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獣姫

4-3

 今出川までは十分足らずの道のりだった。老舗天麩羅屋の『都屋』はミヤコヤではなく、トヤと呼ぶ。九十年を超える歴史を持つ京都の老舗の一つ。車海老と松茸の大きな天麩羅が絶品で頬が落ちる美味さだと聞いたことがある。お待ちしておりましたと慇懃な店員に出迎えられて、僕たちは暖簾をくぐる。厨房から沸き立つ様な油の匂いとパチパチと弾ける音に涎が自然と溢れ出て来る。席に通されると、既に門馬はそこにおり、丸山の両親も鎮座していた。二人は僕が入ると同時に立ち上がり、一礼をする。僕もそれに倣う。二人とも五十そこそこだろうか。僕は外見はまだ三十前後。似つかわしくない組み合わせ。だが、君が十六だということは先方も承知の上だから、僕は彼らの中ではなかなかに早く父親になったヤンチャな男だと思われている。今更どう取り繕うおうが無意味なことはわかっている。ただ、娘を嫁にやる父親として当然の事を行えばいいのだと自分に言い聞かせる。その役割を演じればいいのだと。天麩羅が運ばれて来る。今日の段取りは全て門馬が取り仕切ってくれた。注文も全て通っているのだろう。早速美味いと噂の松茸にツユをたっぷりとしみ込ませて口に運ぶ。噛む度に松茸の弾力ある食感と匂いが口に中に拡散され、滲み出るツユの感触に舌の上が溶けそうになる。匂いも強烈だが、食感はそれ以上だ。噂はどうやら本当のようだった。
「どうですか?美味いもんでしょう?」
父親が口を開く。美味そうに車海老を頬張っている。眼鏡をかけた初老の男性。その隣で行儀良く頷く妻もまた、緊張で顔が強張っている。
「本当に美味しいですね。ここは丸山さんが?」
「栄二に以前父の日に連れてこられまして。あの味が忘れられなくて」
「勝負所では必ずここを選ぶんだよ」
丸山は悪戯っぽく微笑み、僕にウィンクしてみせた。君は天麩羅を頬張る度に口を丁寧にナプキンで拭き取る。ナプキンが黒く染まっていく。
「お美しいお嬢さんですな」
父親が君を見て微笑む。君は照れた様に微笑む。
「美しいがまるで獣だ。なかなかに獰猛ですよ」
僕は横槍を入れる。先程まで天麩羅に夢中だった門馬が引きつったような笑いを見せる。
「難波さん」
「丸山君も知っている様にー國子は少し変わってます。まるでこの子は獣のようだ。君をひどく困らせるかもしれない」
「それは我侭ってこと?」
「それ以上。少し暴れるかもしれない」
「大丈夫。僕はそれ以上に暴れますよ」
丸山はにっこりと微笑んだ。ご両親はただ困惑した笑いを浮かべている。
「その言葉が嘘じゃないといいが」
「難波さん。何もこんなめでたい席で」
門馬が割り込もうとするが、僕は門馬を睨みつける。門馬はたじろぎ、後ずさる。
「意思を確かめてる。今日はめでたい席だが、同時に君達を見極める日だとも考えている。悪く表現するのなら値踏みかな。ご両親には気を悪くされたらすまないが。君に國子を背負う覚悟はあるのか?」
「お父さん」
君が僕を制止しようとしている姿が見える。僕は構わず丸山を見つめ続けた。丸山はただ僕を見つめ続けている。真っすぐ、敵意なく見つめ続けている。君は肩を落とし、途方に暮れている。どうすればいいのかわからない様だった。門馬も同様だ。
「僕は知ってます。お嬢さんが暴れん坊なのを。僕は彼女がまだ幼い頃から知ってる。僕を追い越すのもわかってる」
丸山はそう笑顔でそう言うと、ゆっくりと僕に頭を下げた。
「國子さんを僕にください。必ず幸せにします」
僕は何も言わずに丸山を見つめ続けた。ご両親は二人顔を見合わせて困り果てていた。門馬も同様だ。君だけが、丸山を見ていた。
