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雨の獣①

濡れた外套が身体に張り付き、脚は鉛の様に重かった。鈍痛がする頭を抑えながら目頭を揉んだ。もう半日以上こうして森の中を彷徨っている。火薬が湿気っていないか心配だった。天に向かって無限に伸び続けるかのように先の見えない針葉樹の下に身を隠し、腰を下ろす。雨の粒が髪から滴り落ち、そのまま眼の中に入り、その度に、瞳に酷い痛みが走った。刺さるようである。そうして、視界が不明瞭になり、身動きが取れなくなる。暫く休もうと考えて、空を仰いだ。天空から落ち続ける雫は、止む気配を見せない。ふと、茂みの奥で何かが動いた気がした。犬程の大きさの黒い影。何か、不吉の匂いがした。私はその茂みを注視し続けたが、もう動くものはなく、ただ雨音が耳に谺しているだけだった。もう、そこには生き物の気配等は存在していなかった。
濡れたリュックからスチール製の水筒を取り出し、水を貪るように飲んだ。直ぐに中身は空になり、私は天に向けて大口を開けると、降り注ぐ雨粒を吞み込んでいった。けれども、不思議と口中には入らないのだ。鈍痛は収まる事無くリズムを刻んで、私の頭の中で鳴り続けた。次第にその痛みに対しての怒りが沸き始めるが、それもまた自業自得なのだと、一人かぶりを振った。美雪は何処にいるのだろうか。今もこの雨の中で震え続けているのだろうか。私は今現在の美雪の顔を思い出し、そして幼かった頃の美雪の顔を思い出した。十年前、まだ六歳であった美雪は私にとって天使そのものであり、生きる価値そのものであった。雨がよく似合う娘だったと記憶している。雨の日には、彼女の誕生日に贈った向日葵色のレインコートを嬉しそうに纏って、水溜まりを駆け回っていた。その時の色があまりにも鮮明に私の脳裏、瞼の裏側に焼き付いている。レインコートと、土と、水たまり。確か、彼女の履いていた長靴もまた向日葵の色をしていた。それは恐らく妻がお揃いを身につけさせたいと云って渡したんだと思う。雨が降る日は美雪の日であり、向日葵の黄は美雪の色だった。空を見上げる。雨は止む気配を見せない。勢いは一向に強くなっていき、周囲の葉に雨粒が叩き付けられて、弾ける音が耳朶を震わせる。
立ち上がり、どこかで暖を取ろうと雨避けが出来る場所を探し続けた。霧が立ち込める不明瞭な視界で、延々と歩き続けた。秋の山は日中であればそこまでの寒さはないが、雨のせいで底冷えをしていて、狼の革で織られた外套はたっぷりと水分を吸い込み、私の体温を奪っていた。何処かで暖をとり、夜に備えなければと、私は歩を進めた。既に、鼻腔に夜気を感じる。前方数メートルも先はもう靄がかかっていて、周辺の木々が水墨画のように頼りなく瞳に映る。ああ、眼が痛い。暫く歩いていると、小屋のような建物が私の視界に入ってきた。歩き疲れ、脚が重く、それに鈍痛も重なっていたせいで、私には初め、それが蜃気楼か何か、それに類する幻覚のようなものではないかと思えた。近づくにつれてそれは明確に姿を現し、私に実態を見せる。小さな木製のロッジだった。木組みの階段は踏みしめる度に音を立てて軋んだ。泥がこびり付いたスチール製のドアノブに手をかける。鍵がかかっていた。私は猟銃の柄の部分をノブに叩きつけて鍵を壊し、ロッジの中に上がり込んだ。外から見たのと同様、中に入っても人の気配一つしなかった。ただ雨音が膜を一枚隔てたかのようにどこか遠くから聞こえ、ロッジ内の温かさに、まるで砂漠の中のオアシスに迷い込んだかのように私には思えた。外套を脱いで部屋の中を改める。備え付けられていた暖炉に手持ちのライターで火を灯す。部屋の中をぐるりと睥睨しながら、この森林公園の管理人が寝る部屋だろうかとぼんやりと考える。ロッジは二階建てになっており、リビングには簡素なソファとテーブルが据え付けられていて、リビングより奧に続く廊下には、向かい合う扉が見えた。木で出来た階段があり、恐らく上に昇れば二部屋程有るのだろうと類推された。一階の奧の部屋は開けるとベッドと箪笥が置かれていた。恐らく仮眠室なのだろう。箪笥からセーターを取り出すと、自分の濡れた服と交換し、外套と共に其れを干した。台所に置かれていた缶詰を幾つか拝借し、代わりに財布から千円札を取り出して、残っている缶詰と缶詰の間にそっと挟み込んだ。缶詰を貪りながら、猟銃の火薬が湿気っていないか確認をし、銃の手入れを始める。銃創の中に詰まった汚れを掃除しながら、窓の外を見つめる。雨が硝子を叩き付けてはいたが、先程までの激しい音は鳴り止み、幽かに勢いを弱めていた。
