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ふたのなりひら

1-8

 相馬の部屋を漁りながら、改めて標本の山を見る。金銀砂子のように、蝶々が山と積まれている。見る人が見れば、これもまた大金なのだろうが、森にはそのような知識はもちろんない。大量に積まれた蝶々たちの、いわば墓場のようなものであるが、しかし、それらの剥製たちは、生きていたときと同じように鮮やかに眠っている。中には、蛾もあって、そういうものを見ていると、森は震えが走るようだった。これは、クジャクヤママユというんだと、毒蛾ではない、これは、オオミズアオ、月の女神と言うんだよ、美しいだろう、そう森に教えてくれたものだった。
 そうして、父の隠しているであろう標本の数々を一つ一つ確かめながら、目当てのものはどこにあるのか、部屋中を探した。普通の標本箱にはないようだった。これほどたくさんの蝶々がいるというにも関わらず、それほどまでに珍しいものなのだろうか。そうして、今度は机に思い当たって、抽斗を一つ一つ開いていく。相馬は今買い物に出ている。いましかチャンスはない。そうして、開けていった抽斗の三段目、美しい一頭の蝶々だけが収められている標本箱があった。一目で、この美しい分かれ目で、雌雄モザイクだとわかった。
 相馬が大切にしている、ウスキシロチョウの雌雄モザイク。他には、雌雄モザイクはないようだった。森は、辺りを見回して、そのままその箱を持ち出すと、そっと部屋から出て行った。そうして、自分の部屋に入ると、鍵を閉めて、改めて標本を見る。見事に、二つに分かれている。どちらも薄い黄色がベースだけれども、片方の羽根は茶色い紋様がいくつかあり目立っているが、もう片方はきれいに黄色い。蝶も月のように満ち欠けするのか。
 そうして、この標本箱は、丁寧に管理されていて、相馬の蝶に対する几帳面さが伺えた。箱を開けて、中から標本を取り出すと、湿気などのせいで痛んでしまうと、相馬に聞かされたことがあった。空気に触れるとね、簡単にばらばらになってしまうよと、しかし、箱のままだと嵩張るから、持ち運べない。どうしようかと逡巡して、結局は箱を開けることにする。一挙に開けるから、急激な変化でばらばらになるのだろうと森は考えて、箱にかかった鍵を開ける。そうして、展翅板に乗ったそのウスキシロチョウを、おそるおそる間近で見つめた。きれいだった。
 森はピンに触れると、そっとそれを抜き取って、掌にウスキシロチョウを載せた。死んでから、十年の月日が流れた蝶々だ。それを掌に乗せて、自分と見比べてみる。
 僕はお前の生まれ変わりなのと、声にならない声で、遺骸に尋ねるが、答えは返ってこない。黒い目が、森を静かに見つめていた。
 急にドアが開いて、相馬が入ってきた。相馬は、森を見下ろして、
「何してる?」
静かに尋ねた。森は答えずに、右手に掴んだウスキシロチョウを背中に隠して、そのままポケットに入れた。
「お前も蝶々に興味が出てきたのか。」
相馬はあどけなくそのように尋ねる。森はゆっくりと頷くと、
「すごいだろ。お父さんのコレクション。」
森はまた相づちを打つ。
「まだ、南米とか、アフリカの蝶々はないんだけどな。知ってるか?ザルモクシスオオアゲハ。雌雄で金額がえらい違う。雄は安いんだけどな。雌はめったにいないから、べらぼうに高い。それこそ、絵画一枚買えちゃうんだ。なんでいないかって言うと、色々な説があるんだけど、アフリカにある、すごい大きい樹。何十メートルもある樹だな。ああいう樹の上を飛んでいて、水を飲みに降りるときだけ、姿を見せるそうなんだよ。」
相馬は嬉しそうに、自分の蝶々の標本を見つめながら、目を輝かしている。少年のように思えた。そうして、そのような様が、森に、急に憎らしくなった。
「今度、蝶々を採りに行くか?行ってみるか?先生を誘って……。」
森は、ポケットの中の蝶々を意識しながら、ばれないように、後ずさった。そうして、相馬を見つめて、
「そうだね、うん。今度、僕も先生に話してみるよ。」
そう言うと、静かに頷いた。相馬はほほ笑んで、しゃがみ込むと、森の髪をゆっくりと撫でてやった。
「良し、行こう。解禁だな、蝶々採りの解禁だ。」
相馬は嬉しそうにそう言うと、ドタバタと部屋を出て行った。そうして、森はゆっくりと箱を抽斗の中に戻して、部屋に戻った。立ち尽くしたまま、震えるように、ポケットの中に手を入れる。美しい黄色い羽が出てきた。そうして、砕けた茶色い紋様のある羽根に、胴体が掌に転がった。森は、しゃがみ込んで、鱗粉のかすかについた掌で、目の下の涙を拭った。
 
