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稚児桜②

其の弐

『日新館』


 朝方、目を覚ますと、夜半に蕭蕭と降っていた雨はもう止んでいて、君は揺蕩う夢から離れて、布団から出ると、襖を開けた。朝露で濡れた廊下の縁に、幽かに昨晩の雨の気配がある。
「虎之助。」
呼ばれて、君が養父の石山弥右衛門の部屋へと赴くと、
「うん。」
「御父上様。お早う御座います。」
「御前、今日からだね。」
「左様にございます。勉強して参ります。」
「うん。」
弥右衛門はそのまま立ち上がると、君を置いて部屋を出ていった。君は、実の父の数馬を思い出していた。そうして、二人の親に、隔てがないのを、改めて感じ入る。
 君は、部屋に戻ると、麻上下の礼服を纏った。君は、姿見に自身を映し、十一になったのか、と独りごちた。それから、食卓に腰を下ろすと、もう用意があって、白米と漬茄子、味噌汁に加えて、常日頃には出ない、塩鮭が一尾出されている。特別な餞である。君は、箸に手をつけると、黙々とそれを食べた。一輪、花を添えられたのに、君の頬色は明るくなっていた。
 日新館には、什長に連れられて行くという。君は、屋敷の門前に出ると、途端に心細くなる。普段、屋敷では幾人もの奉公人に囲まれていて、彼らと暮らし、武家の子供らと遊んではいたものの、同年代から年輩の者たちが集う学舎は、やはりそれとは心持ちが異なる。日々の暮らしの新たである。
 君が、一人歩いていると、
「おおい。」
と声掛ける者があって、顔を上げると、君よりも幾つか年重の少年がいた。君は一礼してみせると、少年は頷いて、
「御早う。石山虎之助?」
「はい。お世話になり申します。貴方様の御名前は?」
「私は武藤清玄と申す。御前の組の什長です。」
「はい。武藤様、宜しくお頼みいたします。」
武藤はもう一度頷いて、着いてくるようにと、君を促した。君はそのまま彼の背を見つめながら、道を歩いていく。
「御前の話は聞いているよ。」
「はい。どのようにござりますか?」
「会津陣屋の素読所で二年、学んでいるんだろう。えらく優秀だと聞いたよ。」
「そのようなことはござりませぬ。至らぬことばかりで……。」
然し、裏腹に、君の心は花やかなものだった。
「会津に戻ったのは昨年かい?」
「はい。ですから私は、他の者よりも歳が一つ上でして……。」
そこまで言って、君は顔を上げて、微笑んだ。笑いかける少年たちが日まわりのように咲いていた。君の什の者たちだった。彼らもまた清玄に一礼をした。
「お早う。虎之助に、室山に、本丸に、澤田だね。御前たちの中で、誰が什長だったの。」
「虎之助様でござります。」
「ただ、年長だからですよ。」
君がそう言うと、室山が笑った。
「では、行こうか。」
清玄が促すと、君たちはその後ろを若雛のようについていく。そうして、顔を見合わせて、互いに微笑み合う。普段の仲間がいることが、君にも、彼らにも、力だった。そうして歩いている内に、遠くから、太鼓の音が聞こえてきて、日新館の南門が見えてくる。この前を、何度通ったことかと君に思い出される。その頃、陣屋の素読所で漢文を紐解くこと二年、君は先生からの覚えも目出度く、将来を嘱望されていたけれども、それらの思い以上に、君の肉叢に熱き血潮が猛っている。然し、それは緊張や高揚から来る、発熱のようなものかもしれない。君は、会津陣屋に戻り、新しい什に迎え入れられた折に、そこでは一番年重で、然し門外漢であったのに、子供らの融和というものは水のように隔てのないもので、すぐと遊びの什へと入れられた。然し、それは、子供らの気安さ以外にも、透徹とした什の掟があるからやもしれなかったが。
 戟門を抜けると、広大な敷地に、幾つもの殿が見える。君は、どれがどの塾か、武藤に尋ねると、
「私達の毛詩塾の二番組は、東塾にある。君ら以外の、什の連中も今から迎えに行かなければならん。少し待っていてもらえるか。」
