美獣
1-5
明月院の脇にある『彼』の屋敷から、北鎌倉の駅までは歩いて五分ほどである。水音が聞こえていて、渠だった。その渠の脇にも、月明かりに照らされて、青色の紫陽花が美しく咲いていた。
美月と肩を並べて歩いているうちに、公武は不思議な思いに囚われた。さきほどまでのささくれだった焔は小さくなって、また男の火が揺らめきだした。それはどんどん火勢を増して、このままであれば、掌をかざすとそのまま火が溢れてこぼれおちるのではないかと思えた。そういうまぼろしを弄んでいると、
「恵さん、泥の中でも踊るんですわね。」
「見てたんですね。」
「見てましたわ。」
「あなたも僕と踊りましたよ、泥の中で。」
「紫陽花の中でしたわ。」
美月がほほえんで、その場で爪先を立てると、くるくると回った。
「公武さんのお家はここからは遠いの?」
「僕の家は長谷ですから。美月さんと同じくらいの場所かもしれない。」
「じゃあ光本先生の家も近いのね。」
「美月さんはいつ頃からバレエを習っていたんですか?」
「小さい頃から習っていましたわ。たぶん、五歳くらいから。だから、もう十年になるわ。」
「僕の大先輩ですね。」
「そうね。あなたの何倍も先輩だわ。」
美月はそう言ってほほえんだ。公武が視線を落とすと、ぬれたアスファルトが星のようにまたたいていて、ローファーはその海をいく舟のようだった。美月の細い足首が、獣のようにしなやかで、いくら小さい身体といえども、たった一つの爪先であのように真っ直ぐに伸び上がるのは、人体の不思議だった。
しかし、公武も、意図的にせよ、あるいは意図的でないにせよ、あのような動きは容易にできる。日々の稽古は欠かせないが、しかし、生まれてすぐに恵まれた肉体の自分は、ここにいる少女の十年間をわずか一年で置き去りにしてしまう。恐ろしいことのように思えた。そして、自分がその才能の細胞に秘めているからだろうか、美月の踊りよりも、はるかに恵の踊りは蠱惑的に思えてしまう。公武にとって、二人はまったく正反対のダンサーだった。
美月は恵まれた容貌だが、しかし、恵は踊りに恵まれていた。そのことを、十年の歳月で、美月は容易に理解できるのであろうか、公武には何かを言うことなど、出来るはずもなかった。
鎌倉駅からバスに乗って、五つほど駅を超えると、長谷の町につく。瀟洒な家が建ち並ぶ区域に、美月の家はあって、公武のアパートから、五分もあれば着く距離にあった。
「公武さんは一人暮らし?」
「ええ。はじめは御父様と住んでいました。さっきのお屋敷です。でも、恵さんが面白くない顔をするんです。」
「恵さんはどちらに?」
「横浜です。そこから、電車で御父様の屋敷まで通っています。三十分ほどです。」
「一人は淋しくないんですか?」
「淋しいこともあります。でも、家には二羽の鳥がいます。」
「まぁ。鳥を飼ってらっしゃるの?」
美月の目がかがやいた。ガラスの中に朝の光が散るようだった。
「ええ。マメルリハという小鳥です。青い色の。」
「紫陽花みたいな色?」
「ええ。明月院の、姫紫陽花のような色です。男の子と女の子です。」
「見てみたいわ。」
「じゃあ少し寄って行きますか?」
美月は腕時計に目をやり、
「門限が九時なんですわ。」
残念そうに言った。そう言われて、公武はうなずいた。しかし、少しばかり思案した様子で、公武を見ると、
「いいえ。やっぱりお邪魔しますわ。」
「でも、門限があるんじゃなかったんですか?」
「いいですわ。少しくらいなら、不良になりますわ。」
美月はそう言って、公武の手を握った。唐突に手を握られて、公武の身体は硬直した。ダンスの最中に、パートナーの手を握るのとは違う、やわらかな手だった。美月の色が、公武の目にほの赤く映った。
「じゃあ行きましょうか。すぐそこですよ。」
手を振りほどくのもおかしいから、公武はつないだ手はそのままに、アパートの方向へとゆびを指した。
甘縄神社を超えて、鎌倉文学館を横目に進んでいくと、公武の借りているアパートが見えた。白い板張りの壁が、月明かりでほとんど青い。
部屋に入り、灯りを点けると、小鳥たちがしずかに籠の中にいた。どちらも眠っていたようで、突然の光に、放心状態だった。青い毛がふくらんでいて、寝起きだった。
「起きがけはいつもこんな感じなんです。ぼぉっとしていて、毛がふくらんでいるんです。」
「小さいのね。かわいいわ。」
美月はおそるおそる籠先に指を近づけて、小鳥たちの反応を待った。小鳥はときおり小さい声で鳴いて、そして黒い目で美月を見つめた。
「今は眠いんでしょう。明るいときだと、すごく元気で、二羽とも籠の中を飛び回っていますよ。」
