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トルコキキョウ

 
 五月で、トルコキキョウの花が、古都の植物園の花壇を白く染めていた。北山通りとへだてて、この花園は、遠い場所に来たかのようだった。平日だからか、人の数も少ない。広場には芝生が広がって、大きな椋の木がある。そこに、何人かの少女たちが、制服姿で、木漏れ日を浴びながら、寝そべっていた。その光景を、川端はただ見つめていた。
 少女たちが無防備なのは、川端を、一人の男として見ていないからかもしれない。紫と黒で彩られた制服が、遠目に花のようにも見えた。その制服から伸びる、ふくよかな身体は、花園に似つかわしくなかった。その近くのベンチには、二人の少女が座っている。一人の髪は栗色で、もう一人は、豊かな黒髪だった。黒髪の少女は、談笑しながら、時折、川端へと視線を移した。芝生の上の女たちが、熟れた果物なら、ベンチに座る、黒髪の少女は、まだ若い花だった。ふいに、芝生の上の少女たちが、黒髪の少女を手招きした。少女は、嬉しそうに嬌声を上げると、その輪の中にすぐに加わった。
川端は、その光景に、失望の念が湧き、そこを立ち去った。
この日は、学校行事の写生大会であったが、写生に励む生徒は少ないもので、熱心に描いている生徒と、戯れに興じる生徒に、分かれていた。園内のそこここに、肌色が揺らめいて、景色に溶けていきそうだった。夏の近いからか、ほの暑い。川端は、園内で煙草を吸える場所はないようで、外に出ると、喫煙所を見つけて、そこで吸った。
 園内の時間は、時計の針を細工したかのように、流れがゆるやかだった。川端も、眠気に勝てずに、生徒たちがいないのであれば、芝生に仰向けになるだろう。
 煙草を吸い終わると、園内に戻った。園内は、変わらず人も疎らだ。先程の場所に、とりどりだった少女たちの姿はなく、どこかへ行ってしまったようだった。ベンチには、黒髪の豊かな少女が一人、筆を走らせていた。木漏れ日が黄色い光になって、少女の頬に落ちていた。
 川端は、少女のすぐ横まで行くと、後ろから声をかけた。少女はおどろいたようで、顔に恥じらいが浮かんだ。
「トルコキキョウか。」
「綺麗でしたから。」
少女は、頬も赤く染めた。薄く化粧をしているのか、脣が桜の色に湿っている。少女は、伊織という名前だった。
「五月の花だよ。」
「先生は、お詳しいの?」
「それほど詳しくはないけど、何回も来ているからね。ちょっと調べているうちに、おぼえてしまった。花言葉は、希望だったかな。」
川端がほほえむと、伊織は頷いてみせた。
「上手く描けているね。」
「あんまり見ないでください。恥ずかしいから。」
伊織の頬に、より深い赤が差した。こころがゆるんで、はにかんだ。
伊織は筆を置くと、立ち上がって、トルコキキョウの花を掌に乗せた。表情はやわらかい。その、トルコキキョウの白さが鏡になって、伊織の肌の白いのが、一層に映えるのだった。
 川端に、伊織の顔の色合いが、フランスかどこかの、外国の色のように思えた。クリーム色の濡れたような肌と、トルコキキョウの組み合わせが、そう思わせた。それでも、豊かな髪が日本人形のように黒光りして、日本のむすめの色合いだった。前髪が、額に揃って、幼く見える。
「可愛らしいお花で、来た時から、これを描こうって決めてたんです。」
「他のみんなは?」
「ばら園に。ばらを描くんだって言ってました。」
ばら園は、園内の東側にあって、ここからは少しばかり歩く距離だった。
「香月は、ばらは描かないのか。」
「ばらは綺麗だけど、小さな、白い花が好きなんです。愛らしくて。」
「白い色は、何色にもなれるからね。」
若いむすめの色にもなれるとは、言わなかった。
トルコキキョウは、風が吹いて、みずみずしく匂っている。
