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男の子のように美しい田舎の娘

1.春の薔薇

 昨晩の雨で洗われたのか、部屋の窓から見る木々は生まれ変わったかのようだった。
 私は、ベランダに出ると、外の清涼な空気を吸った。赤と黄に染まった葉を見つめていると、ときどきはらりと、そういう音がするわけでもないが、私にまぼろしの音を聞かせながら、葉は落ちた。下を覗き込むと、落葉で見事な絨毯が出来上がっている。
 空は高く、雲はひとつもないようで、清潔だった。
 部屋に戻り、ソファに腰掛けると、欠伸をした。時計を見ると、まだ七時前で、昨晩からここまで、七時間ほどの睡眠ということになるが、私の頭は谷川の清水だった。昨日の雨で、頭の中も洗われたと思われる。
 そうしていると、窓辺に咲いている、枯葉のように萎れはじめている、薔薇が目に入ってくる。私は薔薇を手に取ると、花びらを撫でた。鼻先を近づけると、見た目の通りの弱々しい匂い。この季節外れの薔薇は、水彩絵の具のように薄い赤色で、もう盛りを過ぎたように見える。
 このヴィラはその名前をローズガーデンとも呼ばれていて、四方八方が薔薇に囲まれている。薔薇の季節でなくとも、美しい色を見せる品種は何種もあるけれども、これは自然のものだろうか。老嬢の薔薇。病める薔薇。そのどちらともとれる、哀しい色である。
 病める薔薇と言う言葉に、私は、「薔薇よ、汝病めり」という、佐藤春夫の『田園の憂鬱 或いは病める薔薇』という本を思い出す。その言葉は、ウィリアム・ブレイクの詩からの引用であるが、私はその物語の主人公よろしく、「薔薇よ、汝病めり」と何度かうわごとのようにつぶやきながら、その薔薇を手折る。すべての薔薇は病気なのだ。馥郁たる香気を放っていたとしても。
 薔薇を抱えたまま部屋に戻ると、その薔薇をソファに横たえて、しばらく待っていてくれるかと声をかけて、部屋にある花瓶に水を入れる。高原の水は水道水でも冷たく、それは冬を思わせる。私は花瓶に病んだ薔薇を活けると、そのまましばらくその薄桃色の皮膚を見つめた。薔薇は何も言わずに私を見つめ続けている。
 私はソファに腰掛けると、ウッドデスクに置きっぱなしだった本を手に取り、ぱらぱらと捲った。紙の匂いに染みついたように薔薇の香りが鼻腔をかすめて、また目覚めるようだった。そうして、とつおいつ頭に浮かぶ聯想を弄んだ。
 男の子のように美しい田舎の娘。そういう言葉が、朝の美しい景色、そうして病んだ薔薇からの聯想で、私の頭の中にちらついている。
 それは、今こうしてぱらぱらと捲っている、堀辰雄の『美しい村』に出てくる一節なのであるが、その文脈を引用すると、こうである。
『莫迦莫迦しいことだが、私は林の中の空地で無駄に待ち伏せたものだった。男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出しては来はしないかと。』
 男の子のように、というのは、その少女の幼い姿が、男の子を思わせるという意味なのか、それともその文脈中の男の子というものが、もう思春期を迎えている少年を指すのであれば、それは言葉のもたらす魔力も違ってきて、与える印象も違う。男の子は女の子のように清らかなるものであるからと、少年季、少女季は汚れのないものであるからだと、堀は考えていたのだろうか。はたまた、男の子のようにというのは、ひょっこり飛び出して来るという、前後の行動にかかる言葉であろうか。それならば、美しい田舎の娘が男の子のようにと、そういう書き方をするはずであろうと思われる……。
 考えるほどに、どちらの意図であるのかわからなくなるのではあるが、しかし、私はこの言葉に美しい印象を抱いたのである。おそらくそれは、私が、男の子のように美しい田舎の娘にそのまま重なるような娘を知っているからであろう。それは、少し前に東京で会った娘のことである。田舎の娘ではないが、田舎という言葉、つまりは、田園詩の中に置かれても、ぴたりとはまるような娘である。
 娘は、恵という名前で、私より五つほど下の女だった。少女という年頃ではない。もう大人である。その娘とは、仕事の関係で知り合って、それからたびたび食事を共にするようになった。
 出会って一年ほど経って、娘は職場を転勤することになった。東京に移るというのである。私は、その娘と話すかすかな時間を愛していたのか、その事を電話で聞かされたときに、心に穴が穿たれるようであったけれども、しかし、彼女を止める術など、まぁもたないわけである。
