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獣姫

5-1

 その屋敷は風光明媚な立地に佇んでいた。嵯峨嵐山からほど近い、寺社仏閣が点在する山間に佇む屋敷。タクシーで指定の住所まで向かう道中、ポツポツと観光客の姿が見受けられた。数キロ離れた嵐山界隈の大渋滞とはほど遠い、閑静な住宅街だった。十月も後半に入っていたというのに、風鈴の音が時折聞こえた。真田という表札を見た時、思わず身震いしてしまう自分がいた。屋敷は今にも何かが出そうな程に古びており、黴臭さすら感じてしまう。的場が躊躇せずにチャイムを押した。俺は襟元を正す。屋敷の奥から近づいて来る足音が聞こえる。戸が開くと中から眼鏡をかけた神経質そうな男が顔を出した。
「すいません。今日取材のお約束をしていたロエンの的場です」
「ああ。上がって下さい。お待ちしていました」
とても客人を出迎える風体ではない眼鏡の男が俺達を中へ促した。軽く会釈をし、玄関に足を踏み入れる。古びた屋敷の中は噎せ返る程にお香の匂いが充満していた。俺は思わず手で鼻と口を覆う。眼鏡の男に後を着いて行く。長い廊下は江戸時代、はたまた室町時代からそこに存在していたのではと錯覚する程に痛み、歴史を感じさせた。眼鏡の男に客間らしき部屋に通される。
「先生は今工房にいます。呼んで参りますので、こちらでお待ちください」
そう言って眼鏡の男は一礼すると、襖を閉めて行ってしまう。廊下の軋む音が遠ざかって行く。部屋の中を見渡す。稀代の科学者の部屋と思えない程、そこは装飾過多に塗りつぶされていた。どちらかと言えば芸術家の棲家。壷や絵画のような芸術品の姿はあまりなかったが、代わりに圧倒される程の人形と剥製でその部屋は埋め尽くされている。少年少女、老人、成人した男女、上半身だけの青年、道化師。様々な種類、様々な人形が雑多に折り重なる様に部屋を埋め尽くしている、狸や狐や鴨嘴の剥製が人形の集合体の中所々に配置され、無機質な色味に彩りを与えている。何らかの統一性があるのか、部屋のレイアウトにまで注視してしまうのは職業病か。
「圧巻だな」
的場が口笛を吹く。
「これだけ凝ってる部屋は芸術家でもなかなかいませんよ」
俺は的場の意見に同意した。取材で訪れた芸術家連中の邸宅群。そのどれもが常人や世間の縛りから乖離し飛躍した窠だった。だが、群を抜いて真田芳雄の屋敷は得体の知れない凄みを纏っていた。俺の眼に入るだけで人形の数は数百体はあるのではないか。そして、俺と的場ただ二人だけが人間で、今この場でその数百の瞳に視線を注がれているのだ。
 真田芳雄を取材することになったのは、的場の発案だった。彼が稀代の科学者と世間を騒がしたのは俺がまだ八つの頃だった。獅子猿事件。民間人を含む三十名近く(諸説あるのだが)が真田が産み出した人口生命体に惨殺されるバイオハザード。事件当時、テレビで連日連夜報道していたのを覚えている。合成生物学。真田が研究していたこの学問は一躍注目の的になった。生命を造り出す事は罪か否か。神の領域に触れる事は許されるのか?そんな討論が雑誌や匿名掲示板を盛り上げた。真田は事件後、マスコミからの猛バッシングに晒されていた。天才。神。芸術家。悪魔。罵詈雑言と礼賛、双方の評価を同時に下されていた。しかし、事件から半年程経ってから彼はマスコミからはたと姿を消した。電脳世界の連中は訝しんだ。政府と真田との間に何らかの取引があったのではないか?人権的な問題からか?彼の研究が国家的なプロジェクトに抜擢されたのか?それで恩赦か?数十名の命が失われたというのに?ネットの炎上を鎮火したのは、政府発表の獅子猿の培養の成功だった。ライオンとマントヒヒのDNA情報を併せ持つ生き物が、公式に認可されたのだ。産まれたばかりの獅子猿の女の子がお披露目された。それは虐殺とは縁遠い、愛らしい赤ん坊に過ぎなかった。新種の動物は事件の被害者遺族を置き去りにし、莫大な経済効果を産んだ。数百億という金額、そして合成生物学に関する世間の理解を得る格好の偶像として、獅子猿の娘は役目を果たした。
 当時真田は複数の取材に応えているが、そのどれもが獅子猿の事に言及していない、合成生物学の未来を語る退屈なものだったことが資料から伺えた。どこか自身の研究に興味を失っているかのように歯切れの悪いインタヴューだった。暫くは紙面で名前を見かけたが、ある日を境に再び真田は姿を消した。数年後、別の話題で真田の名前が浮上する。狼人。自身を六親等目だと言うその女性が、真田によって作られたもう一つの奇蹟を語り出す。人と犬の間の子。真田の落し子は獅子猿だけでなかった。世間は彼女を馬鹿にしたが、彼女がその特異な特徴を仔細にまとめた資料と、自身を検体に差し出したことにより、数年越しに彼女の言葉が真実だと認知される。再び真田はマスコミから猛バッシングを受ける。真田は沈黙を守った。前代未聞の事件だった。人間を別の物に変えた。歴史すら激変させうる程の営み。天才の肥大化する研究欲が人類の歴史自体に変革を及ぼす事の危険性が取り沙汰された。だが、世間は案外すんなりに狼人を受け入れた。差別的な事は山と起きたが、それ以前に彼らは少数民族だ。アイヌ民族の生き残りよりも希少な存在であるその種族は、渇望でもしていなければ会う事すらままならない。現時点で十五親等を数える狼人は、今は各地方に散らばり人に交じり生活しているという。俺自身は今まで狼人に会った事は無い。家族も友人も同じだ。芸能人のように、もしくは更に都市伝説の中の人物のように、存在を知識として持ってはいるが、自分とは無縁の人々だった。
 この取材に同行するにあたり、真田の過去のインタヴュー動画を見返した。画面に映る真田は六十そこそこだろうか。今から五年程前の画像だ。精力的な顔つきで、腕が丸太の様に太い。太々しい顔つきに、右顔面がケロイド、右目には眼帯をつけていた。盗賊の親分のようなその風貌が少し滑稽に見える。インタビュアーが器材をセットしている姿を訝し気に見つめる真田のアップから動画はスタートする。

