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野生の月


「月と山猫の子供ですか。」
「月が孕まされたんですな。畜生はこれだからいけない。」
中国の話である。男は中国帰りの動物商で、禽獣を扱っているという。道連れになった彼をつかまえて、うれしそうに怪異漫遊談を披露する。話慣れているからだろうか、すらすらと言葉を織り上げる。
「袋子で生まれましてな。鋏でそれをさいて、中からそれを取り出したんですな。」
彼はときおり相づちを打ちながら、男が語る娘を想像する。彼は中国に詳しくはないが、不思議と頷ける話だった。男はいろいろな国の伝説を集めてもいて、いつかそれらの話を一まとめにして、御伽草子を作るのだと息巻いていた。
「中国と言えば、嫦娥の物語がありますね。」
「月の宮の話ですな。」
男と話しているうち、ようやく山が開けて、日が二人を差した。彼は温泉宿を目指していて、その道中だった。都からここまで、三里ほどだが、足がかたまって、もう歩けそうにもない。しかし、男の言葉ではもう宿だった。
 宿に向かう道すがら、山中の川岸で女たちに出会った。皆一様に頭に白い手拭いを巻いていた。あれは大原女だと男が言った。彼は、大原女たちが手拭いで首筋を拭う様を見つめていた。手拭いはそれぞれ草花の模様が染め抜かれていた。島田髷が日に当てられて、濃い紫色に光っている。二十そこそこの娘だろうと思えた。もう少し小さいかもしれない。いずれにせよ、彼と同じような歳、もしくはその上だろうと思えた。
 喉が渇いたと、彼は水筒に川の水を汲んだ。清流は春の水で氷のように冷たい。水筒に水が溜まる頃、ちょうど同じように川岸におりてきた娘が、遠目で見るよりも随分若いように見えた。彼よりも、四五歳下かもしれない。脱いだ手拭いを清流にさらしている。肩までの髪は豊かにおりていた。島田髷ではない、化粧もない素顔で、たちまち野の香りがした。
 十六七の娘だった。娘が水を汲んでいると、他の大原女たちの娘を呼ぶ声が聞こえた。娘が立ち上がると、彼はあわてて娘を呼びとめた。
「温泉宿を探しているんですが……。」
「はぁ。それならこの川沿いどす。もう歩いてすぐのところ……。温泉の湯が流れているんですよ。」
しかし冷たい水である。川の水と湯とが交じりあっているとは思えない。交じりあうことで美しく清むのだろうか。娘を道連れに、彼は大原女たちと山を登った。男は山女魚を釣るのだと、そのまま川に残った。
 遠く、かすむように山々が見えてほのかな桃色がともっている。白い桃色が目に鮮やかである。大原女たちは、すいすいと山を登って、娘も慣れた足取りで、景色に少しでも目を取られようものならば、すぐさま遠くに行ってしまう。彼はそのたびに急ぎ足で、女たちを追った。
「川沿いの宿ですね。」
「有名なんですか。」
「そらこのあたりで一番。」
娘がはにかむように笑った。
 宿に着く頃にはもう西日が差し始めて、山の頂はわずかに金色に染まっていた。その景色を見つめていると、遠くを飛ぶ鷹が目に入った。鷹は山の頂上を旋回して、そのまま金色の雲の中に消えた。
 宿に着くと、大原女たちは何も言わずに、各々の家に帰っていった。毎日毎朝このようなことを繰り返すのだろうか、彼には信じられない思いだった。
 宿では女中が出迎えて、彼は二階の一番奥、渓谷が見える部屋へと案内された。月の間と札が出ていた。六畳の畳部屋で、窓を開けると山しか見えない。みどりの中にてんてんと、さくらの木が光っている。
 彼は鞄から手帳を取り出すと、あの娘の印象を鉛筆でさらさらと書き留めた。ほんの一言二言しか言葉を交わしていない。けれども娘の美しい頬色は彼の心に留まっていた。言葉でそのきれいなことを書くのはむずかしいようで、彼は手帳を放ると畳に寝転んだ。認められない文士崩れのつまらない時間を、水の流れの音だけが掻き消してくれる。
 夜になると温泉宿の空に月が浮かんだ。月の間は月の間と言われるだけあって、窓を開けると月が一ぱいになる。窓枠の中に絵のように月が収まるのである。青白い光が彼の手を清らかに洗った。ときおり夜半に鳴く鶯があった。縄張りが侵されたのか、ケキョケキョと獰猛な鳴き声だ。
 翌朝目覚めると窓に朝の月。川音が聞こえて見てみると、昨日の娘がたらいにいくつもの着物と帯とを入れて川の水で洗っていた。二階で娘の洗うのを見ているうちに、彼はもう我慢ができなくなって、浴衣のまま娘のもとへとおりた。
 娘は彼に気付くとほほえんでみせて、
「昨日の方。今日もええお天気で……。」
「随分早いもんですね。」
「はぁ。私ら朝から都へ向うて、帰るんは夕方どすから。あんさんは東京の方?」
「ええ。汽車で来て、京都巡りです。一昨日都をどりを見たばかりで。」
「花やかどっしゃろ。あないきれいなもんは東京にはおまへん。」
そういう娘の目は、花やかな舞妓芸子に憧れているような目差しである。手の白いのにささくれが目立った。赤い棘のように指先にささっている。
「このあたりいうたら、見るもんはありゃしまへんし……。」
「三千院はきれいでしょう。」
「とても。広いとこどすさかい、歩き疲れます。」
「あんなに歩いてるのに。」
娘の言葉に彼は笑った。娘もつられてほほえんだ。
「それなら一緒に回りませんか。君はここに詳しいでしょう。案内してくれませんか。」
