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紫陽花の耳輪

1-4

 会社からの帰り道、夏空に、稲光がはしった。バスから見える雷は、異様なほどの轟音でとどろいて、それに雨がつづいた。滝の中を走るようにバスは進んだ。道行き、雨にぬれている日まわりがいくつもあった。全て学校の校門に咲いた日まわりだった。
 バス停に着くと、もう雨はやんでいて、星空がまたたいていた。雨がやんだからだろううか、風が抜けるようで、シャツの下の肌は冷たかった。家までの道中に、他の花はなかった。
 家に戻ると、妻は何も変わりがないように見えて、しかし、彼を強く求めた。その妻の姿を見て、彼は、いまだ変わりのない妻の子供への希求に心を打たれるようだった。
 ほんとうは、光という名前の子供が生まれるはずだった。生まれていれば、もう二歳だろう。そのいとおしい魂が流れて、しかし、妻はまだ子供を求めている。
「東京はどうでしたか?」
妻の質問に、彼は二度うなづいて、天井の闇を見つめた。
「何も変わらないね。仕事はいつも通りだし、東京は、僕はやっぱり好きじゃないね。人が多すぎる。住むならやはり京都だろうな。」
「でも、また東京に遊びに行きたいですわ。東京にある、ステーションホテルが、前テレビで特集していたわ。」
「東京駅のだね。あそこはモダンで、いい建物だね。」
「辰野金吾の設計だそうね。ああいうきれいな建物に泊まれるのは、素敵でしょうね。」
妻は、建築家の名前をいくつも知っていて、あそこは誰それの設計である、あそこは誰それが建てたものである、という事をよく知っていた。美術が好きな彼と、そういう意味でも、妻はつながるようだった。
「しかし、しばらく遠出はできないだろう。子供が出来たら、母体に悪いだろう。」
そう言って、妻を抱きよせると、妻はほほえんで、うなづいた。この、聖母のような女を辱めるような行いを、己はしているのだと、彼には罪悪の心があったが、しかし、一度流れてしまって、あのような哀しみをまた味わうのであれば、彼はもう子供が出来なくてもいいではないかと、そう思えてしまうことがあった。
 あの、恵がかわいがる小鳥のように、何の汚れもない魂を、鳥籠に入れて、二人で慈しむことも、りっぱな愛情ではないのか。それならば、そういった代替の愛情をそそぎ込めるものがあれば、それでいいのではないかと、彼には思えた。
 彼は、自分の手の中でもう息をしてない、土色の娘の顔が、ときおり夢に出てきてちらつくことを、妻には言えないでいた。愛らしい顔をしていたが、しかし、それよりも痛ましい目差しが、彼を射貫いた。
 妻は、その娘の顔を見ていない。見れば、妻の心は砕かれたであろうと、彼には思えた。彼の言った、愛らしいという言葉が、妻の中で永遠のまぼろしとなっている。それで充分でないかと思えることもあった。自分の娘が、聖処女のまま死んでいったことが、彼には尊い美しさですらあった。
 しかし、それを妻につたえることなど、とうぜん出来るはずもなかった。
 翌日は、快晴で、陽の光が道ばたを満たしていた。昨日、会社に向かうまでのバスで見た日まわりが、夏の朝の光を受けて、きらきらと輝いていた。黄色があふれるようで、絵の具かなにかで塗りたくったようにも見える。彼は、バスから首をのばすようにして、日まわりの花びらを見つめた。その迫るような黄色は、恵といっしょに見た、『サーカスの景』の虎を思わせた。
 会社での午後、外回りに出るときに、同僚の恩田に手招きされた。
「係長。高瀬さんっていう、女性の方からです。」
高瀬という名前に、彼はどきりとした。しかし、すぐさま、仕事の用件だと思い、電話に手を伸ばし、保留のボタンを押した。
 電話口から聞こえてきたのは、知らない女の声だった。女は、少し年かさのようで、話をしていると、すぐに恵の母親だと合点がいった。恵の母親の実家が、岡崎にあると聞いたのを、彼は電話口の声を聞きながら、思い出していた。
 恵の母の言葉には、いくぶんかの棘が含まれていて、しかし、肝心の用件は話さないのだった。
「何のご用でしょうか。何か大事なご用件なら、お伺いしますが……。」
不義の恋に対する、母親の怒りだろうか。しかし、恵がそのようなことを話すだろうか。よしんば話したとして、わざわざ会社に電話をするものだろうか。彼は、恐れよりも、戸惑いを感じていた。
 電話口の恵の母の声は不明瞭で、しかし、しばらくすると、岡崎公園にある、六盛という喫茶店で、会えないかと言うのだった。彼にいやな予感がした。
 三時に約束をすると、気が気でないから、彼は外回りをしてくると部下にことづけて、岡崎公園に向かった。
 夏の岡崎公園は、人通りが多く、恵の言うように、美術館で時間をつぶそうにも、ぞろぞろと門から人々が出てくる。彼は、ベンチに座って時間をつぶした。しかし、あまりの暑さに、すぐさま降参して、日陰を求めてさまよった。