 ーそれでは宜しくお願い致します。真田教授にお話をお伺いすることが出来て光栄です。まず人狼ー
ー人狼じゃない。狼人だ。
ー失礼。狼人ですが…、寿命は短い個体なら十二、三、長くても二十歳前後だとお伺いしております。桜子さんのレポートと医師団の発表による統計ですがー
ーそれ以上生きる可能性もあるだろう。だが、今まで生きた中でも最長で十九だった。
ーそれは皇后様の?
ーひ孫だ。
ー今世界には何体の、失礼、何人の狼人が生存してるんです?
ー正確にはわからん。十二親等までは知っとる。その後はわからん。
ー多産だとか?
ー犬の資質を受け継いどるからな。
ー犬の資質とは?
ー聴覚、嗅覚、視覚、触覚、全てだ。ハイブリッドだよ。
ー今世間には何体程?
ーだから俺は全てを把握していないと言っとるだろうが。おそらく数百人か。
ー爆発的な繁殖力です。いずれ人間にとって変わるのでは?
ーそうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。共生できるのならそれに超した事は無いし、今も特に大きな問題も無く共生しているだろう。
ー今も研究を?
ーもう辞めた。
ー今は隠居生活?
ーそうだ。
ー世間は期待しています。獅子猿。狼人。次は何が飛び出すのか。
ー無責任なだけだ。あいつらは何でも消費する。
ーこれはあくまで、あくまでです。あくまで我々の私見に過ぎないのですが、あなたは裁ききれない程の罪を背負っている。その自覚は?
ーない。もう帰ってくれ。俺は作業に戻りたい。引き受けるんじゃなかったよ
ー何の?何の作業です。
ー帰ってくれ。
ー何の作業なんです。先生、教えて下さい。何の作業なんでしょう?
ー人形だ。人形を作る。
ーそれは生き物?
ー帰ってくれ。人形は人形。ただの人形だ。帰ってくれ。

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