 僕の謝罪で緊迫した空気は弛緩し、再び天麩羅談義が続いた。ご両親は僕があまりにも感情的になっていたことに対し、若干の不安を抱いたようだが、それも仕方のないことだった。酒が入り盛り上がっている門馬とご両親に当てられたのか、苦手な日本酒のせいで酔ってしまったのか定かではないが、クラクラとする酩酊感を持て余し、僕は一人になれる場所を探した。仲居にどこか休める場所はないかと訪ねると、丁度店の裏手の庭が涼しく酔い冷ましに最適だと教えてくれた。ありがとうと礼を言い、僕は裏庭へと向かう。一人茶を啜りながら庭で虫の声を聞く。柄になく感情的になったのは、先刻君と言い合ったせいか、丸山への嫉妬だろうか。僕自身、君の未来を思うと暗澹たる思いに囚われるのは事実だ。だが、先生との研究過程に置いて、君の姿形が千のようになることはほぼ無いだろうというのが僕らの下した結論だった。しかし、それも間違っているのかもしれない。答え等、誰にもわかるものではないのかもしれない。
「酔い覚ましにはこれが利きますよ」
声が聞こえ、顔を上げると、紳士が立っていた。頬を若干紅潮させた丸山が溢れそうな氷水の入ったグラスを二つ手に抱え立っている。
「座っても?」
「構わんよ」
自分で言って自分の言葉使いに笑ってしまう。僅か二年ばかりですっかり若年寄だ。
「どうぞ」
手渡されたグラスに口をつける。キンキンに冷えた氷水を喉に流し込む。しっとりと汗ばんでいた身体が急速に乾いて行く感覚。
「ありがとう、生き返る」
「どういたしまして」
「君は戻らなくていいのか?」
「宴もたけなわ。今は門馬さんが最後の盛り上がり役を買って出てくれてます」
そう言いながら、丸山はグラスの水を一気に飲んだ。直ぐに頭痛が襲って来たようで、頭を抑えている。
「さっきは突然すまなかったな」
「父親なら当然でしょう。彼女は普通ではないから」
丸山は静かにそう言った。僕は何も言わずにグラスに口をつけた。僕は苦笑する。
「うちにいる巨大な獣を見た事があるか?」
「いいえ?」
「そうか。うちには一匹巨大な獣がいる。人とそれほど変わりないけれど。犬と人が入り交じっている」
丸山は何も言わずにグラスの中身を啜る。彼には聞くまでもなく、それが何を意味するのかわかっていた。
「國子の母親だ。私の妻でもある。幼い頃は可愛らしい人間の子供そのものだった。國子のような」
丸山は黙って聞き続けている。
「千はー妻は特殊だったが。國子は妻とは違う。あの子は一親等めだ。だから恐らく千のような成長は遂げないだろうと、僕も先生もそう見てる。千はあらゆる不幸を宿していたから」
「少し暴れるかもしれないっていうのはそういうこと?」
苦笑しながら僕はかぶりを振る。
「いや。それでも君の言う通り、國子は普通ではない。人間じゃないからな。あらゆる異種婚礼譚のように。君は物語の人物の様に特殊な人生を歩む事になる」
「あなたが先輩でしょう?」
「僕も大概が化物さ。君とはまるで違う」
僕はグラスの中の水を呷り、氷を一つ口の中で転がす。滑らかな氷に歯を突き立てて割ってやる。その音で、丸山は肩を震わせた。
「國子も恐れているんだ。幼いあの子が人形に惹かれたのも、その造形に焦れたからかもしれない。これは完全に推測の域を出ないが。あの子は母親を恐れてる。哀れに思ってる」
「愛してもいます」
僕は丸山も見つめる。丸山が静かに僕を見つめ続けている。
「國ちゃんから聞かされてます。お義母さんの話は。國ちゃんはお義母さんの事を愛しています。あなたのことも。色んな感情をあなた達に向けている」
グラスの中の氷を噛み砕こうと中を見る。空だった。水滴がグラスの中を伝うだけだった。