 途中、彼は蔦谷書店で時間をつぶして、そのあと、ロームシアター京都の前で足をとめた。ちょうど公演中の、中谷美紀の『猟銃』のポスターがはられていて、それに目を引かれた。ポスターを見ると、一人芝居だという。井上靖の『猟銃』である。モノクロのポスターで、中谷美紀の瞳だけが、星を散らしたように照り輝いていた。
 じっとポスターを見つめていると、後ろから肩をたたかれて、ふりむくと、壮年の女が立っていた。白髪染めで染め抜いたような、作り物めいた黒い髪だった。しかし、山猫のような眦が、娘を思い出させた。
「高瀬さんですか?」
「ええ。すいません。こんな暑い日に。お仕事なのに出てきて頂いて。」
「いいえ。それにしても、よく僕がわかりましたね。」
「ずっとこのあたりをうろうろされていたでしょう。平日に、こんな所をうろつくサラリーマンは、あまりいらっしゃいませんから。」
そう言う恵の母は、笑うこともなく、ただ静かに彼を見つめた。その目の冷たい光に、彼は何も言えずに、
「それじゃあ、行きましょうか。」
恵の母につれられて、彼は六盛に向かった。六盛は、ホテルの一階のカフェで、客は多かったが、しかし、その声に飲み込まれるかのようで、恵の母の声も、かすかに聞こえるほどだった。スフレが有名な店らしく、女性客しか姿が見えない。
 彼はアイスコーヒーを頼んで、恵の母は、コーヒーを頼んだ。どちらもスフレは頼まなかった。恵の母は、悦子と名乗った。悦子は、しばらくの間、何も言わずに、ただ彼を見つめた。彼は、気味が悪くなって、
「単刀直入に言って、僕と恵さんのことでしょうか?」
そう言うと、急に悦子の目ぶたが赤らんで、その赤らみは、恵のものとよく似ていた。親子のしるしのように思えた。
「それは娘からお聞きしましたわ。はしたのないことをしました。ほんとうに申し訳ありませんでした。」
悦子は頭を下げた。彼はおどろいて、
「やめてください。顔を上げて下さい。」
悦子は顔を上げて、またじっと彼を見つめた。彼は、恵に見つめられているような心地になった。
「許されることではないですから……。娘の代わりに謝らせて頂きます。」
「そんな。お母さんに謝られることじゃないです。それに、ほんとうに悪いのは僕でしょう。」
「娘も軽率です。あなたは奥様がいらっしゃるでしょう。」
その言葉に、彼はとっさに取りつくろう言葉が浮かばなかった。
「人様の男性に手を出すなんて、恥以外のなにものでもありませんわ。それに、そのせいで、おなかの子供も亡くなりましたから……。」
「なんですって?」
「あなたと恵の子供です。娘は流産しましたわ。人工流産の手術を……。」
「そんな……。僕は何も聞いていません。恵さんは妊娠していたんですか?」
「ええ。あなたの子供だと聞いています。私、それを聞いたときに取り乱しましたわ。恵の目を、冷静に見ることができませんでした。」
悦子の声に、かすかにふるえが交じっていた。彼は喉が焼け付くようなものを感じた。
「人工流産って言いましたね。それは、恵さんが勝手に。」
「そうです。罪の子でしょう。不義の子でしょう。子供がかわいそうだと、泣いていました。」
「お母さんは止めなかったんですか?恵さんが、彼女一人でそんな決断をするまえに、なんとかしようと話さなかったんですか?」
「私が聞いたときには、もう子供は死んでいました。もう手術は終わっていましたの。」
「そんな。そんなこと許されないでしょう。恵さんの子供は、恵さんの魂でしょう。」
「あなたの子供でもありましたわ。あなたの魂でもありました。」
彼は呆然とした。店内にひびく人々の会話が、ほとんど音の体を成していなかった。自分がどこにいるのかすら曖昧で、足下がおぼつかなかった。
 あなたの魂という言葉が、何度も何度も心に波立った。自分の魂が死ぬのは、二度目だった。ひとつはこの世に生まれ落ちて、そうして死んだ。もうひとつは、形が調わないまま死んだ。それぞれがそれぞれに、美しい母から生まれて死んだ。
 悦子は鞄からハンカチを取り出して、目元をそっとふいた。化粧が落ちて、しかし白い肌である。恵はこれを授かったのだろうか。死んだ魂も、授かっていたのだろうか。
「私が今日ここに来ましたのは、あなたにこの事をお伝えすることと、もう娘と会わないでほしいと、そうお願いに来たんですの。」
悦子はまたじっと彼を見つめて、静かに言った。彼はうなづくこともせずに、手をふるわせて、しずかにその目を見返した。その目の中に、恵がいるかのようであった。
「お会いしたくないというのは、恵さんの意志でしょうか?」
「恵の意志であって、私の意志でもあります。夫はこのことに関して知りませんから……。」
悦子の話で、恵がおなかの子供の父親と、実の父親に、内緒でことを運んだことが知れて、彼はうなだれた。

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