見出し画像

ミルキーウェイ

2-6

 草麻生は部屋に戻ると、自分が作った人形たちの視線を無視し、狩屋を殺すための道具を探す。しかし、そのような道具など一介の人形師に過ぎない草麻生が持つはずもない。草麻生が手に出来る凶器など、蓑かナイフか包丁の類であろう。それがあればあのような男唯一人、簡単に殺せるだろう。しかし、原田と狩屋の間に交わされたであろう取引を考えるとき、草麻生の心に残虐の風が流れる。そうして、原田のアトリエに赴くと、幼い頃のそのままに今の今まで橙色の明かりに照らされた部屋を一瞥して、そこに置かれた原田の道具箱を漁り、中から丁寧に整備された猟銃を取り出した。頑是無い頃にそれを手にした折り、原田の怒りを買ったことを思い出すが、この猟銃が獣を仕留めたそのときも、草麻生は原田と共にいたのだ。
 まだ覚えている。あれは銀杏が燃える焔のごとくに黄金に棚引いて空を飛んでいた秋の日のこと、英国の紳士のように洋装の狩人服に着替えた原田と草麻生と薺であった。三人で息をひそめて、林の中を行く雉を狸や狐を射止めた。時には鹿も原田は撃ち殺した。射止めた鹿は大物だった。生きている時、茂みの中から隠れて、刺草の藪の中、筋肉の流動する鹿の雄々しさに、かすかに眼を潤わした薺を横目に、草麻生自身も、その偉容に眼を奪われて、逸らすことなどできようもなかった。血しぶきを上げて倒れた親鹿に歩み寄り、原田の後ろから二人恐る恐る覗いたのだ。鹿は腹が爆ぜて、臓器が飛び出ていた。血しぶきで枯葉は蘇ったように鮮やかだった。そうして、その横に、衝撃で倒れたのか、破片で傷ついたのか、頭が半分砕けた子鹿が一頭いたのだ。草麻生も薺も、互いに顔を見ることはできなかった。ただ、今ここで魂が抜けて出ていってしまった子鹿を直視できなかった。どこから来てどこへ行くのかわからぬ魂を失った亡骸が瞳からひとしずくの涙を零しているのを草麻生と薺は互いに覚えている。
 恐るべき武器だったが、草麻生は弾薬を取り出すと、それを詰めた。一番に震えるべきは、幼い頃に教えられて、隔てていたはずのこの道具に今再び触れると、何の迷いもなく扱えることだった。これを使い、狩屋を殺す。そうして、狩屋を殺して、俺は逃げる。薺と共に。どこに逃げるかなど、草麻生には当てもなかった。しかし、薺が狩屋の花嫁としてあの屋敷に行くことが、草麻生の魂すらも穢す罪そのものだった。そうして、この猟銃があれば、あの両性具有の彼も、助け出すことができるはずだった。あれが草麻生の幻想でなければ。
 そうして、草麻生はコートを羽織ると、自分の部屋に戻った。すやすやと、眠りにつく少女が一人。いや、少女と呼ぶにはもうあまりにも大人になりすぎていた。クリスマスパーティの夜に、美しい目差しで草麻生を見ていた娘の魂は、この安らぎの中になければどこにあるというのか。死に別れた妹の似姿そのままに成長したこの娘の清らかな肌が、ただの作り物で、自分の出来損ないの人形たちと何ら変わりがないということがあり得るのか。草麻生には、花びらで化粧したようにほほが薄く温まって、目ぶたまで桃色のこの娘の吐く小さな息が、人間そのものの美しさに思える。この屋敷に住まう幾人かの複製人間の、思考すらも定まらない形骸にすら、魂があるのだと、この娘を見ていると思える。いっその事、この娘が利口で賢しくなく、ただの白痴であるのならば、これほどまでに感情を揺さぶられなかったのか。それとも、白痴であろうが、欠陥があろうが、俺はこの娘を愛したのか。この娘が美しいと思えるのは、この娘が妹とは違う魂の器だからか。草麻生の思考はくるくると回転した。
 草麻生は小さく眠る薺のほほに触れた。薺は幽かに息を吐いた。甘い香りがした。花のようにも思えたが、しかし、人間の幽かさだった。
 草麻生は部屋の明かりを消して、そのまま階下に降りる。素戔嗚尊が草麻生を見つめている。そうして、その下にいる原田は何も言わずに草麻生を見つめている。
「どこに行く?」
「狩屋の屋敷だ。」
「何をしに行く?」
「殺しに行くんだ。」
原田は深いため息をついた。上げた顔には絶望の色がある。
「薺のためか?」
「そうだ。」
「薺を愛しているようだ。」
「そうだ。」
「貴様の妹だぞ。」
「そうだ。」
原田はソファに座ったまま、ただ眼を細めて、
「あれは人形だ。複製された人間だ。お前の妹じゃない。」
「そうだ。僕の妹は死んだ。だから、あれは違う薺だ。」
「狩屋を殺してどうなる?借金が消えるわけでもない。お前は殺人者。逮捕されて、最悪死刑だな。」
「神さまが随分現実的な悲観をするんだな。」
