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雨の獣②


 時折、枝の上に留まった鴉が私を見つめてカァと鳴いた。歩く度に枯れ葉が砕け、枝が折れる音が耳に響く。暫く歩いたものの、美雪の言う動物の死体等は何処にも見つからず、彼女が何か見間違いでもしたのだろうと結論づけると、元来た道を戻った。屋敷の窓から私を見つめる彼女の瞳は、先程までの伽藍堂ではなく、父親を待つ少女の瞳に戻っていた。何もいなかったよと伝えると、美雪はかぶりを振って私を見据えたまま、パパの足元にいっぱい付いてきてるよ、と云った。不意に背筋に悪寒が走り、後ろを振り向くが、窓硝子越しに閑寂とした森が広がっているだけだった。
何か、そういう事に敏感な所のある娘だと思っていた。子供は神や悪魔、霊に類に近しい存在だという事を、私の友人の作家が話していた。作家に特有の戯言だと思っていた。空想を掴み、それらを取り切り売りする連中は、やけに女を神聖視する。女は元から芸術であると。彼らの書く作品の中では、子供は神聖を帯びた存在であり、少女は特にその傾向が強い。ある種の信仰に近い考え方だと、私は一笑に付していたが、美雪の不可思議な発言や行動に触れるにつれ、そういう錯覚や空想に囚われる人々の思いや恐怖、その心境が理解出来た。
別荘にいる間、美雪は終始楽しそうに過ごしていた。森の中は危ないからと、常に妻と二人で美雪を見守りながら、取るに足らない話をした。どちらも美雪に視線を向けたまま、実家の雨漏りの話や、来週封切られる映画の話、研究所に新しく赴任してきた男が有名な建築家の孫であること等を話し、時折美雪が彼女なりの大発見をして、それに大騒ぎすると彼女に注意を向けて、二人して美雪を褒めてやった。彼女は夜になると妻が作った鴨料理を旨そうに平らげる。その様を見つめながら、私は昼間美雪が言っていた不吉な言葉をもう忘れて、彼女が時折発することに、曖昧に頷いていた。
そうして二日間、同じような日々が過ぎ、仕事が恋しくなり始めた私は、研究所に戻った時に必要なレポートをまとめる作業を書斎で行っていた。遠くには影か幻の様に美雪が遊んでいる姿が見える。時折硝子越しに美雪の笑い声が聞こえてきて、その度に顔を上げて彼女を見つめた。白樺の木々の中で、向日葵色のレインコートが弾けるように揺れていた。私は視線をレポートや資料に戻し、それらを読み込んでいた。合成生物の研究過程が描かれた資料には、私が研究の名目で奪ってきた命に関する事柄が仔細に書き込まれていた。その文字の一つ一つに、彼らを殺した結果手にした情報が刻み込まれていた。いつか人間と他の生物の混血を産み出す、それが夢視ていた理想だった。新人類とまではいかないが、神の領域に触れるタヴーを研究している自覚はあった。けれど、日々刷新される情報と、進歩する技術、可能になる作業の数々が私から罪の意識を奪っていった。平たく云うのならば、私は麻痺をしていた。禁忌に触れる事に対する畏れが消え、ただ自分の好奇心を満たす事を何よりも優先させた。
私は、東京に戻ってからの研究過程を考えると背筋に悪寒が走り、下半身に熱を帯びるのを感じていた。ふと、声が聞こえないと顔を上げて、窓へと顔を向けた。美雪の姿がなかった。どこかに遊びに行ったのだろうか。突然隙間風が吹くように心に不安が忍び寄り、コートを羽織ると外へ出て、美雪が遊んでいた場所へと足を向けた。大きな白樺の木の下に、美雪のポーチが落ちていた。紅く、小さなポーチは、彼女の誕生日に妻から贈られたプレゼントだ。拾い上げるとドングリや枯れた木の葉が中からぽろぽろと落ちてきた。美雪の戦利品が入れられたポーチ。風が吹き、微かに美雪の香りが私に鼻腔に広がっていった。不安は増し、ポーチを握りしめて森の奧へと進んでいった。曇天は今にも崩れて雨粒を零しそうだったが、不思議と湿気はなく、森中が乾いていた。奧へ奧へと迷い込む内に、私の不安は更に膨張していく。此処には獰猛な動物もいなければ、危険な場所があるわけでもない。他に人がいるような場所でもないから、誘拐されたとは考えにくい。然し、厭な予感だけは収まることもなく、動悸のように大きな音を立てて私の中で膨らみ続けた。乾いた音と共に足下の白樺の枝が折れた。眼の前に、朽ち果てた小さな石造りの建物が見えた。今にも崩落しそうな灰色の石が堆く積み上げられた建物だった。西洋の教会のようでもあったが、人の姿は見えなかった。石の教会。小さく潺の音が聞こえ、私は耳を澄ませた。よく見ると足下から僅か数メートルほど離れた場所に用水路のような小川があり、それはこの建物の中へと続いていた。澄んだ水がゆっくりと流れ、建物の中から流れ出ている。石造りの建物の玄関口を見ると、僅かばかり地面が沈下しており、建物自体が三割ほども水没していた。水の中にある教会だった。不可思議な光景だった。中に入るには、コートも、ズボンも、勿論靴も、全て濡らさなければならない。しかし、私にはある種確信めいた予感があり、美雪はこの中に入り込んだのではないかという結論へと辿り着き、覚悟を決めて水の中に入り込んだ。小川は凍えるほどに冷たく、氷水のように感じられ、心臓が掴まれたかのようだ。だが、暫く浸かったまま動いている内に徐々にその冷たさは消え失せ、脳裏には美雪の顔だけが浮かんだ。美雪の名前を呼びながら、教会の玄関を開ける。水圧のせいか、簡単には扉は開かなかった。全身の体重をかけて私は扉を奧へと押し込んだ。ゆっくりと水が割れて、扉が開く。私は額に浮かぶ汗を拭きながら、眼の前に浮かぶ光景に見惚れた。透き通るような水の中にコーラ壜が沈んでいる。水面に反射する光が、建物内部をキラキラと輝かしていた。聖域に迷い込んだかのようであった。私は我に返り、美雪の名前を呼びながら周囲を見回した。彼女の姿はなかった。思い違いかと思われた。だが、水の奧の向日葵色の輝きを眼にした瞬間、私は絶叫を上げた。水を掻き分けながらその美しい向日葵色へと腕を伸ばし、美雪を引き上げた。彼女の頬は凍えるほどに冷たく、美しいほどに白かった。雪を塗したかのようで、ただ唇だけが青く、彼女の生命が絶たれつつあることを示していた。私は美雪に呼びかけながら近場の岩場に彼女を引き上げて、何度も何度も人口呼吸を施した。彼女は人形のように何も言わず、鼓動の音すら聞こえなかった。あまりにも冷たい水は彼女の魂を凍らせ、命を天まで運ぼうとしていた。聖堂で神を呪った。美雪を抱きかかえ、私は元来た道を全力で駆けた。振り向くことすらなく、僅か数百メートルもないであろう道を急いだ。別荘のロビーに着いた私を、妻の絶叫が出迎えた。私は凍るように冷たい美雪と自分の脚に震えながらも、冷徹なまでの判断を先程の道程の中で下していた。命の灯が燃え尽きようとしている娘の顔に泪を零しながら、妻の制止を振り切り、地下の研究所へと美雪を運んだ。
〈③に続く〉

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