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薔薇の踊子

1-4

  明日から練習だと言って、公武はホールを出て行ってしまった。一人取り残されて、恵は何か夢の中だった。ふわふわと、地に足のつかない感覚が体にある。恵は椅子から立ち上がると、帰り支度を始めた。遠くの体育館から聞こえるボールの弾む音、運動靴が立てる音が、まだ幼い恵に深い郷愁を残した。
 帰り道、御心坂の林の隙間からのぞくお屋敷を目にして、今度は別の郷愁が浮かんだ。それは、先程公武の踊りを観ていた時に心に立ち上がった感覚にとても似ている。
(私、あそこに行ったこと、あるのかしら。)
そんなことを思いながら、一人歩いていると、目の前を歩く絵里奈が目に入り、
「えりちゃん。」
声を上げて後ろから肩を叩くと、振り向いた絵里奈は微かにほほを緩ませて、
「今帰り?」
恵は頷いて、二人は肩を並べて坂道を下った。肩を並べてとは言っても、絵里奈の方が十㎝ほどは高い。わずか一年の違いなのに、もう絵里奈は大人の体のようだ。恵は絵里奈よりも肉付きがよいからか、背丈のある絵里奈と一緒に並ぶと、中学生と大学生のように思える。生まれてついての肉体が細いから、絵里奈にはプリマになる資格があるように思えた。その、生まれついての肉体という言葉に、恵はふいに公武を思い出した。生まれついた時から、不世出のダンサーと同じ肉体を持つ公武は、もうこの世に生を受けた時から、運命が定められているのだろうか。
「今日、高瀬さんに会ったわ。」
ぽつりと恵がそう言うと、絵里奈は顔をそちらに向けて、
「公武さん?」
「うん。私、秋の学祭のバレエを一緒に踊ろうって、誘われたの。」
「あら。すごいじゃない。」
「でも、あの人変なのよ。『ロミオとジュリエット』をやるんだけど、ロミオとジュリエットしか出ないのよ。」
「二人だけ?」
「そ。二人だけ。どんな舞台になるのかしら。なんか色々言っていたけどね。変だわ。」
「あら、二人だけのバレエの演目もたくさんあるでしょう。それにパ・ド・ドゥは二人の踊りだわ。男と女のね。それがバレエの基本だわ。」
絵里奈は嬉しそうにそう言って、手先で踊ってみせる。その手があまりにも優雅だったから、恵は、なぜ自分なのだろうと思わされた。
「バレエ・リュスって知ってる?」
「ロシアバレエ団でしょう。セルゲイ・ディアギレフの。」
「公武さんはそのバレエ・リュスを作るって言っていたの。現代のバレエ・リュスなんだって。」
「モダン・バレエ・リュスね。」
「私はよく知らないの、そのバレエ団。えりちゃんはお部屋にニジンスキーの写真を飾っていたじゃない?『薔薇の精』の。えりちゃんは好きなの?」
絵里奈はかぶりを振った。そうして、
「私も詳しくは知らないわ。『薔薇の精』は大好きな演目だから、貼っているだけよ。本でいくつか読んだけど、革新的な作品が多かったってよく聞くわ。『牧神の午後』も、『シェへラザード』も。めぐちゃん、『シェへラザード』好きでしょう?」
「アラビアンナイトが好きだもん。」
「でも、公武さん、めぐちゃんの踊りを知っていたのね。それで、めぐちゃんを選んだのね。」
「一度、ホールでね、踊ったのよ。それで声をかけてきたの。」
「まぁ。踊ったのね。じゃあきっと、それでめぐちゃんと相性が良いって、わかったのね。」
「えりちゃんは声をかけられていないの?」
「うん。一度教室で踊ったことがあるだけよ。私は選ばれなかったのね。」
えりちゃんはローザンヌが選んでくれたんだもん。そう言いかけて、恵は声に出すのを辞めた。