「俺はペシミストなんでね。やめておけ。殺したところでどうにもならないさ。また新しい薺を作ればいい。また、小さな薺を。」
「それを繰り返すのか。まさしく人形遊びだな。」
「魂はない。だからそうだな、人形遊びだ。」
原田は自嘲するように口元を歪めた。草麻生は原田に猟銃を向けた。
「俺を殺しても意味はない。」
「いっその事、俺も作られた人間だったら良かったよ。」
草麻生は銃を下ろして、原田を見下ろした。原田は立ち上がると、素戔嗚尊に触れて、そのほほを撫でた。
「こいつも、魂がない。そうして、俺が作った他の人形たちも、魂がない。」
「そして薺にも魂がない。」
「そうだ。喋れば魂があるのか。考えれば魂があるのか。俺にはわからない。」
「心があれば魂があるだろう。」
「狩屋の言うことは的を射ている。神が作りしもの、自然のものには魂がある。それが自然だからだ。でも、人形は不自然だろう。薺は不自然だろう。薺はもうあのときに行ってしまった。」
薺は不自然だという言葉に、草麻生は腑に落ちたような思いだった。しかし、魂がないのであれば、なぜあのように美しい御伽噺を信じるのか。それだけで、草麻生には薺の魂があった。
「僕は行く。あんたはここにいればいい。」
原田はまたため息をついた。そうして、草麻生は彼を見ることもなく、屋敷を後にした。
外は雪がかすかに降っていた。しかし、月明かり星明かりが見える。薄雲から落ちている雪は、時折草麻生のほほを濡らした。町までは歩いて二時間ほどかかる。草麻生は、ただ黙黙と闇の中を歩いた。
 星がいくつ落ちただろうか。そうして、雪は止み、風は強くなる。切り裂くような寒さに手が悴み、草麻生は立ち止まるたびに、自らの息で掌を温めた。あまりにも長い夜を、何もない世界を歩いたからか、草麻生に思い出の放流があった。心にあふれ出てくるそれらは灯籠の光めいていて、雪夜の蜃気楼だった。そうして、彼の耳に水音が溢れた。煌々とした灯りが見える。何かに化かされているのかと思えた。不気味な風音が聞こえる。そうして、それに連なるようにピアノの連弾である。あの灯りも蜃気楼だろうか、草麻生は向きを変えると、ゆっくりとその灯りにつられるように、歩を進めた。赤々とした輝きに、眼が眩みそうになる。そうして、それに近づいて行く中で、何度も狩屋の顔が心に浮かんだ。狩屋の屋敷に侵入し、まずは百子を人質に取ろうか。あの、人形めいた娘は、しかし、人間である。悪魔から生まれ落ちたというのにあまりにも美しい熾天使である。あの屋敷に栄えた悪徳のことを何一つ知らずに、ほほは桃色で、美しいのはまるでバートリ・エリザベートか。しかし、あの娘の魂はまだ無垢そのもので、この鉛玉でそれを嬲ることが許されるはずもないだろう。百子がいないことを願う。
 そうして、あの地下室の少年。地下室の少女。クリスタルの箱に閉じ込められた少年少女の印を持つ彼か彼女かは、今何をしているのだろう。狩屋をこの猟銃で殺し、彼を救い出す。あの、日の光を浴びることのない牢獄より彼を助け出すことは、何をもっても成さなければならぬ、それは草麻生に義務めいて思えた。使命めいて思えた。そうして、歩む内に、あの蜃気楼に辿り着いた。水音は教会に流れる潺。しかし、この潺の音は、あの童子の頃の思い出そのままで、今もそれがここに流れているのはやはり幻想であり、蜃気楼であるのか、草麻生は現実の狭間に落ち込んだようだった。崩れた壁はそのままで、茨に塗れた蔦がその出口を覆い隠している。草麻生はその植物の窓に猟銃を差し込み、邪魔をする茨を取り除いた。そうすると、茨に塗れた猟銃は、いつの間にか草を食んでしまっていて、蔦や茨がその銃口や、鉛の銃弾に深々と根を下ろした。草麻生は猟銃を撃った。耳を劈く音が響いて、植物の窓は口を開けた。そうして、その中に入り込むと、やはり水音だけだった。さらさらと流れていて、陽の光が差すようだった。雪は日で溶かされたのか、流れる水の透き徹るのが、草麻生には新鮮な生命の燦めきに思えた。
 草麻生はそこにしゃがみ込むと、幼い頃に見たのか、たしかここに隠していたはずと、小さなお洞のことを思い出して、そこに手を突っ込んだ。そこには変わらぬままに燧火と蝋燭が隠されていて、それを手に取ると、草麻生はほほ笑んだ。草麻生は水音を聞きながら、蝋燭に火を灯し、それを何本も何本も立てていく。すぐさまに、即席の教会が出来た。水と火の教会だった。空を見ると、星々がまたたいていた。草麻生は指先を火で炙り、そうしてその痛みに顔をしかめた。草麻生が手を握りしめると、果たして先程の燦めきの姿はどこにも見えず、自分が見ていた夢はどこに行ったのか、彼にはわからなかった。そうするうちに、ふいに少女の顔が水に映った。振り向くと、薺だった。薺は何も言わずに、あの赤いドレスのままに、草麻生の隣に腰を下ろすと、両手の指先をいっぱいに広げて、火で温めた。草麻生はずっと火を見つめていた。