「不思議。こんなに小さいのに、生きているのね。何才なんですか?」
「まだ一年です。僕の半分です。ここに移る時に、御父様に頂いたんです。」
「じゃあまだ子供ね。」
「子供です。子供ですけど、ときどき求愛のダンスをするんです。」
そう言うと、美月は公武を見つめた。
「どんなダンス?」
公武は首から上を蠕動するかのように左右に動かした。美月は思わず笑った。
「春と秋は発情の季節なんです。」
「早いのね。じゃあもう一歳かそこらで……。」
「父親にも母親にもなります。御父様に教えて頂きました。」
小鳥たちは突然の明るみになれたようで、首を伸ばしたり、羽根つくろいをはじめた。公武が人差しゆびを差し出すと、一羽が首から上を左右に振り始めた。
「まぁ。」
「この子は男の子なんですけど、僕のゆびがお気に入りのようです。僕のゆびに発情しているんです。男の子は、ほら、目元にかすかに線があるでしょう。」
言われて美月が籠を覗き込むと、たしかに牡のマメルリハの目元には線が引かれている。
「ほんとうだわ。」
「見分けるのはここが一番わかりやすいんです。」
美月は頷きながら、公武のゆびを見つめて、
「ゆびさきでもダンスをされるのね。」
マメルリハの求愛に応えるように、公武の指先も左右交互にゆれていた。その動きは、ダンスのパートナーを支えるように、パートナーの心に寄り添うような動きだった。
「発情してからは、毎日こうしています。こうしてやると、この子は喜ぶんですよ。」
マメルリハは興奮したのか、少し荒い声で鳴き始めた。そうすると、もう一羽の牝の方も、歌うように鳴いた。
美月は立ち上がって、部屋を見渡した。いくつかの写真集と、バレエのポスターだけが貼られた壁が、美月の目に留まった。その横に、一枚の写真が飾られているのに気付いて、美月はその写真をゆび指して、
「この子はだぁれ?」
公武は立ち上がり、美月の後ろに立つと、その写真にゆびさきをつけた。モノクロの写真で、サスペンダーをつけた西洋の少年の写真である。年頃は、五六歳であろうか。
「御父様に頂きました。」
「先生の写真?」
「いえ。僕の幼い頃の写真です。そう思って、この写真を置いてくれと、御父様に言われたんです。」
「じゃあ、ほんとうのあなたの写真じゃないのね。」
「僕は、このままの姿で生まれましたから。幼い頃の思い出がないんです。だから、御父様がこの写真を思い出の代わりにと。」
奇怪な遊びだと、奇怪な愛情だと美月には思えた。ほんとうの自分ではない写真を渡す『彼』の異様に、美月は戦くほどだった。しかし、複製人間の全ては、このようなものだろうか。過去がなく、記憶がなく、代替品として生きている。そして、過去に生きていた偉人たちのコピーとして、その技能や容姿を欲せられている。
そう思うと、美月は急な感情の昂ぶりにおそわれた。公武を覆う暗雲が、急に現実のものとなって浮かび上がったかのようである。美月は、振り向くと、公武を抱きしめた。公武は、さきほど手をつないだやわらかさが、今度は全身に入ってくるのを感じて、恐ろしいものと、好奇なものとを心に同時に感じた。美月の考えがわからず、ただされるがままだった。しばらくの間抱き合っていると、美月が顔を上げた。眦からひとしずくの清水がほほを伝って、床に落ちた。聞こえるのは、小鳥たちの鳴き声だけで、公武は、さきほどの求愛のダンスを思い出した。そして、美月はバレエを踊るかのように、爪先を上げて、しかしそれは両方の爪先で、身体全身を伸ばすと、脣を公武のものに近づけた。
公武の脣に薔薇が咲いた。そうして、その薔薇のみずみずしい匂いに、公武は理性を破壊されそうだった。目を閉じると、目ぶたの裏側に、恵が浮かんだ。さきほどの薔薇は、美月のものであり、恵のものでもあり、公武自身のものでもあった。
しばらくその薔薇を脣に遊んでいると、そっと脣が離れた。美月は涙のせいか、ほほも、眦も赤い。
「帰りますわ。」
美月はそう言うと、そのまま慌てた様子で鞄を手にして、部屋を出て行った。咄嗟のことで、公武は反応も出来ずに、美月の後ろ姿を見送るだけだった。
美月が部屋から出て行って、小鳥たちの鳴き声だけが残った。部屋に貼られている幾枚ものバレエ公演のポスターに映るダンサーたちが、公武を見つめている。
公武はひとつひとつのゆびさきで、自分の脣に触れていった。そのたびに、さきほど公武を覆った脣のいくつかの色が思い出された。そのたびに、薔薇の花が一回、また一回と、咲いていくようだった。その薔薇の花びらに、恵もいた。ふたりのバレリーナがくるくると公武の脣の上を踊っている。感じたことのないような心地で、公武はピアノの鍵盤を弾くかのように、何度も脣にふれつづけた。
