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ミルキーウェイ

2-3

 翌日に、朝から草麻生は町に降りた。駅でタクシーを拾い、郊外にある狩屋の屋敷へと向かった。狩屋の屋敷は、原田の屋敷とは対象に、日本家屋だった。そして、狩屋の屋敷の周囲には人気もなかった。裏手は神社で、その神社が有する巨大な竹林は、人々がいても声を奪うのだろうか。ただ竹笹の揺れる音だけが聞こえていた。お手伝いに通されて、庭に足を踏み入れると、鹿威しの鳴る音が聞こえた。小さな池があり、しゃがみ込んでそこを覗き込むと、冬のせいか、命の音がしない。
「水の底にね、隠れているんです。深い池ですから。左右で深さも違って、こちらかみて右にね、穴蔵があるんです。」
草麻生が覗き込むと、その穴蔵を赤い尾びれが揺れたように思えた。また鹿威しが聞こえた。
「餌をあげるとね、出てくるんです。水の底は暖かいのかしらね。」
草麻生は立ち上がると、お手伝いの後に着いていった。そうして、屋敷に足を踏み入れると、玄関に大きな軸が掛けてある。『仏界入易魔界入難』と書いてある。草麻生はしばらくその軸を見つめ続けた。
「先生はこちらですわ。」
お手伝いの言葉に促されて歩いていくと、廊下の障子硝子から、離れが見えた。
「あれは先生の研究室です。色々な動物を研究されていますから。」
長い廊下を無言で着いていくと、廊下の突き当たりでお手伝いが振り向いた。
「先生。御客様がお見えですが。」
「入ってくれ。」
狩屋の声が聞こえて、お手伝いはゆっくりと障子を引いた。机に向かっていた狩屋が振り返り、草麻生を認めるとほほ笑んだ。
「客人にお茶を頼むよ。」
お手伝いは頷いて、そのままいそいそとその場所を離れた。狩屋は嬉しそうに立ち上がると、草麻生に座るように促した。
「論文を書いていた。生物の塩基配列、その不可侵の領域。」
「不可侵の領域なんてあるんですか?」
「それは研究者によって異なるだろうね。見解の相違もあるだろう。」
「あの離れがあなたの仕事場ですか?」
「そうだ。ここは主に書き仕事をする場所だよ。あそこはたくさんの動物もいるから……。」
「動物ですか?」
「実験動物……。鼠や鳥や猫や犬。今日は百子に会いに?」
百子という言葉に、令嬢の顔が思い出された。
「あなたに会いに来たんです。」
「ほう。それはまたどうして?」
不意を突かれたように驚いてみせて、そうしてまた狩屋はほほ笑んだ。狩屋は草麻生を観察するかのように観ている。そうして、狩屋の机の上には幾本もの酒瓶が並んでいる。ブランデーやウィスキーがきらきらと琥珀色のホルマリンのように並んでいる。
「あなたの言葉が気になったんです。」
「僕の言葉?」
「君も同じかもしれない。」
草麻生の言葉に、一拍を置いて、狩屋はまた深い笑みを浮かべる。そうして、しばらく黙ったまま、草麻生を見つめた。
「自分も複製人間かもしれない。そう思ったのか?」
「そういう意味ならば。」
「いや、気にしないでほしい。悪い冗談さ。」
「冗談?」
「薺ちゃんは複製人間でしょう。それは真実だ。しかし、薺ちゃんは人間にしか見えない。魂がない。それだけが人間との違いで、それ以外は人間でしょう。」
草麻生は眉根を寄せて狩屋を見つめたが、狩屋は動じることもなく言葉を続ける。
「だからね。あんなにも人間に似ているのに、それでも人間じゃないなんて、ひどく奇怪なことに思えてね。僕も仕事柄動物を弄くることが日課になっているが、彼らだって、僕に弄られる前と、その後との差異というものがどこにあるのかわからない。薺ちゃんはまるで人間そのものだが、君とは決定的に違う。ポール・ゴーギャンの絵画で、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵があるでしょう。あれを考えてしまうんですよ。我々は何者か。複製人間はどこから来たのか。我々がどこから来たのか、君も僕ももちろん知ることはない。おそらくは広大な宇宙のなにかから始まっているんだろうけれども、それが神なのか何なのか。まぁ、神に近いものでしょう。ただ、彼女はどこから来たのか。それを考えるとね、彼女に魂がないというのも道理だと僕は考える。」