 自宅につくと、母親の加奈子が車庫から車を出そうとしていた。絵里奈を駅前のバレエスクールに送るのは、母親の役目だった。
「お帰り。二人とも。」
「ただいまぁ。」
声が揃って楽聖の調べのように愛らしく家々に聞こえる。
「ほら。えりちゃんは着替えたら車まで来なさい。めぐちゃんは冷蔵庫にケーキがあるからね。」
手際よく後部座席に荷物を載せている母親の背中を見つめているうちに、恵は呟くように、
「お母さん、私も行くよ。」
加奈子は振り向いて、
「あんた、バレエ辞めたいって先週言ってたじゃない。」
恵は脣を尖らせて、何も言わずにかぶりを振った。その光景を見ながら絵里奈は助け船を出す。
「めぐちゃん、今度うちと宇賀神の秋の学祭で、バレエを踊るのよ。」
「え。あんたが?」
加奈子が恵を見つめると、恵は頷いた。
「だからめぐちゃん、体動かしておかないとね。」
絵里奈はそう言ってほほ笑むと、階段を上がって玄関に消えていった。加奈子はその姿を目で追いながら、すぐに視線を戻して、
「じゃあすぐに用意しなさいな。」
恵は慌ててレオタードの用意をすると、バレエバッグに突っ込んで、そのまま母の待つ車に乗った。絵里奈はもう車の助手席に座っていて、いつの間に準備を済ませたのだろうと、恵に不思議だった。絵里奈はいつも優等生で、何でも早い。恵がやろうと思って、さぁ行動に移すぞと思ったその矢先には、絵里奈には終わっているのだ。
「めぐちゃんと行くのは久しぶりだね。」
絵里奈は顔をほころばせて笑った。ローザンヌのビデオ審査で落ちて以降、だんだんと足が遠のいていくバレエ教室だった。恵の性格か、何かにつまずくとすぐに投げやりになるところがあって、今回のローザンヌの審査に落ちたことで、周囲の気にする以上に、本人が気にしてしまった。そうして、だんだんとレッスンに行くのが嫌になって、加奈子に叱責されたことがある。それが、恵をますますバレエから遠ざけた。結局、通う教室での春の発表会で、『ドン・キホーテ』を公演したとき、恵は役にすらありつけなかった。一年前は、キトリを舞っていた。苦手ではある役だったが、それでも教室の他の生徒よりも、遥かに秀でていた。それが、客席から絵里奈の演技にまばらな拍手を送るばかりになって、その姿を見たときに、もう恵とバレエとが隔ててしまったのだと、加奈子には思えたものだ。
 それが、急にバレエをするという。秋の学祭で踊るという。ルームミラーに映る恵は、窓外の景色を見ながら絵里奈とおしゃべりをしている。あどけない顔で、それはまだ加奈子にとって小さなプリマだった二人を思わせる。いつかは自分の娘をプリマにするのだと、加奈子は微かに燃える野望の胸の内に秘めていたのだけれども、それが二人育つかもしれないと、そのような誘惑が一瞬だけあった。今年のローザンヌ。絵里奈が賞を受賞したとき、驚きと歓喜とに溢れたが、その二ヶ月前にあった恵のビデオ審査の結果が、姉妹の才能の差をまざまざと見せつけたようで、加奈子にすら現実の塔のように聳え立った。恵ももちろん、才能がある。小柄なりに手足が長く、踊るときにきらめく手先が本当の鳥の羽のように思える。『火の鳥』の火の鳥や、それこそキトリのような強烈なキャラクター性を持つ役を演じるには、彼女は天凜があると言っても良かった。それこそ、絵里奈とは真逆の魅力が彼女にはあった。絵里奈は逆である。彼女は白鳥であって、姫君である。白いバレエが彼女には何よりも似合う。それは、彼女の生まれついての優美さや、穏やかさに起因するものであるように思えるが、同じ腹から生まれた娘であっても、このように違うものかと、加奈子には思えた。