 川端はベンチに座った。伊織は、周囲を見回してから、その横に戻った。また筆を取り、スケッチ帳に走らせた。風が吹く以外、音もなく、おだやかなものだった。川端は、先程の少女たちの群れの中にいる伊織と、今の伊織とのへだてを感じていた。今の伊織は、どこか幼さが残っていて、個人としての伊織のように思えた。少女たちの中に入ると、美しい顔立ちで、一等に目立つけれども、玉が曇るようだ。
「先生は描かないの?」
「僕?僕は描かないよ。僕は君たちの保護者役だから。」
「せっかく来たんだから、描けばいいのに。」
「僕は描くよりも、見る方が好きなんだよ。」
「お好きな画家さんとか、いるんですか。」
「たくさん。日本画家が好きだよ。東山魁夷。知ってるか?」
伊織は首を振った。この頃の女子高生は、美術に興味がなければ、知りもしない名前だろうと、川端は感じた。川端はスマートフォンを取り出して、その画家の絵を検索し、作品の画像を見せてやった。京都の鷹峯に光悦寺がある。そこの、光悦垣にかかる紅葉を描いたものだった。伊織が、画面を覗き込むと、夏が匂った。
「淡くて、溶けていくみたいな色。儚くて…。」
「他にもいろいろ好きな作家はいる。洋画家も好きだ。この近くに、陶板名画の庭があるだろう。」
「陶板?」
「版画だよ。銅が版画の素材なんだ。銅は、とても精巧なものを作るのに適している。」
「この近くに、美術館があるんですの?」
「美術館、というよりも、どちらかというと、名前の通り、小さな庭のようなものだよ。行ってみようか。」
「抜け出しても、構わないんですの?」
伊織のたずねるさまが可愛らしく、川端はほほえんだ。いたずらめいた言葉の中に、むすめの羞恥を見たからだろうか。二人は、園から出ると、そのまますぐ隣に位置する、銅版名画の庭へと、足を進めた。
北山通りに出ても、町は変わらず、静かだった。時折、学生服を着た中学生や、買い物帰りの女性が通るのみで、他は、車の音だけだった。
銅版名画の庭に入ると、いよいよ人が誰もいない。人のいない空間の中にあって、飾られた名画が、生きるようだ。庭といっても、草花はなく、石造りで、幾重もの階段と、なだらかな坂で入り組んだ構造になっており、階層が作られていて、建物自体が、現代アートのようでもある。硝子をへだてて、水路や池があり、そこを微かな水が流れていて、人工の小川と小滝がある。銅版は、その小川をへだてた石壁に掛けられていたり、そのまま通路に掛けられていたり、様々だ。
 伊織は、物珍しそうに、顔をほころばせて、名画に魅入っていた。人工の滝を流れる水が、しぶきを立てていて、伊織の顔に重なると、少女から水の匂いがした。
「大きな絵。」
伊織と並んで、川端は絵を見上げた。この庭で、一番大きな名画である。ミケランジェロの大作、『最後の審判』だった。高さは、十五メートルほどもあると、絵の傍らの、鉄製のレリーフに書かれている。ほぼ原寸大で、その威容は、迫り来るようで、絵の中に取り込まれてしまいそうだった。
「天国と地獄?」
「『最後の審判』だよ。ミケランジェロの、大作だ。」
「すごく大きいです。」
「ミケランジェロはこれをたった一人で描いたんだ。」
「私のトルコキキョウとは、大違いですね。」
伊織ははにかんだ。口調がまたやわらかくなっていて、川端は、その伊織の言葉に、甘えを感じた。この場所に、二人きりでいることから出る甘えだろうか。
「中央がイエス・キリスト。後は、君の言ったように、だいたい同じだよ。天国と地獄ととがある。地獄には、髑髏や亡者がみえるだろう。」
「洞窟の奥から覗き込んでいるようで、怖いですね。闇夜に浮かぶ眼のようで。」
「地獄と言うよりも、魔界だね。」
「魔界。」
伊織の呟いた言葉は、伊織の愛らしい小さな顔立ちとは、似ても似つかない。魔界と、この花の少女に、どのような結びつきが産まれるのだろうかと、川端は思案したが、難しかった。
 丁度、二階の通路が突きだして、庇になった場所に置かれたベンチに座ると、涼しげな風が吹いた。もう夏が近いのだろう、空の青色が深かった。
