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機械仕掛けのボレロ④


 一度脱いだタキシードはもう上手く着こなせない。ロイはしどろもどろで服に出来た皺を伸ばしながら、パーティー会場を睥睨した。今までに見たことのない人数が、ひしめき合っている。そうして、彼らの中で、ロイは妙に居心地が悪い思いだった。
 恵はどこかに行ってしまって、それは彼(彼女)のタキシードが破れたからかもしれないが、ロイはもう顔見知りもいなくなり、ただその場で時間を潰していた。御父様の姿も見えないのだ。どこにいるのか、わからない。ただ、様々な言語が彼の耳を素通りする。英語や日本語、フランス語にイタリア語、それからオランダ語。全てを理解できるわけではない。
 ロイは頭で湯を沸かされたようで、広間を離れて、館の中を歩き回る。そうしているうちに、少し落ち着きを取り戻して、壁に架けられた様々な絵画に、彼は思いを馳せた。黒い、異質な絵が並んでいるのを見て、ロイは足を止めた。見たことのある絵が、幾つも並んでいる。ゴヤの絵だった。十九世紀の画家。晩年に、聾になると、聾者の家に引き篭もり、そこで十四枚の黒い絵を描いた。その絵の複製であろうか、幾枚も並んでいる。
「本物だよ。」
ロイが振り向くと、御父様がいた。漆間は、作務衣を着ていて、白髪はいつものように、鬢で撫でつけている。麝香がして、ロイは鼻をひくつかせた。
「全て本物だ。フランシス・デ・ゴヤ。聾者の画家。その天才が、内に籠もって描いた暗黒だ。美しいと思わないか。」
ロイは、全く予期せぬ御父様の声に、手が震えるの感じていた。指先の感覚がない。しかし、御父様は変わらずに、絵を見つめている。
「黒い絵とはよく言ったものだ。絵は好きかね?」
ロイは頷いた。そうして、御父様はロイをじっと見つめていたかと思うと、ふっと手を差しのべて、彼の白く灼けた髪に指先を這わせた。
「黒いものと白いものは似ている。どちらも等しく美しいものだ。とくに本物は。」
「俺は紛い物だ。」
「それでも価値はある。役割も、使い道も。君はロイだな。」
「俺の名前を知っているんですか。」
「知らない複製人間の方が多いが。お前は私と共に月に行くんだろう。」
ロイは漆間の目を見つめた。その目は、恵に似ていた。似ていたが、しかし、より黒く、時折微かに水の湛える音がした。
「とても碧い目をしている。」
「この招待状が届いたんです。インビテーション・カードです。俺は、こんなものが送られてくるなんて、思いもよらなかった。」
「お前が特別だからだ。私は子どもたちの中でも、特別な子には施しを与えるべきだと考えている。」
「俺は特別な子ですか。」
「そうじゃない人形は、この屋敷には入れない。」
漆間はそう笑うと、
「来なさい。」
そうとだけ言って、その場から歩き出すと、ロイはしばらくの間、足が動かずに、ただ彼の背を追っていたが、慌てて漆間の後を追った。廊下の奥、その先に扉があり、漆間はノブに手をかける。ロイは、その扉の蝶番に視線を奪われる。精緻に出来た小さな人形が二人交わっている。扉が開かれると、二人は引き剥がされた。
「人形の部屋だよ。」
その言葉通り、部屋は人形で埋め尽くされていた。数多の人形が静かに佇んでいる。
「球体関節人形、ビスク・ドール、ぬいぐるみ、彫刻。ありとあらゆる人形、それもアンティークをね、集めている。」
人形は、掌のサイズ、指先のサイズのものから、等身大のものまで、様々だった。ヴェールを被った美しいバレリーナの人形は、本物の人間のように思える。これに意思が入り動き出したのならば、それも複製人間だろうか。
