一の脱出路だとばかり、嬉しそうに運転手とぺちゃくちゃ喋っていた。
「悪かったよ。さっきは」
沈黙を破ろうと僕は謝罪の言葉を口にした。が、君は我関せずといった澄まし顔で無視を決め込む。溜息をついて、座席に凭れ掛かる。九月は日の落ちる時間も早い。賀茂川は薄闇に落ちて行っている最中だった。
「運転手さん、私ここで降ります」
突然の君の宣言に僕は困惑する。
「今出川じゃなかったんですか?」
運転手も同様に困惑しきりだ。門馬だけがまだ政治経済に関しての持論を一人捲し立てている。
「二人はそのまま今出川まで。私は歩いて行きます」
「何を言ってるんだ。運転手さん、そのまま今出川まで行って下さい」
「いいの。ここで降ろしてください」
僕と君のやり取りに運転手は困惑するばかりだ。
「わかった。僕も降ります。運転手さん。ここで僕たちは降ります。門馬くん。君は先にお店に行っててくれるか?」
門馬は何事だと言わんばかりの顔つきで頷いた。僕は五千円札を取り出し、運転手に握らせる。
「これで足りますか?釣りはいりませんので」
「充分ですよ」
運転手は破顔して頷く。君は一足先にタクシーを降りると、そのまま川沿いの道へ降りて行く。僕は呆れ顔でその後ろ姿を追い掛ける。君は何も言わずに人気の少ない川沿いをゆっくり歩いて行く。観光客らしき外国人、カップル、親子連れ、思い思いの行動を行う人々がポツポツと辺りに散らばっている。僕たちは端から見たら京都らしい雅な姿をした二人だと思われるだろう。親子には見えないかもしれないが。僕は君の横に並び、深呼吸をした。君の表情は薄闇に隠れてしまい、よく見えない。
「さっきはすまなかった。悪気があって言ったわけじゃない」
君は何も言わない。君はただ黙っている。
「君は母さんみたいにはならない」
僕の言葉に君は眦を上げて睨みつける。その形相は千にそっくりだ。
「君は母さんみたいにはならない。安心するんだ」
僕は復唱する。君は怒りの表情を崩し、直ぐさまその顔は泣き虫のそれになる。
「違うの」
「わかってるさ。君は母さんみたいにはならない」
君は項垂れる。君は恐れている。そして恐れる自分を恥じている。
「君が気にしているのは知っている。母さんは君から見たらー化物かもしれない」
君はかぶりを振る。
「けど父さんから見たらとても美しい女性だ。今もね。ただ君は父さんの影響が色濃いー恐らくだが」
君は項垂れて続けている。自分を恥じている。愛する母親を拒絶する本能を恥じている。
「君は大丈夫さ」
「何故?何故大丈夫だと言えるの?」
君が僕に食いついて来る。その瞳は静かな怒りを灯している。
「私もママと同じ。産まれて直ぐに成長した。ドンドンドンドン、すごい速さで」
「これから遅くなる」
「わからないじゃない。私もママみたいに変わっていく。身体が獣へと変わっていく」
「それでもいいという伴侶を見つけただろう?」
君は怒り続けている。僕に対して敵愾心を剥き出しにする。
「でも私が変わってしまったら、彼も変わるかもしれない」
堂々巡りだった。根底から君の恐怖を取り除く事等出来る筈も無い。触れては行けない場所に触れた僕の浅薄さが今に至るそもそもの原因だ。僕は何も言えなかった。確証がなかった。恐らくと言った様に、恐らくだが、君は僕と同じ道のりを辿るだろうと目算をつけていた。千は特殊なケースだった。そう思いたい願望もあったが。だが、君は人間としての部位が安定していた。それは二代目だからだろうか。一親等の君はまさに新しい人類だった。確証はないが、ただ短命であるだけだと思われた。風が頬を撫でた。涼しげな風だった。寂しさを孕んでいた。
「おーい」
遠くから駈けて来る影が見えた。恥も外聞も無く、こちらに全力で駈けて来る姿。漂って来る匂いでわかった。丸山だった。黒のフレームの眼鏡に上等なフォーマルのスーツ。トム・フォードだろうか。革靴も洒落た黒のイタリアン。ネクタイは紫。髪は丁寧に纏められていた。英国紳士を絵に描いたような姿。気合いの入った姿だった。それが逆にお坊ちゃん然として見えた。
「國ちゃん、お義父さん。良かった、見つかって」
「丸山君。どうしてここに?」
「門馬さんから電話を受けて。お二人が此所にいるって。迎えに来たんです。タクシーやけどね」
そう言って丸山はにっこりと微笑んだ。子供のような邪気のない笑顔だった。その顔に君が絆されていくのが横目でもわかる。
「大丈夫?國ちゃん」
そう言って丸山は君の顔を覗き込む。君は静かに頷く。頬は火照っているが、その眼にはどこか和らいでいた。丸山はにっこりと頷き、手を差し出した。
「よし、じゃあ行こうか」
差し出された手を君は握りしめる。その顔は丸山へ対する信頼に満ちていた。ドジばかり踏むが、どこか憎めない紳士。丸山は不可思議な魅力を持つ男だった。
「お義父さんも」
丸山に言われ、僕は頷く。丸山は頷き、改めて君を見つめた。
「國ちゃん、すごい綺麗だ。赤、似合うね」
丸山の言葉に君の頬がたちまち変色していく。丸山の手を握りしめたまま、君は上で待つタクシーに乗る為に坂を上がって行く。僕は嘆息一つついて二人の後を着いて行く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?