「はぁ。でもこれから都におりますさかい……。」
「僕は何もすることがありませんから、待ってます。」
彼がそう言うと、娘は頷いた。名前を聞くと、恵と言った。
 恵が都へ向かう頃、彼は川におりて清流をみていた。川の水は澄んでいて、底に山女魚がいた。黒々とした斑点が水にとけて美しい。川の水を手で掬っても山女魚をつかまえることはできなかった。ふいに、昨日旅別れた男は、幾匹の山女魚を釣ったのだろうと、男が釣りに興じる姿がこころに浮かんだ。
 部屋に戻ると朝の月は消えていて、川の流れだけが変わらずにあった。水音が胸を浸してえんえんと流れていく。さまざまな鳥がいるのだろうか、虫がいるのだろうか。聞き慣れない声を聞いているうちに、睡魔におそわれて彼は寝てしまった。起きるともう日は少し傾きだしていて、西日だった。宿を出ると、恵が川岸に遊んでいた。清流に手をつけて、まどろむような表情である。さくらの花びらが散っては川を流れていった。
「待たせたね。湯でも浴びるかい?」
恵はほほえんで、かぶりを振った。手拭いはないがそのままの着物姿である。化粧もない眦は山猫のようで、野の娘である。
「遅なってしもうて……。」
「いや、大丈夫。僕は風来坊だからね。」
「はぁ。あんさん、何の仕事。」
「本を書いたり。」
「作家さんですか。偉い先生どすな。」
「その書生みたいなものだよ。」
道行きの小作りな生け垣に、白い牡丹があった。みどりの中に清らかで、白色は汚れもなかった。彼はその牡丹を一房手折ると、恵の髪にさしてやった。山猫のような眦は美しい新月になった。恵はささくれの目立つ手で髪と花をなおした。
 三千院は、観光の客も多く賑わっている。それでも市中ほどではないから、やはり山の奥であろう。彼も初めて来たものだから、その広さにはおどろいた。境内にはいくつかの緋毛氈が敷かれていて、そこに腰を下ろして庭を見る。座ると、庭の彼方にかすかに雨雲が見えた。遠くの山から向かってくる。
 境内に角大師の札が貼られている。黒い鬼の絵で、影絵のようで、剽軽に見える。彼は腕を組んで札を見上げた。
「元三大師様どす。」
「鬼になって、魔除けになったんだね。」
「徳の高いお坊様どす。角大師様のお札を家の門に貼ると、魔除けになる言うて……。家にも貼られてますわ。」
元三大師は宇野法皇の御子である。大師が幼い頃比叡山に預けられ、その折りに母の月子姫は、比叡山の麓の千野に庵を結び尼になったという。
「大師様は母君を慕うて、夜な夜な一里の山道を下って、会いに行かはったそうどす。」
「聖い話だね。母に恋する少年の話だね。」
月子姫の伝説に彼は不思議な思いだった。恋しい母に会うために山をおりる大師と、生活を立てるために山をおりる大原女との間には何の繋がりもないが、感傷の情緒はあった。
「雨が降ってきはりましたね。」
境内から春の細い雨が見える。宙に線を書いて、肌も濡れてくるようだ。少し肌寒くなった。
「お寒いことおへんか?」
恵に尋ねられて、彼はかぶりを振った。傘を借りて庭におりると、もう雨は小降りで、俄雨だった。庭にある杉の木から滴る水かもしれなかった。苔むした地蔵がやわらかくほほえんでいる。雲間から日がかすかに差して、洗われた苔がきらきらと光っていた。
「あんさんはいつまでここにいてはるんですか?」
「すぐにだよ。旅から旅で。いつかは東京に帰るから。」
「東京まで歩いたら、どれくらいかかるんかしら。」
恵の問いに、彼は笑った。つられて恵も笑った。互いにおさない子供の笑いだった。
 三千院から出ると、もう晴れ間が出ていて、さくらが雨に濡れて艶やかだった。恵の牡丹に目をやると、濡れていて生きるように美しかった。名前のように美しさに恵まれて、生い立っている娘だった。
 近場の売店で、苔むした地蔵の絵はがきが売っていて、それを一枚買うと、恵にやった。宛名に、自分の生家の住所を書いて渡した。恵はそれを受け取ると、濡れないように袂に入れた。傘を返して、二人で宿までの道を歩いた。そこで別れた。
 夜になると雨雲は去っていて、河鹿の鳴き声がしていた。竹林が近くにあったから、そこで鳴いているのかもしれないと、彼は思った。
 湯を浴びに行くと、湯の面が鏡になっていて、月明かりに挟まれるようだった。ちょうど満月で、青白い光が一ぱいに満ちている。
 見上げると、月のうさぎの影が見えた。少女のようにも見える。まどろんでいると、山猫が岩陰から顔を出した。眦を上げて、月を見つめている。そうしているうちに毛をぶるると震わせて、さくらの花びらの浮かぶ湯の月に飛び込んだ。湯の月は散ったと思うとすぐに元に戻った。そうすると、湯から乙女が現れた。恵だった。月の色が映って、幼い乳房である。さきほど見た山猫のように、湯の月へと向き合うと、また飛び込んだ。恵はそのまま上がってこなかった。
 鶯の鳴き声で眠りが破れて、彼は目頭を揉んだ。外を見ると、まだ薄暗く、かすかに月明かりがあった。そうすると、二階の窓辺から、都へ向かう大原女たちの姿が見えた。恵もその中にいた。牡丹の花が髪に一輪咲いている。美しい月を背に黒木を頭に乗せている。
 野生の娘が、月の宮へと旅立つまぼろしを、彼は鉛筆でさらさらとつづった。

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