「世界中にいるコレクターたちから購入したり、交換したものばかりだ。欲しいものがあるとね、何が何でも手に入れたくなる癖がある。そのことばかり考えてしまう。研究中でもね。あまりいい傾向じゃない。そうして、哀しいことに、手に入れてしまうとすぐに飽きるんだ。愛でて、遊んでは、もういらなくなる。」
漆間は哀しげに呟いた。人形たちは、乱雑に置かれていて、しかし、静かな調和があった。そうして、その中には、梟や狸、はたまた狼の剥製までもある。
「その狼はフランスの狼だ。ジェヴォーダンのヴィートを識っているかね。」
「十七世紀の、巨大な怪物でしょう。フランスの村々を襲った。」
「博学だな。そうだ。そうして、正体が不明の巨獣だ。その巨獣は、異様に巨大な狼だとも、アフリカから来たハイエナ、はたまたはライオンだとも言われている。未だに謎の、不可思議な事件だ。」
漆間は剥製の頤先から鼻を撫でながら呟く。そうして、それは、何か人形たちと交感しているかのように、厳かな声だった。
「誰かが造った、何かと何かを掛け合わせて造った人工の生物だという話もある。それが本当ならば、素敵だと思う。生物学者としては、夢のある話だと。」
漆間は人形が立ち並ぶ中に置かれた一つにソファに深々と腰を下ろすと、ロイを見つめた。そうして、その目の中に闇が大きくなると、
「お前の身体を見てみよう。」
そう呟いた。ロイは、漆間の言葉の意味がわからずに、そこに立ち尽くした。
「お前が人形として美しいかどうか。それが識りたいのだ。」
ロイは静かに、恐る恐る頷いて、タキシードを脱ぐと、その裸身を、漆間に見せた。漆間は何も言わずに、しばらくの間、ロイの裸身を観察していた。
「戦士の肉体。荒々しい、闘士の肉体か。このタトゥーは何だ?」
「これは……。俺が彫ったんです。」
「自分でか?」
「はい。」
「……なるほど。美しい身体だ。本当に美しい。君は戦闘用だが、慰安用の複製人間の身体を見たことは?」
「異性との交遊は共有スペース以外では禁じられています。」
「ファームには森がある。悪い遊びに耽ることが出来る森が。」
「そういうことは、俺の知る限り、誰もしていない。」
「どのみち意味がないか。愛欲を満たす以外、哀しいかなお前たちには先がない。それだけ、完璧な身体をしていたとしても。」
漆間は詰まらさそうに呟いた。そうして、
「服を来なさい。そろそろダンスフロアに戻ろうじゃないか。」
ロイは何度も脱いだシャツとタキシードをまた身に纏うと、漆間が近寄ってきた。彼は静かに手を伸ばして、ロイのシャツを整えてやる。御父様の息がかかり、それは白骨の匂いを思わせたが、しかし、彼の心に安堵が募った。
 御父様の背を追うように、部屋を出ると、また蝶番の恋人たちは一所になる。この部屋の秘密が露わになるときだけ、彼らは離れ離れだ。そうして、廊下を進み、黒い絵の群れを抜けると、螺旋階段から下、先程の少女のバレリーナたちが踊っている。彼らもまた、慰安用、娯楽用の複製人間。その中央に、黒と白のイヴニングドレス姿の恵がいた。男装ではなく、女装で、しかし、やわらかな眦は、先程の男性性を消していて、もう女だった。円みを帯びた身体の背は、肩胛骨の隆起が工芸のようでもある。恵はロイと御父様に気がついて、可憐にほほ笑むと、二人の元まで歩いてきた。
 恵のやわらかな目線に、漆間は、
「知っているのか?」
「さっき会ったの。バレエの練習中に。」
「そうか。今日は踊りは披露しないのか?」
「子どもたちがね、愛らしく踊ったもの。」