 夜のインターフォンに、恵は驚いて、鍵穴を覗いた。そうすると、森だった。森の様子がおかしかったから、恵はドアを開けると、上がるように促した。マグカップにココアを注いで、森に渡した。森はそれを受け取ると、ゆっくりと口付ける。
「どうした?何かあったの?」
恵は、低い声で森を見た。森は泣いていたようで、目の下が朱い。そうして、それはほほ色も紅潮させていて、愛くるしい。誘拐されても、仕様がないだろう。森は口を噤んだままで、
「パパは?どうしたの?」
森は何も言わずに、また目を赤らめた。恵は頷いて、空の月を見た。ちょうど、半月だった。きれいに分かれていて、調っている。
 相馬はすぐに来るだろう。だって、森が来る場所なんて、数えるほどしかないだろうから。電話もないのは、夜で、あの日のことがあって、遠慮しているのかもしれない。
「雌雄モザイクの蝶々……。パパの大事な、蝶々。」
ぼそぼそと、森が言葉を紡ぎ始めた。恵が頷くと、森は鞄を手にして、それを開けて、ごそごそと、中からビニールに包まれたものを出してくる。きれいな色の破片で、それが蝶々だと、すぐにわかった。雪の破片のようにも見えた。
「お守りにしようと思ったんだ。パパが、僕はこいつの生まれ変わりだって。あとで、パパにちゃんともらおうと思ったんだけど……。慌てて隠したら……。」
恵は、この子が初めて来た日のことを思い出していた。丁度、あれから五年経って、俄に身体が大きくなった。そうして、性徴がもうすぐあるだろう。胸がふくらみ、のど仏は出、じぶんがちぐはぐなのが、一番つらい時を迎える。初めて会った時、まだ愛らしい子供そのもので、恵に、弟か妹のように思えたものだが、こうして接していると、それはもう息子か娘のようにも思えた。
「これはもう元に戻せないね。」
恵がそう言うと、森は俯いて、
「森は、あの話を聞いていたんだね?」
森は頷いた。そうして、それならば、あの時の口づけも知っているのかもしれない。
「眠たくなって、音楽を消して、そうしたら、二人の声が、音楽みたいで気持ちよくて、それから、あの蝶々の話になって、僕の夢に、蝶々が出てきたんだ。」
「そう。あの御伽噺ね。」
「僕は、この蝶々の生まれ変わりで、ママも、蝶々なんだって。」
恵はかぶりを振って、
「五年前に、森のパパに聞かされた。そのときは、クソ喰らえって言ってやったよ。」
「クソ喰らえ。」
「そう。悪い言葉だ。だからあんまり使うんじゃない。ここぞって時に、使うんだよ。」
森は頷いた。恵は、森のほほに触れて、
「森も私も、どっちもフタナリヒラだろう。だったら、森だけ蝶々の生まれ変わりだなんて、ずるいよ。」
恵は森の手からビニールを引ったくると、それを顔に近づけて、じっと見つめた。見つめていると、ビニールの中に雪が舞うようで、それは、恵の見ている幻想かもしれなかった。
「この蝶々は、かわいそうだよ。」
「どうして。」
「仲間はずれでしょう。雄にも、雌にもなれないんでしょう。一人で、哀しいでしょう。」
そう言う森の表情は、薄く溶けそうに思えた。自分の鏡のようである。
「知らないでね、飛んでるでしょう。何で誰も近寄ってくれないのって、哀しいでしょう。」
恵は、森の目を見つめて、そうして
「森は、昆虫にも、小さな動物にも、魂と、心があると思ってるんだね。」
「先生が、そう教えてくれたんでしょう。いっそのこと、ないのなら、哀しくないのにね。」
森の言葉の後、少しの沈黙に、インターフォンが鳴って、相馬が顔を出した。
「勝手に上がらないでくださる?」
「開いていた。靴も。」
相馬は、蒼白な顔つきで、森を見つめた。そうして、森に近づいて、ゆっくりと抱きしめた。
「心配したぞ。お前は危ないんだ。お前は違うんだ。」
抱きしめられながら、森は尋ねた。
「何?何が違うの。」
ゆっくりと、相馬は顔を上げて、
「お前は特別なんだ。俺の子供だろう。だから、特別なんだ。」
森のほほを優しく叩いて、相馬がほほ笑んだ。そうして、視線が恵に移る。
「すみません。僕がちゃんと見ていなかったから…。」
そうして、その手に握られている、ビニール袋を見て、あっと声を上げた。
「あなたが持っていたんですか?」
「森くんにもらったんです。もう、魂が移ったから、いらないよって。」
恵がほほ笑んで、相馬は頷いた。森を見ると、森は、少し大人の顔になっていて、もうすぐにでも、人を惑わす魅力を備えそうである。
「魂がねぇ……。でも、ひどいな……、これはもう、ばらばらじゃないですか。」
「そう。だから、もうこの身体は灼いてしまいましょう。」
「灼く?燃やすってことですか?」
「ええ。ねぇ、森。」