 恵が秋の学祭で踊る演目は何だろうとと思うと同時に、加奈子は今日発表される、これもまた二人の通う教室の秋の公演での演目は何だろうと朝から想像を巡らせていた。絵里奈は今年のバレエ留学を蹴って、来年またローザンヌを受けるつもりだと加奈子に言っていた。加奈子からすれば、充分上々とも言えるバレエ学校のいくつもからオファーがあったのに、それを断った。そうして、また日本で鍛え上げて、来年のローザンヌに勝負をかけている。おっとりした外見からは想像出来ず、囚われの姫君とも思えない力強さがあった。教室の理事から伝え聞いた話に寄ると、今年の演目は『白鳥の湖』ではないかという。本決まりではないが、ほとんどそうなりそうだと、加奈子は聞いている。『白鳥の湖』は何度も何度も教室で公演されてきた演目だけれども、やはり王道だけあって、定期的に行っている。加奈子の好きな宝塚に例えるのならば、『ベルサイユのばら』だろうが、しかし、それよりも何十倍も頻繁である。そうして、二人の通う苦楽バレエ教室の公演には講師陣の他にもプロのダンサーが何人も入る。その中で、オデットに選ばれるのは誰だろう。それは、絵里奈だろう。親の欲目もあろうが、器量も良い娘の絵里奈がオデットに選ばれたのならば、どれほど美しいのだろう。
 ルームミラーに映る絵里奈は儚いほどに涼しげで、黒髪が揺れている。膨らんでいる。女の印はもう実っているが、それでもか細いこの娘には、白鳥が相応しい。そうして、同時に彼女にはオディールを踊る獰猛さも持ち合わせている。その芯の強さがある。この娘は、苦楽バレエ教室とその団員を踏み台にして、世界に羽ばたく白鳥になるのではないかと、誇大妄想気味に、彼女の未来が開いていくのが見える。
「ねぇ。あなたは何の役をやるの?」
バレエ教室が信号の先に見えてきて、加奈子は話を恵に振った。恵はつまらなそうに、
「ジュリエット。」
「あなたがジュリエット?小さいジュリエットね。」
「ねぇ、お母さん。ジュリエットは十四歳。ロミオは十六歳よ。」
恵はむっとした様子で、学院からの帰りにネットで調べた知識を披露した。
「まぁまぁ昔は随分と若く恋をしたものね。生き死にの恋なのにね。」
「若いから生きるだの死ぬだのなのよ。」
「あら。じゃああなたはジュリエットと同じ十四歳。あなたのロミオはおいくつ?」
十六だった。美しい十六歳。自分が美しい十四歳とは思えずに、恵は口を閉ざした。
「十六。同い年よ。」
車が停まると同時に、絵里奈が口に出した。絵里奈も十六歳。恵は七月の生まれだから、もうすぐ十五になる。ロミオもジュリエットも、若い内に恋の火を燃やしたのかと思うと、自分とは遠い世界の話だと思える。しかし、バレエの世界など、どれも御伽噺や空想で、自分よりも遥かに遠い場所ばかりだ。だから舞台の上は夢舞台なのであろう。『くるみ割り人形』も『ドン・キホーテ』も『白鳥の湖』も、全てが遠い世界だからこそ、現実にはない御伽の話だからこそ、一層に輝くのだろう。バレリーナは、それを世界に顕現させることがその使命である。だからこそ、多くのバレリーナたちが、苦心惨憺の思いで、その芸術を顕すために命を削る。絵里奈にはその覚悟があるのだろうと、恵には思える。私はどうだろうかと考えると、恵はまた足下が覚束ない。踊る快楽はあるのに、しかし、それを続けていく覚悟をこれほどまでに若く求められて、その資格の多寡すらもあからさまに下される世界に、恐ろしさすら感じる。


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