恵はそう言いながら、ロイをじっと見つめている。恵の目は、睫がきれいに連なっていて、黒い弓が立ち並ぶようだった。瞬きするたびに、矢が放たれる。ロイもじっと恵の目を見ていた。恵はそっと手を差しのべて、ロイは無意識にそれを手に取った。恵はゆっくりとしたテンポでステップを踏み、それはいつしかロイにも波及した。二人は、ダンスホールの中央を、堂々と歩んで、タンゴを舞った。ロイの大きな手から、フタナリヒラらしい華奢な手が、透き徹るような白さで伸びていた。そうして、恵は幽かに陶然とした目差しで、ロイの碧い目を見つめる。ロイは、慣れもしないタンゴを自分が踊れることに驚いていた。それは、恵がロイを導いているからかもしれなかった。二人の踊りを、招待客たちは食い入るように視摘めていた。そうして、御父様は手近なソファに座り込み、物思いに耽るように、その視線を、二人や中空に彷徨わせている。
「身体を使うのが得意なのね。」
「戦闘用だからな。」
「なるほどね。ねぇ、相談があるの。」
女装をすると、女言葉になる。そう思いながら、ロイは耳もとに囁かれる幽けく甘い恵の息を感じながら、耳を欹てた。
「殺しを手伝って欲しい。」
「殺し?」
「戦闘用だもの。」
くすくすと笑いながら、恵はそう言った。ロイは、動揺をすることもなく、恵の動きに付いていく。
「誰を殺すんだ?」
「御父様。」
「どうして?」
急に、四歳児に戻ったかのような不安の声が、ロイから放たれた。
「私はあの人の人形じゃあないからよ。」
「俺たちはあの人に造られただろう。」
周囲の客たちに聞かれるのではないかと、ロイは冷や冷やとしたが、音楽と、会話と、喧噪とがそれを掻き消している。そうして、耳もとで交わされる会話は続く。
「それでも、人形じゃあないわ。私は女で、男で、戦いの夢も、愛の夢もみるわ。あなたは?」
ロイは黙り込んだ。恵の言っていた、子供を抱く夢が浮かんだ。それから、猛々しいセックスの快楽も。詩を思うことも。
「色々なものを見たいと思うことはある。」
「月に行くのはいいわ。でも、あなたは戦闘でいずれは死ぬの。宇宙空間で死ねば、回収もされない。永遠に虚無を漂うの。」
恵の目は、だんだんと黒が深くなる。
「彼を殺して、どうするんだ。」
「逃げる。」
「君は有名だ。逃げられない。」
「あなたがいるわ。守ってくれるんでしょう?」
ふいに耳もとが噛まれた。山猫のような女(男)だと思えた。
「ばれないように、静かに、ゆっくりと殺すわ。暗殺するの。森の中で。」
「ファームの森?」
「悪いことができる場所。」
恵は、自分の計画を話しているうちに、陶酔の呼び水に深く入り込んでいく。そうして、男と女が代わる代わる姿を見せる。それは、声色でわかる。恵の夢想に付き合う内に、恵を果てしなく抱き、恵を果てしなく詠う夢が、ロイの碧い目の中できらきらと瞬き始めた。
「今日、あなたとはここでしか会えない。ねぇ、教えて。あなたは夢を見る?自由に飛ぶ夢を。」
「詩の中では。」
「私たちは、魂で共鳴している。」
恵は手を伸ばして、その指先で、ロイの白く灼けた鬣を愛した。先程、初めての戯れに、彼女(彼)が彼の星座に触れたように、冷たい手先だった。ロイは項垂れて、幽かに遠吠えた。恵もロイに耳先で、幽かに山猫の声で応えた。それは、獣の呼びかいだった。
 そうして、ロイの耳もとに、再び喧噪が戻ってきた。社交場の花になって、二人はそのままほどけあうと、恵は目配せをして、彼に背を向けた。ロイは一人立ちすくんで、今度は人々に囲まれる恵を遠目から見る。そうして、恵はそのまま御父様の元へと向かうと、はしゃいだような顔立ちに戻る。男の恵と、女の恵と、その両方を見ている内に、だんだんと、その両方のどちらが彼女(彼)なのか、わからなくなる。
 

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