「パパ。」
誰かに呼ばれた気がして、私は振り返る。誰もいなかった。私は目頭を揉んだ。確か、私が猟銃の手入れをする度に、何をしているのだと興味深々な面持ちで美雪が私に近づいてきた事が多々あったのを、思い出していた。危険だから触れちゃいけないと私が言う度に、美雪は頬を膨らませ、私の横に腰掛けると、真剣な面持ちで私の一挙一動をつぶさに観察するのだった。これは何をする物だと問われ、動物を殺す為のものだと応えた。動物さんが可哀想と、美雪が言った。私は作業の手を一旦止めて、彼女の頭を撫でてやった。それがわかるのであれば大丈夫だ、何の問題もないと、私はその時そう感じていた。それが人並みの考えであり、正しい思考であると。趣味で猟銃の免許を取得し、公的に狩りを行う私という存在、あの時の私という存在は、幼い頃に眩しいほどに憧れた大人の姿そのものであった。傲慢な考えが根底にあり、人間以外の生命そのものが、私にとっては等しく価値のないものであるのだと、心のどこかで考えている節が当時の私にはあったのだ。所謂、人間至上主義という厭世の極北。だからこそ、動物に対して真摯な思いで慈しみを感じる事が出来る美雪の存在に、私は心から安堵すると同時に、自身の愚かな考えを突きつけられた思いで、その日を堺に、何か漠然とした不安の萌芽を、自分の中に感じていた。銃の手入れを終えると、仮眠室にあった毛布を引っ張りだし、暖炉の前に腰を落ち着けて、それに包まった。予め用意されていた薪は、リビングに置かれた分も加えると、軽く二晩は持ちこたえられそうな量だった。雨が止み、夜が明けるまで、私は此所にいるつもりだった。暖炉の中でパチパチと弾けながら燃える焔を見つめているうちに、吸い込まれそうになる。灰が舞い上がり、時折、私の顔を汚した。頬についた灰を指で擦ると、指先に罪が彩られた。早く雨が止んで欲しかった。延々と降り続ける雨の音が、私の脳の中に浮かぶ思い出の水面を波立たせ、十年前の景色を思い起こさせる。美雪は、六歳の時に池で溺れて死んだ。夏の一時期だけ、私たち家族は白馬の別荘を訪れ、そこで家族の思い出を作った。今いるこのロッジは、リビングに仮眠室、それから休憩室、小さな台所、二階の幾つかの部屋、そしてトイレが一つある程度の小さなものだが、私たちの別荘はその三倍の部屋数はあり、毎年其所を訪れるのが美雪にとって楽しいイベントの一つであり、私にとっては普段の仕事で家族に構えない分、唯一時間を割いて彼女たちに向き合える罪滅ぼしになっていた。此所に来ている間だけは、美雪の話を聞いてやり、普段向き合えなかった事に対しての埋め合わせする。美雪の話を聞いてやる度に、美雪がどのように世界を見ているのか、私には理解しかねることが多々あった。それは子供特有のある種、神と人との境目に生きる者が持つ感覚故であり、私自身幼い頃にはその類の物が視えていたような記憶もある。だがそれはあくまでも現か幻か曖昧であり、記憶と幻想とが綯い交ぜになった脳の視た夢でしかなかった。しかし、美雪は私の其れとは違い、空想ではなく、本当に「何か」が視えていたのではないかと思える。子供が部屋の片隅でイマジナリー・フレンドと話すような他愛のない遊びではなく、彼女のしか視えない「何か」。ああ、不吉な何か!私が先程見た、何か……。
事故で死ぬ三日前、猟銃を整備する私の元にやってきた彼女は、動物達が森の奧で沢山死んでいると一言呟いた。私は顔を上げて美雪を見つめた。その時の彼女の瞳は、焦点が定まらず、遠くを見据えるようであった。沢山の動物の死骸。森の中に動物の死体でもあって、たまたまそれを見てしまったのかもしれない。私は彼女にホットコーヒーを淹れた後、一人其れらがあるという森の奧へと散策に出かけた。冬が近づいており、森の中では、生気が失せつつあった。緑を落とした木々が化け物のように枝を広げて私を威嚇していた。過去にノイズだれかのVHSで見たアニメ映画の『白雪姫』を思い起こさせる。(②に続く)。

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