 娘が転勤して後は、しばらくずっと、彼女のことは心の片隅に置いたまま、そのまま仕事に没頭していた。いくつかの小説や詩を書きつらねる日々が続いて、私は、私の出会った様々な女たち、その花たちを、文字に変えることだけを考えていた。しかし、筆が止まるたびに、とりとめもない空想ばかりが浮かぶ。筆が進んでも、散文詩めいた作り事ばかりが目の前にあらわれる。そのくだらない散文詩は、完成したとしても、一読するだけで芥箱に捨ててしまう。そうして、そのような駄作を作り続けることになるのであれば、もう書く気が起こらない。そのようなことになるのも、書くための、美しいものの喪失のせいであるからかもしれない。
 ある初夏の日、私が高島屋の前を通ると、ショーウィンドウに、少女の人形が立ち並んでいるのを見かけた。それらはすべて、同じ顔ではあるのだが、化粧や服装がそれぞれに違っていて、そのせいだろうか、みな違う少女に見える。そうして、あっと思うと、それはその娘に、まぁそっくりなのである。中原淳一の少女人形である。
 立ち止まり、ショーウィンドウを見ていると、その人形たちがみな、私の視線に気付いたのか、見つめ返してくる。球体関節人形は、それぞれが、後ろに書かれた中原の絵と同様のポーズを取っている。赤い洋服に、赤い帽子をかぶる少女。黄色の花をあしらった、白色のワンピースと、それに併せた白色の日傘。オレンジの帽子に、紺色のドレス、そうして、胸にはほほ色の薔薇。モダンな少女たちが、私ひとりに注視している。私は、何も言わずにその子らを見返して、そうして娘を思った。
 ショーウィンドウ越しに写真を撮ると、それを娘に送った。娘からはすぐに返信が来て、その素敵な少女たちに君を重ねたと、もちろん言えたはずもないが、可愛らしい少女たちに見つめられたことを、娘に話した。娘は、それらの人形たちを、日本橋高島屋の前で、見かけたという。
 それからしばらくして、仕事の都合で東京に行くときに、娘と会ったのだった。
 その日、東京ステーションホテルで待ち合わせた娘は、カーキのスカートに、紫のシャツを着ていた。それはそのまま、あの胸に薔薇をつけた人形を思わせた。
 東京駅の広い空間で一人腕時計を見つめて、約束の六時に現れない私を待つ娘を、遠目に見つめていると、愛情がこぼれそうになった。娘は、私の声に振り向くと、化粧もない素顔でほほえんだ。桃色のほほが、あかあかとあざやかだった。
 そのまま鉄迷宮のように入り組んだ東京ステーションホテルの地下にあるレストランで、夕食を取った。和食のレストランだったが、ちょうどその日に、どこかの会社の会食だったのであろうか、スーツを着た何人かの日本人と、西洋の異邦人がぞろぞろとやってきて、私たちとは少し隔てた席で食事をはじめた。異邦人の英語は、私たちにとって、花やかな伴奏だった。
 私はその日、娘に贈りものをしたのだった。ちょうど、娘の誕生日が近かったから、そのお祝いの品を、鞄に詰めて東京に出てきた。私の泊まったホテルの近くにあった、浅草の焼き菓子屋で買った焼き菓子。それから、娘の印象を詩にして、それを書き付けた扇。その扇は、フランスのアンティークで、十九世紀のものである。その百年も前の扇には、白薔薇が描かれている。私は、娘を白薔薇の星座に見立てて、詩句の中に書き付けた。そして、浅草の花屋で見かけた、一輪の白薔薇をそれに添えて。
 贈りものを受け取ると、娘は、
「すごい。素敵なプレゼントですね。」
とほほ笑んだ。娘は、扇に書き付けられた言葉を何度か諳んじていた。手には、白薔薇の花びらが揺れている。
 白薔薇のほほをした、男の子のように美しい田舎の娘。
 食事が終わって、彼女を駅まで送り届ける道すがら、東京ステーションホテルの上に、美しい月が出ているのを見つけると、私は思わず、
「ああ。月がきれいですね。ほら。」
「あら。ほんとうですわ。」
そう言って、娘はまたほほ笑んだ。娘と私は、並んでしばらく月を見つめていた。
 駅のホームに上がるとき、娘は私には見えないように、リップクリームを脣に塗りつけた。振り向くと、それは、月の明かりを受けて、星々のように輝いた。娘と並んで歩いていても、目端にはそのきらめきが瞬く。
 そうして私は、別れ際に、その星を求めるように、娘を抱きしめると、接吻をしたのだった。
 この美しいヴィラで見た清潔な朝に、私は図らずも自分で書いた薔薇の星座を見たのだった。うつらうつらと、また睡魔が襲ってくる。その睡魔に水音が交じって、どこかにあるのか、渠の流れが、私に見えるようであった。
 目の前に、あの萎れかけた薔薇が見える。かぐわしい香りは、記憶の中の白薔薇であろうか、水を含んだ花びらの感触が指先に浮かぶ。私もまた、病んだ薔薇。
 薔薇よ、汝病めり。

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