ベンチの横手に、棺のような物が立てかけられていて、伊織を挟んで、川端の瞳に映った。中には、蝋燭が幾本も挿されていて、溶けあって交わっていた。火が揺らめいて、小さな教会のように見えた。伊織の肌に、その火の影が映った。伊織の白い肉体も蝋燭に交わるようだった。
「好きな絵があるんだ。」
川端は立ち上がり、伊織はそれに続いた。川端が指し示したのは、フィンセント・ファン・ゴッホの、『糸杉と星の道』だった。硝子をへだてて、飾られていて、ちょうど、後ろの滝の水が、硝子に映って、川端と伊織の、透明の顔の中を落ちていった。
「これは見た事があります。ゴッホでしょう。」
伊織は、眼を細めてほほえんだ。いたずら好きの少女のほほえみである。笑うと、眦が垂れるのが、普段の透き通った目元と違い、愛らしい。
「ゴッホも魔界の住人だ。」
「ゴッホも…?」
「生涯、生きている間認められなかったろう。芸術に没頭して、精神病院に入れられて、気ちがいになってまで、それでも認められないのは、どれほど苦しいんだろう。認められない苦しみ…。」
「でも、そこから立ちのぼる芸術もあると思う。」
「そうだね。だからこそ、ゴッホは魔界に棲んでいて、魔界の絵が描けたんだ。」
「それじゃあ、この絵も、先生から見れば魔界を描いているのね。魔界の糸杉。」
そう言って、糸杉に触れるかのように、枝の先から、伊織はゆっくりと宙に指を這わせた。目が、潤んでいた。
「京都にも、北山杉がありますわ。この魔界の杉の木とは違って、真っ直ぐな杉の木。」
「その絵を描いたのが、さっき言った、東山魁夷だよ。」
「まぁ。それなら、先生は杉の木が、よほどお好きなのね。」
川端は、夜に咲いた魔界の糸杉を背景に、伊織の立つさまに、美しい色香を感じた。陽が差して、硝子にうつる水がきらきらと光って、鏡のようだった。水鏡の底で、糸杉の濡れるのが、伊織の象徴のように、川端に映った。四方から聞こえる水音は雨のようで、静かだった。
 短い散歩が終わって、植物園へと戻る最中、一匹の柴犬がいた。伊織は、頬緩して、しゃがみ込むと、柴犬の背を撫でた。陶板名画の庭沿いに置かれた、移動販売車のホットドッグを買いに来た客の、ペットのようだった。犬と戯れると、たちまち、十六のむすめの顔つきになる。制服から伸びた肢体は、それとは裏腹な線を描いていて、ふくらんで豊かなのが、年頃のむすめの神秘だった。
 植物園に戻ると、また、陶板名画の庭とは種類の違う静寂が周囲を覆っていた。鳥の声や、風の音や、木末の擦れる音、空の音が聞こえていたが、町とはやはりへだてがある。川端は、少女の内面に入り込んだのかと、心地よい錯覚だった。
 歩いていると、一人の少女が前から歩いてくる。栗色の髪で、先程伊織とベンチに腰をかけていた、友人の泉だとわかった。泉は、肩口までかかった、波打つ髪が揺らめいて、遠くからも匂うようだ。
「先生、伊織を独り占め?」
いたずらめいて、泉は川端は覗き込んだ。川端は、泉から、堕落の匂いを感じた。泉の体臭がそのように思わせたのかもしれない。伊織の小さな脣の、薄い赤とは対称に、泉の脣は真っ赤である。紅そのもののようにすら思えて、川端は息を呑んだ。
「二人でお出かけ?」
「絵を見ていたの。」
伊織ははにかんで応えた。それを受けて、泉の笑みは、様々な思いが重ねられているように、川端には思える。
「陶板名画の庭。磯村は、行った事ないか?」
「あんまり興味がないかも。絵も。先生の事も。」
その言葉に、伊織は恥じらいで、うなじまで染まった。白い肌の底の血が、言葉の火の子に当てられて、温まっている。
「磯村はもう描けたのか?ばら園に行ったんだろう。」
「行ったけど、ばらは難しいもの。チューリップを描いたわ。本当は、桜がよかったんだけど。チェリー・ブロッサム。」
そう言って、手に持ったスケッチ帳を、ひらひらと捲って見せた。色とりどりのチューリップの花びらが、描かれていた。
