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紫陽花の耳輪

1-5

 岡崎公園は、たくさんの人々や、犬や鳩がいて、平和な夏の午後だった。太陽が少しかたむいたのか、かすかに涼しい風がかよった。
「恵さんは、今入院されているんですか?」
「二、三日のことでした。今はもう働いていますわ。手術は東京で行いました。私が付添いました。」
悦子はたんたんとそう語ると、もう一度目元にハンカチをあてた。
「どうしてこんなことに……。」
「どうして。どうしてとおっしゃるの。それはあなたが言うべき言葉じゃないでしょう。」
彼の言葉に、悦子は激して、挑むような目つきになった。むろん、彼にとっても、自分のあやまちであることは理解していた。しかし、それしか言葉が出ないのだった。
「私にとっても孫でしたわ。何の罪もない子だと今なら思えますわ。恵が産むなら産むでかまわなかったんです。でも、恵の潔癖がそれをさせなかったのよ。」
「恵さんの潔癖。」
「女には女の潔癖がありますわ。女の清潔がね。」
女の清潔と聞いて、彼に恵と寝た夜の、美しいからだが思い起こされた。あの美しいからだが、彼との子供を授かって、産むのを拒んだのは、それは心の潔癖からだろうか。彼は、うつむいて、まともに悦子の顔を見ることができなかった。
 悦子は、老いてから彼を罰しにきた恵のように、彼には思えた。
「手術の費用も、何もいりませんわ。ただ、口外しないで。それから、もう娘とは会わないで。それだけです。」
「僕も子供を奪われたようなものでしょう。話すことくらい許されるはずです。」
「あなたは娘の純潔のすべてがほしいのね。卑しい人間ね。」
そう言うと、悦子は立ち上がって、彼に一瞥もくれずに、そのまま劇場の裏手の道へと入ってしまった。
 彼は一人取り残されて、途方にくれるようだった。
 恵の潔癖と聞かされて、その潔癖が二人の子供を殺したのなら、恐るべきことだと思えた。
「恐ろしいことだ。」
彼は一人ごちた。その言葉は、恵にも、彼にも、どちらにもうったえかけていた。
 彼は、自分の口からこぼれた言葉に、おどろくほど侮蔑的な感情が胸にきたすのがわかった。しかし、芯からの言葉ではなく、まだどこまでも他人を見て言うようなのが、彼にはなお恐ろしいことだった。
 堕ちていった女にいっさいの罪がないわけではないけれども、しかし、恐ろしい魔と愛が結びついていることを知っていて、それでも恵を抱いたことで生まれた純粋なものが恐ろしいことが、恐ろしいのだった。
 それから一年越しに、恵から連絡があり、北鎌倉で再会したのだった。
 恵から届いたのは手紙で、謝罪と、会って説明をしたいという言葉が添えられていた。その手紙は、彼に恐ろしい招待状にも思えた。そのまま彼女を信じて会うのはいいけれども、そうすると、一度閉じたふたが開くのではないかと恐れた。何より、北鎌倉は、恵の父の実家だから、悦子もいるのではないかと思えた。彼は、悦子から、娘と会うなと言われていることを思い出した。手紙に書きそえられていたメールアドレスに返信をすると、彼女の指定した日であるならば、しばらく旅行に出かけているから、どちらもいないと、そう返信があった。
 横浜駅から北鎌倉駅まで、二十分ほどである。その日は空模様が悪かった。夏の雨が降り出しそうで、彼は顔をしかめた。そうして、暗い雲のつらなりを見ていると、ミルクホールで話をした、『ツィゴイネルワイゼン』で見た鎌倉の景色が浮かんでくるようだった。どんよりと曇っていて、晴れ間がない。あの死の匂いがするフィルムの光景を思い出していると、釈迦堂切通が思い出された。あの、冥界への入口のような切通は、逆にこの世への産道のようなものなのかもしれないと、奇妙な考えが、彼の頭に渦をまいた。
 そうしているうちに、電車は北鎌倉の駅について、彼は窓ガラス越しに、恵を見たのだった。
 恵は何の変わりもなく、肩の出た白いワンピース姿で、円い肩が美しくきらめいていた。そして、両手には大きな鳥籠を抱えていて、その中に、二羽のマメルリハが鳴いていたのだった。