「あなたが外に行くのが見えたわ。」
「こんな雪の日に、そんな格好で来るなんて馬鹿だな。」
「そうね。だから、火に当たっているのよ。」
火は揺らめいて、薺のほほを橙色に嬲った。そうするうちに、薺のほほは温まって、桜の花びらが血となって流れるようである。
「あなたは狩り?」
「そうだね。でも、だんだんと怖くなってね。怒りが燃えてしょうがないが、魔界に降りるのはね。」
「魔界?」
薺が首を傾げると、しゃらしゃらと鈴の音がした。音色は薺の耳についた、水色のイヤリングに添えられた鈴だった。
「魔界にいる人間をね……。けれど、人を殺そうと、山道を歩いていると、不安が現れてきてね。」
「やめたほうがいいわ。そんな、魔界なんて行ったって、つまらないわ。」
「君に魂がないと、そう言っている奴だ。」
薺は脣を突き出して、眦を下げた。
「そうね。私には魂がないわ。だからね、こうして教会で、神さまにお祈りをするのよ。そうするとね、神さまがきっとね、いつか私に魂を与えてくださるって……。」
火に当てていた手を今度は夜空に押し当てて、薺は星を掴もうとした。草麻生はほほ笑んで、猟銃を見つめた。猟銃はいつの間にか薔薇の茨に覆われて、もう撃つこともできない。銃口からは刺草がぱらぱらと零れ落ちる。
「ここにいると、昔を思い出すでしょう。あなたと初めて会ったとき、ここに連れてきてもらったでしょう。」
「君がわがままを言ったんだ。僕は君の言われるままだった。」
「きれいな星空ね。」
流れ星が落ちた。流星は降り注ぐように落ちている。崩れ落ちた教会の天井から、こちらに落ちてきそうだった。薺はそれをじっと見上げている。複製された眼が、きらきらとその光を受け止めている。
「星がああやって落ちるとき、星は死んでしまうとあなたは言っていたわね。」
「そうだね。そうして、ブラックホールが出来る。」
「あなたは魔界に興味があるの?ブラックホールは魔界?」
薺は草麻生を見つめた。その顔は、死んでしまった妹と瓜二つで、そうして、幼い頃の顔よりも儚く透き徹って見える。
「どうだろうな。魔界はきっと銀河じゃないよ。銀河はもっともっと広い。」
「天の河ね。」
「そう。大きな川だね。今も水の潺が聞こえるけれど、天の河の潺はどうだろうね。どんなにきれいな音がするんだろうね。」
「天の河の音ね?」
薺はまた首を傾げてほほ笑んだ。しゃらしゃらと鈴の音色が聞こえて、水音が重なる。
「僕らの星も、天の河の中にあるんだ。僕らは天の河の中から天の河を見ている。川底で、きらきらと光る灯りを見つめているんだ。」

 くさまおはそういうと、りょうじゅうをごとりとあしもとにおいて、なずなをだきよせました。なずなはないているようでした。なずなはめをとじて、そうしてひとつぶのなみだがこぼれました。くさまおもめをとじました。そうするとひのおととみずのおとがきこえます。ふたりのみみにそのおとがくるくるとながれこんできます。しばらくしていると、くさまおはくるくると、なずなもくるくると、こころがかいてんしているようにおもえます。くさまおはめをひらくと、なずなはもううでのなかにいませんでした。
 くるくるくるくるとかいてんしているのを、なずなはかんじているのが、くさまおにもとどきました。それをくさまおがみることはできません。だんだんだんだんと、くさまおがはなれていきます。そうして、なずなは、いつのまにか、じぶんのかがやきが、じぶんのうちがわからはなたれて、はっこうしていることにきづくのです。くさまおは、そのかがやきをみました。もういちどめをつむると、かすかにですが、なずなのこころのひにふれて、くさまおもうちゅうをみているようでした。そうして、なずなとくさまおは、くるくるくるとあたらしいひとなって、そらへあがっていきます。ふたりはひとところにかたまって、ふたござのようにはなれがたくむすびつきます。そうして、ふたごのめがそらからみつめるのです。じかんもくうかんも、なにもかもがあっしゅくされて、ちいさなくなっていきます。そうして、かいてんするまなこのなかに、ちいさなしょうねんとしょうじょだったくさまおとなずなが、あたらしいしろばらのせいざをぼうえんきょうで、のぞいているのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?