 川端に、泉とチューリップは対照的だと思えた。泉こそ、ばらのようであったし、食虫植物にも思えた。
「ばら園にも、いくつか桜の花のような淡い桃色のものが、そこここに生えていたよ。」
「言ったじゃない。ばらは難しいの。色の問題じゃないわ。」
話しているうち、時折、遠くから少女たちの嬌声が聞こえた。その度に、芝生に映る木漏れ日が揺れるようで、風と、声が連なるようだった。
川端に、少女たちの声の明るいことと、聞き取れない言葉のつながりとが、ただ美しい音楽のように聞こえて、眠りを誘われるような心地よさだった。
「写生大会、もう終わりでしょう?」
泉の声に、揺り起こされたような心地がして、川端ははっとした。目の前の少女たちの輪郭が、おぼろげに見えた。
「もうあと一時間もすれば、集合して帰るよ。」
「じゃあもう描けたから、今から自由時間でいいですか?」
川端が頷くと、泉は笑って、伊織の手を引いて、花園の奥へと入っていった。その後ろ姿から見える太腿に、幾筋かの光線が射して、黄金色に輝いて見えた。
 川端は、小さくなっていく二人の背を見つめながら、彼女たちとは反対の方角へと歩を進めた。まだ、集合時間まで幾分かの時間があったから、近くの温室へと足を運んだ。温室には、様々な植物が群生しており、そこだけ、空気が違った。亜熱帯の植物特有の、濁った緑で、その、どこまでも伸びていく生命の力に感嘆はするものの、そこに、川端の考える美しさは見いだせなかった。大型の食虫植物であるラフレシアの標本を前にして、或いは、この温室が、この園内の魔界なのかもしれないと、ふとそのような考えが、川端の脳裡に浮かんだ。日の光よりも、雨の恵みを元に巨大に育つその姿に、泉の女性性と重なるものがあった。ラフレシアは成体になると、おそろしい程の臭気を放つという。
 温室から出て、外の匂いに触れると、途端に、現実から夢へと引き戻される心地がした。温室の中の、機械や、雨水の腐った臭いが消えて、花の香りに包まれる。その変化が、川端には不思議な思いだった。
歩きながら、自身の創作を、川端は思った。表層をなぞっただけの、物語めいた作品を、幾本書いたところで、それが芸術かどうかと問われれば、首を縦には振れないであろう。フィンセント・ファン・ゴッホは、自らの狂いを絵に託したのであろうか。精神を病んで、気ちがいたちと共に生活し、そのことが、彼の絵に、これほどの神秘性を与えた最大の要因であろうか。精神病院から見る風景こそが、ゴッホの魔界だろうか。それとも、生涯認められない芸術家人生そのものが、魔界か。
 川端が、芸術だと思うものは、美しさがあるかどうかだか、その美しさに触れられずに来たのは、自らの傲りのせいもあっただろうか。川端は、自身の中の憂いが、伊織と触れ合ったおかげか、水に洗われたように思えていた。
 いつの間にか、木漏れ日が掌に差しているのに気付いて、小さな林の中に入っていた。その林を流れる小川を踏み越えて、光の差す方へと向かうと、視界が開けて、大きなイチョウの木が見えた。その下に、二人の少女がいて、互いに身体を寄せ合って、寝転んでいた。どちらかが動く度に、制服が揺れて、肉体もそれにつられて、揺れ動いている。伊織と泉は、木漏れ日の中で、微睡むように戯れていた。時折、ほほえむと、小さな脣から、その肌のように愛らしい白い歯がこぼれて見える。
 制服の神聖さに、少女の肌触りが思われた。少女たちは、聖処女と、魔女の、どちらにも振れるように思えた。伊織は、川端に気付いて、人差し指を糸杉のように脣の前に立てた。川端は、伊織を見つめながら、少女にトルコキキョウを重ねた。川端のこころに、日だまりの白い花は、水鏡の中の糸杉へと重なって、そのまま交わっていった。

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