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美獣

1-7

 アリス・ニキチーナは、ロシアからの客が十二億で落札した。途方もない額だねと、『彼』はうれしそうにほほえんだ。
「十二億だなんて、僕があと何万枚原稿を書こうと手に入らないだろうね。ほんとうに、いつか数百億だなんてふざけた金額で落札される日もあるんだろうね。」
公武の耳に、『彼』の声は素通りだった。しかし、恵は何の変わりようもなく、窓の外を見つめたまま、
「骨董だってそうじゃない。先生の買ってた、あの花器。花のような、深紅の花器よ。あれなんて、五百万もしたっていうじゃない?」
「そうだ。」
「五百万だなんて、私から見れば信じられない大金だわ。きっと、ニキチーナを買ったロシア人も、たいそうおどろくことでしょうね。」
その言葉に、『彼』は口元を緩めると、
「そうだね。僕は一枚の絵に何百万何千万とかけるけど、興味のない人間からすれば、酔狂もいいところだろうな。芸術とは得てしてそういうものだね。」
「複製人間は人間よ。芸術じゃないわ。」
「死者に会う、そういう風に捉えたら、安い買い物かもしれないね。」
「中身が違うもの。やっぱりそれはお人形よ。」
「人形なら人形で、複製人間はやはり優れた芸術なのかもしれない。もともと、芸術的な人間だけが複製される対象だからね。」
「でも先生、作家や画家は複製されないのね。」
恵が思いついたように疑問を口にした。『彼』は眦を下げると、
「そうなんだ。実はそれについては面白い話があってね。要は、お前がさっき言ったようにね、やはり複製人間は外側だけ、器だけじゃないかという話に繋がる。」
「器だけ?」
恵は『彼』の言葉をそのまま繰り返した。かすかに視線を公武に向けた。公武は、素知らぬ顔で窓外を見ていた。曇り空がひろがっていて、雨が降り出しそうな暗さである。
「そうだ。公武よりも少し前に、画家のルノワールが複製されたんだ。日本人は印象派の画家が好きで、特にルノワールが大好きだからね。復元されたルノワールは日本人の資産家が二億ほどで買った。彼の目的というのはつまり……。」
「絵を描かせて儲けようとしたのね。」
恵の問いに、『彼』は頷いた。
「なんたって本物のルノワールだ。新作だって夢じゃないんだ。人類史上誰も見たことのない新作だ。そう思うと、複製人間はやはり大きな金と夢を産むね。そして、描いた絵はたしかにルノワールのテイストなんだ。でもルノワールじゃない。」
『彼』は黙って公武を見つめた。一瞬、『彼』の目が公武を捉えたように思えた。しかし、公武のまぼろしである。『彼』は続けて、
「いくら教え込んだところで、しかし出来上がるものはルノワールじゃない。不可思議だねと思うが、やはり複製人間はコピーであって、模造品であって、本人じゃない。本人の中を流れる思考、感覚、経験、夢、欲望を完璧に模してなんかいやしない。まるで違う。ある種のがらんどうだね。」
公武に、『彼』の視線が射貫くように注がれているように思えた。これは何なのであろうか。『彼』の思想が、公武の中に注ぎ込まれているのだろうか。
「小説家や画家を複製しても、彼らの経験や感覚は、彼らだけのものでしかないというこだね。だから、俳優やモデルのような人物が、結局は一番適しているわけだ。芸術を作る側よりも、まさに芸術となるべき側がね。その中で、一番素晴らしいのはやはりダンサーだろう。」
「そこで公武に行き着くのね。」
「彼らは芸術になるからね。男の作家や画家の複製なんてごめんだね。それこそ贋作のようなものだ。」
雨がフロントガラスを叩きはじめた。公武は、ガラスの上で弾ける雨粒を見つめた。その雨粒の一つ一つが、弾けては消えて、大きな流れになって、地面に落ちていく。不思議に思えた。
 タクシーは『彼』を下ろすと、そのまま長谷の公武のアパートに向かった。恵は横浜で下りることもなく、長谷まで着いてきた。何故帰らないのかと公武が尋ねると、
「恋人の家に行くのは当たり前だわ。」