「動物の人形と、男性の人形。少女の人形。家族を作っているんです。國ちゃんは」
ふいに目頭が熱くなるのを感じた。鼻がいつもよりもよく利く。耳が遠くから聞こえる丸山のご両親、そして門馬の笑い声入り交じる喧噪を捉える。
「寂しい思いをさせた。謝りたいんだ」
君が襖越しに僕たちの話を立ち聞きしているのは気付いていた。柑橘類とお香の匂い、それから少しばかりの天麩羅油。それらの匂いが幾ら漂っていても、襖越しに漏れ出た君の甘い匂いはあの頃のままだ。君の眼に溜まった涙すら僕の鼻は捉える事が出来る。丸山は静かに立ち上がり襖に凭れ掛かるとグラスの中の水を飲み干した。誰よりも人の心がわかる君たちは、僕の不安も共有してくれていたのか。先刻の甘い匂いが、少し昔の記憶を思い出させる。植物園。君が微笑んで差し出した秋桜。まだ二歳程の君は、近くにあったコスモスの花を勝手に引き抜いて持ってきていた。
「ママにあげるの。綺麗でしょう?」
褒められると思っていたのだろう。人と違う君だからこそ物事の善し悪しや分別を学ばせねばならないと、半ば強迫観念めいた責務に取り憑かれる。その責務が僕に君の頬を軽くはたかせた。君は溢れ出る涙を抑えきれずに零した。正しいことをしたんだという愚かな驕りが、その涙で直ぐさま洗い流されていった。ここに来る事が出来ないママに向けて、君が美しいと感じたものを贈りたいと思った気持ち。それが肯定されない世界を僕自身が作ったことに対する哀しみが心を覆った。僕は直ぐさま君を抱きしめ、これは内緒だとコスモスの花を鞄の中にしまった。
 宴が終り、上機嫌に酔ったご両親と挨拶を交わす。門馬が二人を送って行くとタクシーを用意したが、どうも頼りになりそうも無い。千鳥足でようやっと着いたタクシーに乗り込むと、酒の匂いをバラまきながら満面の笑みで手を振った。遅れてやって来たタクシーに乗り込み、嵐山まで向かう。君は少し充血し腫れた瞼をやたらと気にしていたが、暗闇の中でそれらを気にする者は何処にもいない。屋敷は静まり返り、人の匂いを感じさせない。先生も、夏子さんも、千ももう寝ているのか。
「上がっても?」
「構わんよ。我が家のアルバムでも見ていけばいい」
「先生は?」
「工房で人形を弄くっているか、それか寝ているかのどちらかだろうね」
君たちは靴を脱いで二階へ上がって行く。軋む階段の音に反比例して一階は静まり返っていた。廊下の奥を進み、僕は自室の襖を開ける。中から立ちのぼる獣の匂い。千の匂い。千は部屋の奥で毛布に包まって眠っていた。君を産んだ時より幾ばくか大きくなり、髪に腹の体毛と良く似た白いものが混じる。初めは白髪かと思ったが、人間のそれより遥かに白い。千は眠たげに顔を上げると、微かにその瞼を開けて僕を見つめる。眠たげな瞳はあの頃のままだ。顔を覆う少しばかりの産毛や形が変化した鼻はあの頃よりも自身の奇異な特徴を誇示してはいたが。それでも犬と人間が混じり合うこの姿形は見事なものだった。僕はゆっくりと千の頬にキスをした。指先で優しくその肌を撫でてやる。千は身体を震わせ、僕の指の感触に身を任せた。
「國子と丸山君が来ているよ。彼らを今からもてなさないと。それが花嫁の父親の役目だろう?」
千の瞳が微かに細くなる。瞳孔の仔細な動きから、千が喜んでいる事が手に取るようにわかる。彼女は初めからこの婚礼を歓待していたのだ。
「あの子達に何か言いたい事は?」