森は頷いた。相馬は、困ったように髪をかき分けて、恵の手からぶら下がっているビニール袋を見つめた。粉々だが、名残惜しい。森を見ると、森は心配そうに相馬を見つめていた。
「お前が取ったのか?」
森は答えずに、ただ頷いた。
「パパの大事なコレクションだったんだぞ。」
そう言うと、恵が静止して、
「まぁ、森くんがこうして無事だったんだから、良しとしましょうよ。」
話を打ち切るように言って、しかし、相馬は森を見て、森の目だけを見ると、それが凛々しく生い立っていて、心を打たれる線の美しさだった。
「ああ、そうだな。じゃあ、荼毘に付すとしましょうか。」
「荼毘?」
「火葬のことよ。」
恵は立ち上がり、キッチンに向かい皿を取った。リビングに戻り、窓を開けると、半分の夕月の下に降りていった。無論、裸足であるが、気にする様子もない。森もそのまま裸足で着いていって、その二人を見ている相馬も、靴を脱ぐと裸足になって、芝庭に降り立った。
 三人は円になって、何かの儀式のように、額を寄せ合った。そうして、恵はビニール袋の中に手を入れると、ばらばらになった遺骸を取り出して、右の掌に広げた。そうすると、手が薄い鱗粉に塗れて、左手の指先で、まだ残っている羽根を月に透かしてみせた。
「火はある?」
相馬は胸ポケットからライターを取り出して、そうして、火をつけた。
「こんなにたくさんの人から、愛されて、この蝶々は幸せものだよ。」
恵はぱらぱらと、雌雄モザイクの蝶々を皿へと零して、掌からは鱗粉がさらさらと舞う。一枚だけ、羽根だけは残したまま、それは森に手渡して、相馬が羽根に火をつけてやる。ぽうっと淡く黄色い円かな火が立って、そのままそれを皿に一滴落とすと、火は広がって、三人の顔を照らした。しかし、一瞬だけの火である。
 蝶々は灼かれて、白い月になった。音もなくなって、静かになった。恵は、森のほほに手を当てて、そうすると、森のほほに幽かに鱗粉がついて、煌めいた。
「これはこの世のことならず。これで、あの子も成仏したでしょう。」
恵は手を合わせるようにして、森に促した。森はそれを真似て、相馬も慌てて真似をする。そうして、手を合わせて懸命に祈る森の顔に、相馬は、産まれたばかりの頃に、どちらであろうとも清らかに美しく泣いていたことを思い出した。相馬が手で抱いたとき、安心したようにこちらを見たのだ。
 相馬たちは、しばらくの間、その場所で祈り続けた。火葬ごっこだが、次第に真剣である。
 そうして、祈りを捧げている恵の顔に青い月の光が差して、満ち欠けを作った。恵が片目を開けると、相馬が森に何事か囁いている。恵は、聞こえないふりをして、目を閉じた。
 祈りが終わり、相馬は立ち上がって、
「さぁ、火葬は終わり。部屋に戻ろう。」
「そうね。じゃあ、森。お風呂に入っておいで。汚れているだろう。」
恵はそう言って、森を促した。
「ここは禁煙でしょう?」
「かまわないよ。どうせ煙くさいし。一本だけならね。」
恵はそう言うと、窓を閉めた。BOYARDSのパッケージを胸ポケットから取り出すと、それを一本、口に咥えた。
 リビングで、森は月を眺める相馬を見ていた。そうして、近づいてきた恵に視線を向けて、
「あれは、李先生だったんだね。」
森の言葉に、首を傾けて、
「あれ?あれって何のこと?」
「蝶々だよ。」
ああと、恵は頷いた。
「僕たちは、哀しいでしょう。愛情がないことが怖いでしょう。先生も同じ気持ちなんだって、そう思ったよ。」
「そうね。でも、蝶々に自分を託すなんて、それこそ哀しいことだよ。だから、灼いたんだ。」
森の言葉に、恵はそう答えて、相馬を見た。相馬は振り向くこともなく、月を見ている。
あの、相馬の物語は、美しい御伽噺に思えたが、どちらにとっても、感傷に過ぎなかった。蝶々が火に灼かれても、自分も、森も、なんの変わりもない。
「そういうことはよくある。あなたくらいの年なら。」
「先生も?」
「先生は、もう大人だから、少し恥ずかしいね。」
「先生は、パパのことが好きなんでしょう?」
森の、少年少女の声音から、幽かに男女のあわいが覗いた。恵は虚を突かれたように、答えられずにいると、
「さっき、先生の顔に、満ち欠けが出来てたって、パパが言ってた。」
「私の顔?」
「先生は目を瞑ってたけど。パパは、ずっと先生のことを、見てたよ。」
森は、ほほを紅潮させて、そう呟いた。もう大丈夫なのだろう。そうして、その言葉は、恵の心に火を灯した。恵は、そうと、それだけを呟いた。のど仏が頷いた。そうして、その燭の火は、森の心も照らして、美しい半月を作った。

キャラクターイラストレーション ©しんいし 智歩

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