そう言うと、清玄はさささと、また戟門を抜けて姿を消した。君は暫くの間、日新館の建物を眺めていた。ふいに、空を鷹が飛ぶ幻が見えて、然し、雲が点々としているだけである。
「きれいなものだね。」
君が独りごつと、澤田が首を傾げた。
「うん?空?」
「うん。雪と、鷹。」
そう君が応えると、清玄がまた数名をぞろぞろと引き連れて戻ってきた。
「それじゃあ、行きましょうか。」
清玄に連れられて、十名ほどの少年たちが、日新館をぞろぞろと突き進んでいく。その日は、挨拶に始まり、挨拶に終わった。学校奉行や学校奉行添役に、素読所勤に素読所手伝勤。様々な人々に、挨拶に回る。その度に、姿勢を正して、彼らの目を見る。それから今度は、自分たちの組の仲間それぞれの者の家に挨拶へと向かう。挨拶だけで、心が疲れてしまうようだった。火照っていた頬も、挨拶回りが終わる頃にはもう冷めていて、だんだんと眠たくなる。君は、眠たくなると、耳たぶが熱く、赤くなった。それは、虎之助以前、直次の頃からである。
「疲れたか?」
清玄に問われて、君はかぶりを振った。
「御気遣い忝のうござります。」
「うん。まぁ、そんなに固まるな。もう、直に済む。」
君は頷いて、清玄の後ろをついてまわった。
「御前はどんな詩歌が好きだ?」
「歌でございますか?」
「うん。」
清玄は、気付かれを気にして、君に話を振ったのかもしれない。君にそれが有り難く、
「どの歌も好きでございますけれども、陸奥のしのぶもぢずりたれゆるに乱れそめにしわれならくに。」
「河原左大臣。恋の歌だね。」
「私はまだ、誰も慕うたことはございませんけれども、知っている言葉が出てござりますから、この歌に愛着があるのやもしれませぬ。」
歌のことになると、君は饒舌になる。君は記憶力が良いから、まだ五つか六つの頃には百人一首の暗誦をすらすらとこなしてみせて、父母に大層喜ばれた。そうして、それは君の心に自然と忍ばれてきて、記憶を繰るように、札も繰るのだった。その折の、父母の情け深い顔は、君に雪洞であった。声だけはまだ耳底に流れていて、君に、聖に寂しい。ねぇねぇ、御父上様、御母上様、御伽草子を読んでくださりませ、平家の物語でございまする、壇ノ浦の、安徳天皇の、幼子の物語にございますると、自身の声までもが耳に聞こえる。まもなく思春の季節である。声が変わり、それは、成人の印である。君に、それは早すぎる郷愁である。
 君や、什の者たちに皇国主義的な気風を齎せたのは、紛れもなく会津藩の教育風土にあろうけれども、然し、君にはそれは水の流れるように、至極当然のことである。
 その日は、挨拶廻に追われて、夜半に屋敷へと帰ると、もう夕餉だった。湯に浸かり身体を清めると、行灯に火を灯し、和本を浚った。その和本は、入門の初等でもある、孝経、大學、書経、論語、孟子、中庸、小學、詩経、礼記、易経、春秋、そして童子訓の書かれた一二葉のもので、これを素読口授を受け、それを大まかに読み覚え及第に達すれば、更に次巻へと進める。素読所に通っていた折から、君は学びに貪欲だったこともあり、大概は頭に入っていた。然し、今日は流石に疲れがきていた。日新館は広く、其処に通う学徒たちの数の多いことに、この町内だけではなく、会津の武家の子弟たちは皆此処に足を運ぶのだと、驚くようだった。そうして、目頭を揉んで、燭の火を消すと、辺りは暗闇に包まれる。闇に目が慣れてくる頃、疲れている筈なのに眠りにつけず、目を瞬かせ、寝床から出る。壁に架かる脇差小太刀を眺める。そうして、軸が風に揺れる。何かいるのだろうか。廊下へと出づると、君は千載之松から視線を感じて、そこを見やると、然し、その気配はふっと消えて、月だけが照っている。幽かに寒気がした。そのまま厠から寝床へと戻ると、君は、すぐと眠りについた。

キャラクターイラストレーション しんいし 智歩

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