千はただかぶりを振る。僕が千の通訳代わりだ。千の言葉は僕の言葉だと彼女にお墨付きをもらった。千に毛布をかけてやり、立ち上がる。書棚からアルバムを引き抜く。何十枚もの写真と羊皮紙の束のこのアルバムは、二年の思い出を凝縮し、ある種聖書のように分厚く頑丈な様相を呈していた。アルバムを小脇に挟み、ゆっくりと襖を閉める。襖が閉まる直前、満足げな千の瞳が見えた気がする。寝る時間が以前より増えた。今後、更にその傾向が加速するのかもしれない。軋む階段を上がりながら物思いに耽る。千に出会った当初の気持ちが揺り起こされる。僕らの結婚を反対していた先生の思いが、これまた今なら手に取る様に理解出来る。襖を開けると、君の作った人形達が出迎えてくれた。金髪の少女。白髪の男性。そしてその横には美しい女性。それぞれの球体間接人形には色気があり、生気を帯びている様に僕の眼には映っていた。丸山の話の後では、それも当然なのかもしれないと納得に至る。薄明かりの中に照らされたこれらの人形は、確かに家族を形成していた。
「パパは珈琲は?」
「大丈夫。君は?」
「頂こうかな」
丸山の言葉を聞くと同時に君は頷き、珈琲を淹れに階下のキッチンへと向かう。僕はソファに腰をかけ、丸山を促した。丸山は頷くと、対面のソファに腰を下ろす。
「お伺いするのは何度目かわかりませんが、この家はやはり不思議な匂いがしますね。本当にアトリエのようだ」
「実質先生の工房も兼ねてるからね。蔵が主戦場ではあるが。ほら」
僕は手元の分厚いアルバムを渡す。丸山は少し驚き、戯けたように微笑んだ。
「すごいな。これは骨董ですね」
「僕や妻の写真もあるからね。ごらん。國子と妻が瓜二つで驚くよ」
「國ちゃんの、いや、家族の記録ですね」
「國子が主役だよ。僕らは添え物だ。この二年間で彼女は大人になった」
「その経緯がここに込められてるわけですね。今後もアルバムは続けていく?」
「それが僕の希望だよ」
これ以上何も言う事は無かった。丸山がアルバムを紐解き始める。ゆっくりと一枚一枚を噛み締めるように開いていく。丸山が頁を開く度、思い出の奔流に襲われる。ふいに襖が開き、珈琲のカップを二つ盆に載せた君が入って来る。
「何を見てるの?」
「怪獣図鑑さ」
「甘い怪獣図鑑だな」
丸山が頁を捲りながら悪戯げに笑う。三歳の君が納められた写真。大怪獣が笑顔で屋敷を闊歩している。その後ろを行く僕は困り顔だ。健やかに美しく成長していく君の記録は、同時に僕の父親としての記録でもあった。濾過され純化された記憶は美しいが、そこには願望も多分に含まれる。記録こそが虚栄のない真実だと言えるのかもしれない。
「この写真はいいね。ピクニック?」
「植物園ね。パパとふたりで行ったの」
丸山が指差したその写真は虚栄のない真実が映し出されていた。まだ幼い君の寝顔の写真だ。あの日、君を叱った後の僕の行動に君は不思議そうな表情を浮かべていた。まだ鮮明に覚えている。あの時僕は君の疑問を投げかける視線に苦笑してかぶりを振った。すぐに君を抱きしめた。君の驚いた顔が頭に浮かんだ。ふいに君が僕の手を握る。その小さな手を握り返す。とても小さな手だった。遊び疲れた君はランチョンマットの上でスヤスヤと寝息を立てていた。その時に撮った写真だった。君は寝返りを打ち、寝言を呟いていた。
風の音と、君の寝息と、周囲の喧噪だけが聞こえていた。ふいに、千が横にいる妄想に囚われる。家に帰り、君がママに渡した美しいコスモスは、僕ら三人モノクロの世界にあってもどこまでも鮮やかなオレンジだった。
「私、こんなに丸かった?」
「お団子みたいだったよ。小さくて、丸くて。我侭な怪獣」
僕の言葉に君は膨れる。丸山が次の頁を捲る。その手つきはどこか優しい。丸山の後ろからアルバムを覗き込む君はもう十六歳の女性だった。あの頃と何も変わらない美しい怪獣。美しい獣姫。モノクロの世界を誰よりも敏感な感覚で渡っていく君はきっと誰よりもモダンガールだ。

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