「宗教の話ですか。僕は無神論者ですよ。」
「矛盾かもしれないが、科学を深く学べば学ぶほど神を感じるものだよ。神を信じるのは天才と愚か者。神を信じないのは馬鹿者だな。」
「つまり、あなたは言いたいのは、僕たちはどこから来たのかはわからないが、そこに何らかの、神の意志のようなものが介在していると。そうして、薺は反対に、その何もわからずに作られた僕らから作られた訳だから、薺にとっては僕ら人間は神だと。」
「そういうことだね。けれど、僕ら人間は神ではないからね。だから、薺ちゃんは神に触れたことがないということだよ。」
「だから魂がないと?それは暴論に過ぎませんね。むしろ僕らに魂があるということ自体も眉唾ですよ。」
「だろう?だからこうも思うんだよ。僕らも薺ちゃんと変わらない。こうして自分が人間であると思っているだけで、本当は複製人間かもしれない。」
「魂のあるなしは関係ないと?」
「いや、複製人間と暮らす君だから、そんなことを言われたら動揺するだろうと思えてね。何か急に意地悪な思いつきを囁いてみたくなっただけのことだ。別に君が複製人間だと言いたいわけじゃない。君は人間だと思いますよ。恐らくですがね。」
草麻生は黙って狩屋を見つめた。お手伝いの声が聞こえた。そうして、部屋に茶菓子を置いていくと、いそいそと出ていった。
「あの離れでは何の研究を?」
「キメラですよ。」
「キメラ。」
「神話に出てくるでしょう。獅子と鳥と狒狒と蛇の交ざった化け物です。」
「新しい動物ですか。」
「レオポンのようなものです。ただ、なかなか上手いこといかなくてね。何十何百という命が消えていきました。」
「命を産み出すために、命を虐殺し続けるなら、それこそ悪魔の所業ですね。」
「人間は見たいものを作るためなら悪魔にもなれる。玄関の軸は見ましたか?」
「仏界魔界のあれですか。」
「そう、あれです。仏界入易魔界入難。仏界は入りやすいが、魔界は入りにくい。そういう意味だと私は思っています。」
「逆じゃないんですか?」
狩屋はかぶりを振って、草麻生を見つめた。しかし、その目は草麻生を通り過ぎて、その先を見ているかのようだった。それが何を見つめているのか草麻生にはわからなかった。
「あれは一休禅師の揮毫でね。一休は坊主のくせに、女を抱いて魚を食って、道楽を味わいました。胤は高貴な身分だと言うのにね。ただそれも、一休には深い考えがあってのことで、ほんとうの芸術を作るため、ほんとうの仏の道を知るためには、それこそ汚濁の世界、欲に塗れた悪徳を、身を以て享受しないことには始まらないという、そういうロジックがあるんです。それを聞いてね、なるほどと思いました。僕もいくつもの命を奪ってきたけれど、それでこそ生まれる新しい命が、まぁあるわけだ。」
「キメラが芸術ですか。」
「酔狂かもしれませんがね。ただ、そこから生まれる文化もあるでしょう。」
「僕は親父も嫌いですがね、あなたも大概に不愉快な思想の持ち主だと思います。」
狩屋は何も言わずに、ただほほ笑み続けた。美しい白い髪が均整を取って並んでいる。狩屋こそが作られた人間のようだった。怒りも、哀しみも置き去りにして、快楽を味わうためだけに生きている人形だろうか。
「失礼します。」