美月の脣から、恵のまぼろしの脣までが、公武を襲って、急な昂ぶりに、彼の心は支配された。ベッドに横になると、まだかすかに匂いの残る掌を匂いながら、自身を慰めた。匂いには、美月も恵もあって、そうして、二人の娘の肢体があった。達すると、彼は天井を見上げた。二人の娘を思いながら、美しい童貞の肉体は汗にまみれていた。
公武がまどろみから目覚めると、もう朝日が差していた。小鳥たちは明るい部屋でも随分寝ていたようで、元気に羽根をばたつかせていた。公武は大きく身体を伸ばすと、汗にぬれたシャツを脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
脣を洗い流すと、薔薇の香りまで落ちていくようだった。あの夜に、自分は美月に薔薇の精だったのだろうか。それとも、美月が公武の薔薇の精だったのだろうか。どちらともわからないが、恵からの挑発的な言葉のいくつかが、美月の心に火をつけたのだろうか。恵は火遊びの名人のように思える。美月は恵の踊りに憧れて、恵を目標とするのか、それとも、自分の踊りを極めるのか、公武にはわからないけれども、ただ、ダンサーである美月の身体つきが、女に変わるそのときのやわらかさに、公武は動揺していた。
光本ダンス教室で会った美月は、何も変わったところのないようで、練習のはじまる前に、レッスン場のバーでストレッチをしていた。
公武と目が合うと、にこりとほほえんで、昨夜の口づけの記憶など、ないようである。今日は『薔薇の精』の練習で、公武はレオタードに着替えると、美月と並んでストレッチをはじめた。
そうすると、何人かの教室の少女たちが、はにかみながら公武に近づいてきた。公武が首を傾げると、ピンク色のレオタードを差し出した。薔薇の花びらが無数に縫い付けられた、『薔薇の精』の衣装だった。少女たちの手縫いであろうか。少女たちはまだ十か十一くらいの年頃で、公武が複製人間であることを、それほど深く考えていないように見えた。手渡されたレオタードを受け取ると、公武はにこりとほほえんだ。
「ありがとう。きれいな薔薇だね。君たちが作ったの?」
「ママに手伝ってもらって……。」
少女たちは伏し目がちだが弾んだ声で公武に答えた。公武は手を伸ばして、二人の少女たちの頭を撫でてやった。少女たちが笑い声を弾ませながらその場を離れて行くと、美月が後ろから、
「ずいぶんおもてになるのね。小鳥の男の子だって、あなたのことが好きなんですもの。」
公武が振り向くと、美月はほほえんで、
「あなたにお似合いになりそうですわ。」
「ほんとうに。こんなに手の込んだもの、大変だったろう。」
「バレエはお金も手間もかかりますもの。」
「これを来て踊ったら、僕でも薔薇の精に見えるかな。」
「充分ですわ。今でも、昨日の紫陽花の中でも、あなたは薔薇の精です。」
鏡に映る自分の顔は、やはりニジンスキーと瓜二つで、少しの違いがあるだけである。毎日見ていても、不思議なほどである。写真で何度も見ているニジンスキーの舞姿は、自分の記憶とは関係もなく、隔てがあるのに、自分が今見ているこの顔は、そのモノクロの写真と全く変わらないのである。
「踊って下さる?」
美月が手を差し出して、小首を傾げた。美月は少女の一人に頼んで、『薔薇の精』をかけた。レッスン場がたちまちステージに変わった。
『薔薇の精』を美月と踊るのはもう何度目かわからないほどだが、二人のパ・ド・ドゥはだんだんと息が合ってきて、もう発表会には間に合うだろうと思えた。しかし、踊る内に、だんだんと以前までの美月とは違う、女の美月がゆびさきや、手先に現れていた。一日だけで、美月の身体がこれほどまでに変化したことに、公武はおどろいていた。胸の膨らみや、脣の赤い色合いも、豊かになっている。
美月の中の女の種が芽吹いたのだろうか。それは、昨晩の口づけが影響しているのだろうか。踊るうちに、自分が美月に取り込まれそうになるのを、公武は恐れた。しかし、美月からは女の引力が発露していて、公武は知らず知らずのうちに、どんどんと美月のペースに嵌っていく。
曲が終わると、美月は肩で息をきりながら、公武を見つめて、小首を傾げた。その仕草は人形のようだったが、しかし、肉感的である。美月は変わってしまったのだろうか。そして、その変化は、この『薔薇の精』には不釣り合いにも思える変わりようである。
美しい乙女の見る妖しい夢を描いたこのバレエに、美月はあまりにも女になったようである。そして、その色は、美月自身を薔薇の精に変えて、公武を娘に変えたようにも思えた。
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