何の悪びれもなくそう言った。恋人という言葉に、恵の肢体が思い出された。身体の中に薔薇があるようで、白い肌がいろいろに変わっていくのは、公武に初めてのことだった。美月も、あのように美しい色に変わるのだろうか。二人は、公武という男を媒介に、どんどん変わっていくかのように思えた。しかし、公武は、女というものを抱いたところで、何も変わることのないのが、不安だった。女は世界の秘密の全てのように思えていたが、しかし、その全てを詳らかに紐解いたところで、今目の前にいる恵の心はわからないのである。
 恵は公武のベッドに腰掛けると、部屋を見回して、
「変わらないわ。たくさんの写真。全部、バレエ・リュス。」
ダンサーたちが部屋の中を踊っている。その美しい踊り子たちに囲まれて、公武の心は育まれたのだった。
「良かったじゃない。先生の言葉通りなら、あなたは複製人間の中でも、一番正しい作られかたをしているんだわ。」
「妙なことだよ。」
公武は答えた。恵は、あぐらをかいてほお杖をつくと、公武を見つめた。
「御父様の言葉通りなら、僕は芸術そのものなんだろう。でも、自分ではそうは思えない。」
「あら。どうして。美月ちゃんも、先生も、光本先生も、それから教室の女の子たちだって、みんなあなたの虜じゃない。それはもう芸術よ。」
「恵さんはどうです?」
「私?」
「そうです。恵さんは、僕を歪だって、人形だって、そう何度も言っていましたよね。」
恵はほお杖をついたまま、今度は自分の指のマニキュアを見た。美しい赤色が、部屋のライトに照らされて、鈍く光っている。
「恵さんは、僕を人形のようだと言いました。ぺトルーシュカだって、何度も言いました。恵さんから見て、僕はどうなんです。」
「美しいわ。」
恵は、公武を慰めるときや、公武自身を労るときにみせた、あの黒い目で、公武を見つめた。公武はその目に見つめられて、何も言葉が出なかった。唖になったかのように口が動かなかった。
「だって、公武はニジンスキーなんですもの。美しい身体だわ。いくらでも欲しいわ。」
恵の黒い目が、水の塊のようになっていて、逆にほほの色は温まって、薔薇が咲くようだった。
「女の本音としてはね。そして、あなたが踊るのは、ほんとうに花束のようで、美しいわ。」
恵は立ち上がると、そのまま部屋を行ったり来たりした。それはどこか、芝居がかって見えたが、公武は何も言えずに、座ったままだった。
「だから、不思議ね。あなたは男で、私は女でしょう。一つになったら、例えば、私とあなたの子供が出来れば、きっと美しいのかもしれない。」
恵は考え込むように言った。
「でも、それよりも、燃えるような交わりをすれば、一番美しいのかもしれない。でも、そのたびに、私はつまらなくなるのよ。」
恵は急にしゃがみ込むと、じっと公武の目を見つめた。黒い水が、ゆらゆらと揺れて、その奥に、冷たい光がまたたいている。
「あなたの童貞が散る時が、一番美しいのかもしれない。でも違ったわ。どうしてかしら。私はきれいなものが見たいの。でも、きれいなものを見ると、奪いたくなって、そして、私の前に跪かせたくなるの。」
恵はそう言うと、公武の右手を取って、自分の肩に置いた。
「あなたは、私よりも美しいでしょう。だから、あなたをめちゃめちゃに壊したくなるの。」
公武の手はゆっくりと恵の胸もとへと導かれた。恵は着ていたシャツから左の乳房をあらわにすると、公武に包ませた。
「こういう振付はどう?」
公武は、自分の中の獣が呼び起こされるのを感じた。しかし、手を払いのけると、そのまま膝の上に置いた。
「つまらないの。」
「恵さんは僕をからかっていますね。」
「そんなつもりはないわ。あなたが真剣に質問をしてきたから、真剣に質問を返したのよ。それだけの話ね。」
恵は立ち上がると、はだけた胸もとをまたシャツで覆うと、立ち上がった。そして、部屋の壁に飾られている、幼い公武の写真に手を触れた。
「身体も子供だったら、どんなに良かったでしょうね。」
恵はそう言うと、そのまま振り返ることもなく、部屋から出て行った。公武は、追いかけることもせずに、ただ坐したまま、誰もいなくなった部屋だけを見つめた。

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