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雨の獣⑦


 美雪は高校に転入して以来、僅か三ヶ月で学校中の男を手玉に取った。文字通り、学校中の男をである。生徒から教師まで、全ての男が美雪の虜となった。まるで絵物語のようにあり得ぬ事が、彼女の美貌を前にすると起きてしまった。そして、その美しさは直ぐに同姓へも波及していった。自分の恋人にちょっかいをかけられたと勘違いし、抗議に来た同級生の貞操を美雪は奪ってしまった。それは、後日、その生徒が私に大粒の泪を零しながらその時の仔細を語って聞かせたから知り得た事実であった。様々な人間が、美雪の父である私の元に鬼気迫る表情で訴えに来る。人違いではないかと云う私に疑問にかぶりを振り、自分たちが如何に美雪を愛し、美雪を憎み、美雪に愛されたいのかを滔々と語るのである。私には俄には信じられなかった。美雪がそのような破廉恥な化け物に成長したとは思えなかった。あのきらきらとした双眸を私に向ける愛しい娘。その娘が何か得体の知れない化け物だと罵られる事に、私は怒りと畏れとを同時に抱いた。高校に転入して以来、美雪は家に寄りつかなくなった。私に小言を聞かされるだろうかと一人悩んだが、汎ゆる人々の汎ゆる言葉を浴びる日々の中、どうも美雪は本性からしてそのように摑み所のない、夢魔のような存在なのかもしれないと云う思いがわき起こり、その疑念は、積み重なる彼女に纏わる様々な噂話の中で確信へと至るのであった。本来からの驕慢であるのか、それとも、このような不可思議な成長を伴った故の反動で精神に異常を来したのか。それはどちらとも云えず、私はただ美雪の本性が知りたく、ある夜美雪が珍しく家に立ち寄った際に、たまには夕飯でも一緒に食べようと提案し、美雪も渋々ではあったが、それを受け入れ、私は急いで近所のスーパーに食材を買い出しに行き、研究所で一年程お世話になった露西亜人学者のお手製のボルシチのレシピを頭の中から引っ張り出して、台所で一人奮闘しながらも、それを完成させた。熱々のボルシチを持ってロビー中央のテーブルへと赴くと、美雪は一人静かに本を読みながら私を待っていた。ボルシチを置きながら、改めて美雪を見つめた。その身体の仔細を見つめていく内に、なるほど、これならば数多の男が陥落するわけだと、一人得心をした。美雪の足はマネキンのように細く、長く美しく、かつ艶めかしかった。艶めかしいのは足だけではない。その顔も、その指も、その踵も、その首も、その顔も、その胸も、その胴体も。全てが完璧な色形で構成されていた。僅か半年間に、彼女は子供から大人へと転身しただけでなく、女としても破格のものを持つに至っていた。静かに本を捲るその指先から漂う仄かな香りに、目眩を誘発されそうになる。あれほど私が望んでいた娘は、今は全く違う別人へと変わり果てていた。本から視線を上げて、彼女は私を見詰めた。ただ何も云わずに、私も見見詰め返した。その瞳の奧で、彼女が何を考えているのか等は、私には解ろう筈もなかった。見つめられている内に不思議な感覚が胸の中にむくむくと沸き起こり、私はただ彼女から目線を反らすことなどできなかった。無言でボルシチを食べて、親子の時間は終わった。馬鈴薯を噛み砕きながら、様々な思いが胸に去来していた。美雪は、私の作ったボルシチをただ咀嚼し、呑み込むだけだった。私に対しての感謝等はどこにもなく、ただただ、目の前の物を食べるだけ。酷く空しい思いがした。半年前、美雪が再生した頃には抱くとは思えなかった感情が私を支配した。手足の先が痺れ、頭の奧に鈍痛が定期的にやってくる。眼を覚ますだけで充分だと思っていた。それがいつの間にか満たされない思いへと変化し、美雪からの愛を求めるように、私の思いは変化してしまった。神は私から美雪を奪い、美雪は私から全てを奪った。残るのは苦痛だけだった。
