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雨の獣④


 手術の日まで、私は再度、自分が今までに蓄積してきたデータを洗い出し、その日に備えてあらゆる事を再点検していった。私の中に、同時に二つの望みが叶えられる一つの奇蹟に対する歓喜の声が湧き始めていた。手術を提示した彼らは美雪が術中に死ぬこと、或いは成功しても人ではない何かへと変貌するリスクを説いていたが、本来であればそれは四年も前に通過した道であり、今の私には何ら恐れるべきものではなかったのである。私は、男達に提示された日に美雪の病室を見舞った。美雪は変わらず、静かに寝息を立てている。いや、呼吸をしているだけであり、あれが寝息と呼べるのであればどれほど嬉しいものなのだろうか。美雪の双眸には私が映ることは最早なく、延々と彼女の瞳は闇の中を泳いでいる。スーツ姿の二人は、私の元へ初めて姿を現した時と同じ服装で、病室へと入ってきた。彼らは静かに様々な器具を取り出すと、今この部屋で手術を行うと私に宣った。私はそれをうすうす解っていたし、美雪の頭を大袈裟に覆う、巨大な帽子ともつかない延命装置から彼女を外すことは、勿論出来ないことだと理解していた。彼らは病室まで運んできたケースの中から様々な器具を取りだし、彼女の脳へと融合させる特殊な肉片を私に指し示した。マウス等では幾らか経験があるが、人間では初めての作業であった。その他の生物の脳幹を代用品として使う事など、不可能に近い上、倫理に反していたが、私の中にある欲望と、美雪への愛情は押さえきれるものではなく、その倫理に背くことによって得られる対価に、私は魂を売った。早く売ればよかった。
彼らが用意したのは、恐らくは誰か他の者がつい先程まで所有していたものなのだろう。自分がフランケンシュタイン博士になったのではないかと錯覚する。カタカタと動く8㎜フィルムの粗い粒子を伴った世界が私の網膜の上で展開され始めた。頭の片隅ではまだ罪の意識を感じてはいたが、それを一枚膜を隔てた架空の光景として見なすことで、私はこの所行に対してむくむくとわき上がる欲望と嫌悪とを、自分の心情から突き放し、冷静に対処した上で手術に臨むことが出来のだった。他者の脳幹、それも死体の物を素材として使用することなど、常軌を逸していることは私自身気付いていた。そんなこと、まるでエド・ゲインじゃないか。だが、それ以外の可能性の模索をすること等到底考えられもしなかった上、例え私が、遅かれ早かれ美雪の蘇生に関して何らかの措置を講じる心境に至ったとしても、そのときに私が思い描いていたプランを遂行する術が眼の前にあるとは限らなかったし、着々と研究と準備を重ねた上での施術であっても、一人である場合、失敗をする事は即ち私は犯罪者となることと同義であり、再度彼女の脳を弄くる権利を剥奪されることに他ならない。それならば、この得体の知れぬ二人の男に罪を重ねる僅かばかりの可能性に賭けた上で、また、彼らの力を借り、単独では行う事は極めて困難であるこの作業を、心身にかかる負担を少しでも軽減させる為に利用しない手はないのだ。彼女の蘇生それのみを目的とし、この指先をその為だけに存在させるために私は覚悟を固めた。手術は、四時間の長きに渡った。正確に言えば、僅か四時間しか与えられた時間はなかった。それは看護師の目から逃れられる、希少な時間だった。暗闇の中で、私は白衣を着た男達二人に指示を出し、彼らがケースから取り出した他者の脳幹を、実の娘の物と差し替える作業を淡々と行った。予想以上に出血が多く、彼女の眠るシーツも、私たちの白衣も鮮血に染まった。朱色が私の視界を乱し、瞳孔を開いたままにしていたせいだろうか、眼から溢れ出る泪のせいで、眼の前が靄がかかった紅い池のように思えた。二人の男は私が思う以上に手慣れた様子で、私の指示通りにその指先を動かし、美雪の開いた頭から零れ出る血液を綺麗に拭き取り、私の額に浮かぶ汗を拭き取った。背中は汗で塗れ、伝うその量は滝のようだった。科学者の私が医者の真似事をする。雑菌処理には気を遣ったが、それでもあまり清潔とは言えない場所で、自らの娘の頭を解体する。気でも違ってしまったのかと良心が叫んだ。手術が終わり、彼女の割れた頭を縫合する。先程まで立ち昇っていた湯気がいつの間にか霧散し、眼の前にまた眠り姫が現れる。ふと、美雪の瞳が開いている事に気付く。心臓を矢で射抜かれたかのような、心が割れるような冷気が身体を覆った。彼女の瞳の前で、開いた掌を振ってみるが、その水晶玉のような瞳は、何の反応を示すこともなく、ただキラキラと瞬きながら空中のどこか一点を、ただ見つめていた。意識が戻ったのかと早合点した私は、流石に落胆を禁じ得なかった。然し、その水晶の瞳を見つめている内に、四年ぶりに見た彼女の瞳の輝きと、彼女の瞳に映っているである景色に思い至り、心の深奥を掴み、揺さぶられる心地がした。頬を一筋の泪が伝っていた。私がその瞳に魅入られている内に、男達は初めに出会った頃と何ら変わる事のないスーツへと早変わりしてみせて、手早く眼の前に飛び散る血で汚れた鉗子やシーツを片付け始めていた。その様子は私の瞳にも映っていたけれど、手伝おうかと声をかけることもなく、静かに美雪に手だけを握りしめていた。彼らは、帰る間際に私の方へと向き直ると、色素の薄いその瞳で、私を見つめ続けた。その時初めて、私は彼らの顔を直視したのかもしれない。異邦人であった。彼らは互いに日本人とは到底言い難い程に薄い髪色と瞳の持ち主であり、彼らの出自が定かではない事に私は初めて思いが至ったが、何か彼らを蔑むであるだとか、疑うであるだとかの悪感情などは生まれる筈もなく、ただただ我が娘に対しての聖誕祭の場に立ち会ってくれた事実に、感謝の念を抱くのであった。

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