そうとだけ言うと、草麻生は立ち上がり一礼をして、狩屋の部屋を出た。振り返ることもせず障子を閉めて廊下を歩いたが、狩屋の目が背中に貼り付いて離れないように感じられた。そうして、長い廊下を歩いていると、急に障子が開いて、娘が飛び出てきた。百子だった。百子は驚いたように口を開いて、すぐさまその顔は笑顔に変わって、眦が垂れた。屋敷で会ったときよりも、幾分も幼いように見えたのは、何の化粧もない素顔だからかもしれなかった。
「お久しぶりですわ。」
「ああ。久しぶりだね。」
「今日はどうして?御父様に会いに?」
「そうです。でも驚いたな。あなたがここにいるなんて。」
その言葉に、百子は破顔した。完爾ない笑いだった。十六の娘より、より幼く思えた。
「だってここは私の家ですもの。」
「そうだったね。馬鹿なことを言ったね。」
「いいえ。でも不思議。あの時はお会いした時はスーツでしたから、今は前よりも若く見えますわ。」
百子は軽く息を吐いて、草麻生を見つめた。その目は色素が薄く、改めて狩屋の娘だと思えたが、しかし、純粋さが目の底に浮かんできて、草麻生に安心があった。
「御父様は今仕事中ですのよ。」
「ああ。そうですね。論文を書いていると言っていました。お忙しそうにしていますね。」
「原田先生もでしょう?」
「原田は今は隠居しているようなものですよ。本業よりも、人形作りに没頭しています。」
「父も、人形作りのようなものですわ。」
「合成生物ですか?」
百子は軽く頷いた。その目に、先程までの純粋が陰って、
「庭に離れがありましたでしょう?あそこが父の仕事場なんです。あそこで色々と、動物を使って研究しているの。」
百子の目線が、じっと離れの方を向いた。そして、草麻生に、先程狩屋の目が向いていた場所はあの離れだったのではないかという思いが浮かんだ。
「父には入るなと言われていますわ。」
「どうして?」
「子供には刺激が強いって。見てはいけないものがたくさんあるって。」
「青髭の館ですね。」
草麻生の言葉の意味がわからずに、百子は首を傾げた。
「見事な庭園ですね。」
話を変えるように、草麻生が言うと、百子は、
「御父様の趣味のようなものですわね。ほら、原田先生は、人形や絵画がお好きでしょう?どちらかというと西洋の物……。御父様は日本的なものが好きね。日本画や、歌人の歌や、それから茶器なんかも集めていますわ。でも、原田先生とは比べものになりませんわ。」
「西洋的と日本的ね。」
草麻生は屋敷を思った。豪奢な芸術品の中にはたくさんの絵画と人形がある。そうして、様々な目があって、その目は訴えている。それは、その芸術の中でも一等美しい娘である薺への憐憫の情である。歳を経るにつれて、それらの幻想は視なくなった。美しいミルク色の陶磁器の娘も色褪せた。しかし、それでも時折不気味なほどに、彼らの声が聞こえるような気がする。
「表にありましたでしょう?」
「仏界魔界?」
百子は頷いた。そうして、歩いている内に、その軸の前に出た。先程の狩屋の話の後にこの軸を見ると、一休が書いたというその様が浮かぶようだった。墨が禍禍しい髑髏から零れる涙の雫にようにすら見える。そうして、それは黒い火だった。
「狩屋さんは魔界を知りたいと仰有っていました。」
「御父様は時折怖い顔をなさいますわ。自分の研究を真っ直ぐに信じていらっしゃると思うんですけれど、何か、時折遠い目をなさいますの。」
「遠い目ね。」
「私と話していても、私を見てはいませんの。遠い遠い場所を見ていらっしゃるのよ。」
百子もまた、透き徹るような目をしている。それは狩屋から受け継いだ瞳の美しさだが、しかし、百子のそれはまだ濁ってはいない。
「それじゃあ帰ります。また屋敷まで遊びにいらっしゃい。」
草麻生がそう言うと、百子は頷いた。何か急に、この娘をこの家に一人残しておくことが恐ろしいことに思えた。それは、百子のすぐ横に飾られた軸のせいかもしれない。

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