 医者に処方された抗鬱剤を飲み、布団に潜り込んだ。瞳を瞑り、やって来る幻覚に眼を向けている間、私の中から美雪が消えていく。愛している娘。誰よりも可愛い娘。いくつもの動物の死骸が転がる部屋の片隅で、美雪が泣いている。彼女の頭はぱっくりと二つに割れ、中から覗いた脳幹がそのまま部屋に散らばる動物の死骸に繋がっている。接続されている、そう言い換えた方が正しいのだろうか。私はゆっくりと美雪に近づいてしゃがみ込み、割れた頭から零れそうになっている脳みそをゆっくりと戻してやろうとする。ひくひくと泣きじゃくる美雪の顔は、今にも崩れ落ちそうで、皮膚の表皮が砂時計の砂のように地面に堆い山を積み上げていく。さらさらと崩れ落ちる皮膚を受け止めようと掌を差し出すが、表皮の山は変わることなく、眼の前に積み上げられていく。不思議に思い自らの掌を見ると、大きな空洞が空いていた。貫通した掌の中に空いた穴ぼこから幾匹もの芋虫が湧き出てくる。思考回路が乱れ、私は、ただただ焦り狂ったように美雪の脳みそを頭の中に詰めていく。脳幹に繋がれた大量の鼠や猫、牛、馬、鳥、鹿、山羊、虫の死骸も、頭の中が破裂しそうなまでに膨らむまで押し込んでいく。痛い、痛いと、美雪の声が私の神経を掻き毟るように蝸牛の横で響き渡り、とうとう私は眼を覚ました。枕元の時計を見ると、深夜一時を回った所だった。四時間程、私は眠っていたようだった。部屋の電気は消されており、ふいに、美雪が私をベッドまで運んでくれたのかと、そういう憶測が浮かんだ。ベッドに腰掛けて、一人先程の悪夢を思い起こす。私の原罪ー動物のDNAを弄くるあられもない研究に対する罪悪感が、あのような不愉快な夢の引き金となったのか。美雪の中に眠る他者の意識ーそれがあの無感情で、かつ冷酷な今の美雪を構成しているのか。私は、自分が産み出した化け物に対して、微かな恐怖を感じ始めていた。これから美雪がどのような成長を迎えていくのか、私には想像すら出来なかった。ふいに、水の流れる音が聞こえ、美雪がシャワーを浴びている様が脳裏に浮かんだ。私は立ち上がり、導かれるようにシャワールームまで足を運んだ。厭な予感がしていた。粘つくような、脂身の塊を口いっぱいに頬張るような不快感。シャワールームに行くまでの間、視線に映るそれに私は戦慄した。見知らぬ靴と鞄。間違いであって欲しいと、私は静かに電灯を付け、シャワールームの前で立ち止まった。お湯の流れる音が消え、シャワールームの中の影が微かに揺らめいた。鼻腔の中を充満していく獣じみた匂いはお湯で幾ら洗い流そうとも消えるものではなかった。私は吐き気を堪え、大急ぎで自分のベッドに戻った。暫くするとシャワールームのドアが開き、誰かが出て行く音がした。私は布団を被りがたがたと震えた。美雪がこの部屋に来る事に対する恐怖が、私の中で増大していく。美雪が何かを探す音が微かに、時折聞こえ、暫くするとそれが止み、無音になった。私は瞳を空けた。暗い部屋の中で、研究書物が乱雑に積み重ねられた部屋の中で、私は美雪の影を捉えた。私は再び眼を閉じた。視界が閉ざされ、代わりに恐ろしい程に嗅覚が鋭敏になる。洗い流された筈の、美雪に纏わりついた血の臭いが、私の心身を圧迫する。不意にベッドが深く沈んだ。微かに呼吸音がする。美雪がベッドに座ったのだろうか。私の皮膚を嗅ぐかのような音が耳朶を擽った。間違いなく美雪の匂いだったが、動物の体臭の其れが、微かに彼女の中に芽生えていた。私も喰われるのか、喰われて死ぬのかと云う恐怖が、増大していき、破裂しそうなまでにはち切れた。その直後、温かな水滴が私の頬を伝っていく感触に襲われ、急激に緊張が緩んでいく。次いで、私の髪の毛を優しく撫でる感触に覆われ、心の中が満たされていくのを感じた。瞳を空ける迄もなく、美雪の愛情を私は感じていた。暫く私の髪を撫でた後、ゆっくりと美雪が立ち上がった事が、ベッドから伝わる感触でわかった。ドアが開く音と共に、微かに差し込む灯りに思わず眼を開ける。刹那、美雪と眼が合い、私は瞳を閉じる事が出来なかった。美雪は変わらす美しく、その姿に血の色も見あたらなかった。ただただ泪だけが瞳いっぱいに浮かび上がっていた。ドアが閉まると同時に、心の深奥から後悔の奔流が押し寄せ、瞳には堪らないほどの泪が浮かんでいた。美雪の驕慢な態度と云うものは、恐らくは自らの変化に拠るところが大きいのかもしれなかったが、それ以上にその態度と云う物は、彼女自身を自らを守る盾のようなものなのかもしれないと思えた。

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