 北鎌倉の恵の家は、ひとけのないせいか、静かだったが、しかし、外から鳥の鳴き声や、清水の流れる音がした。
 屋敷の中は、骨董のランプで照らされていて、ほの暗いようだった。その中で、二羽の小鳥たちがぴいぴいと鳴き声を立てている。
 洋間に通されると、ソファに座らされて、彼はテーブルの上に置かれた小鳥たちを見つめていた。暗闇の中でも浮かび上がる羽根は、青白い火のようである。
 壁には、古賀春江の『サーカスの景』がかけられていた。
「これはどうしたの?」
淹れたばかりのコーヒーをテーブルに用意する恵に、彼はたずねた。恵は、
「複製画よ。ネットオークションでね、安かったから買ったの。好きだったから。」
そう言うと立ち上がって、そのまま扉を開けて、廊下の奥へと姿を消した。
 部屋に一人きりになって、音が絶えると、急にここが異界のように思えてくる。空想でもてあそんだ釈迦堂切通や、鎌倉文学館の石のトンネルが思い出された。そういえば、明月院への道もまた、植物に囲まれて、ある種のトンネルのようである。
 コーヒーに口をつけていると、恵が戻った。顔を洗ったのか、何の化粧もない素顔で、美しい女の色をしていた。
「ありがとう。」
コーヒーカップを持ち上げて恵にそう言うと、恵はほほえんでみせた。眦がたれて、昔のままである。
「どういたしまして。二人きりになるのは、ほんとうに久しぶり。」
「一年ぶりだね。」
「そうね。あなたは会いに来てくれなかったわ。」
「いじわるだな。君が来るなと言ったんだろう。」
恵は目を伏せて、自分のカップにミルクを注いだ。白色が黒色にとけていって、新しい色が現れた。
「私はあなたに会いたかったわ。」
恵は彼を見据えて、そう言うと、カップに口をつけた。その言葉は彼に意外で、とっさに言葉がつむげないでいると、
「子供を亡くさないと、あなたには会えないと思ったのよ。堕ろしてから、いろいろと悔やんだわ。からっぽになると、愛情まで流れていったみたいで……。」
「君のお母さんが子供が出来たのを知ったのは、堕ろしてからなのかい?」
恵はちいさくうなづいて、
「愛情が流れていったみたいだって言ったでしょう?何か、自分のなかのきれいなものが全部一緒に洗い出されたみたいで……。隠せると思っていたわ。でも、愛のしるしのようなものは残っていて、それがお母さまに知れたのだわ。だから、きっとあの人は、また同じようになるのが怖かったんでしょう。」
そう言って、恵はかるく息をついて、二羽の小鳥を見つめた。
「男の子はまだ小さいでしょう。美少年よ。」
小鳥は二羽ともこうばしい匂いを部屋に満たしていた。ときおり羽根をばたつかせては、たがいの毛をつくろっている。
「仲がいいね。」
「美しい少年と美しい少女だもの。あじさいの花のように清潔だわ。」
そう言って小鳥たちを見つめる恵の目差しは、どこか遠くを見るかのようである。
遠くに、雷の音が聞こえて、そとにさぁっという雨音が聞こえはじめた。
「雨だね。」
「雨ですわね。」
カーテンは閉まっているから、どれほどの雨かわからなかったけれども、もう日も暮れ始めていたから、外に出る用事はなかった。
雷は断続的に鳴りひびいて、ときおり稲光がカーテンを透かして部屋を紫に染めた。
「私、釈迦堂切通に行ったの。」
恵が思い出したようにつぶやいた。
「どうだったの。」
「夏なのに、ひんやりとして寒かったわ。おなかも冷えるようで。あそこには何かいるのかもしれない。」
「恐ろしいことだね。」
「恐ろしいことだわ。」
「なぜ行ってみようと思ったの?」
「あなたが、『ツィゴイネルワイゼン』を勧めてくれたじゃない。あの後映画を見たのよ。意味はよくわからない作品だったけれど……。でも、だからかもしれないわ。あの切通をね、何度も何度も行き来したのよ。」
恵が切通を何度も行き来するさまが彼の目ぶたの裏に浮かぶかのようだった。恵は、ソファに肘をついたまま、彼を見つめ続けた。少女のようで、人形のようである。
「そうすると、おなかの中が動いたような気がしたわ。たぶん私の見たまぼろしね。」
恵の女が動いたのだろうか。彼に、その言葉はつるぎのように心に刺さった。
「ああいう、何か心霊めいた場所はだめね。子供を思い出すようで。」
「思い出してもいいだろう。」
彼が言うと、恵はほほえんだ。やさしくほほがゆるんで、赤らんだ。
「思い出すのは、この子たちを見ていてもそうよ。だって、女の子と、男の子でしょう。どちらが生まれても、可愛かったでしょうね。でも、きっとあの子供は、男の子だったと思うの。」
「それも君の見たまぼろしかい?」
「そうね。でも、あの子がここにいる小鳥の男の子だと思ったら、素敵でしょう?そうして、あなたがくれた女の子は未来の花嫁ね。」
そういう恵が、二羽の卵を棄てるという奇形な罪を犯すのは、またひどく恐ろしい女の潔癖のように、彼には思えた。
「小さいのよ。この男の子は二八グラムですもの。」
 恵はつかれたのか、そう言ってあくびをすると、そのままソファで横になって眠ってしまった。彼は、目頭をもんで、小鳥たちを見つめた。小鳥たちも、ねむたそうにしたままである。
 ときおり、雷がひびいた。しかし、恵は起きなかった。そして、外からの鳥たちの声もやんだ。雨音が、やさしい音に変わっていた。
 立ち上がって、壁にかけられた、『サーカスの景』を見つめた。複製画といっていたが、実に丁寧な仕事で、ほんとうのようである。彼は、静かな絵の中に、吸い込まれるかのようだった。
 ソファに戻ると、どっと疲れが出た。妻には、神奈川に出張だと言っていたが、今頃どうしているかと思えた。一年前に、悪の魔に魅入られて、罪を犯したのに、今もまた同じようなことをしている。
 目の前に眠る聖処女だった娘を犯して、娘と子供の魂を殺した自分に、彼は恐怖よりも哀しみを感じていた。
「恐ろしいことだね。」
そう言うと、彼は目の前にかかる『サーカスの景』を見つめた。静かな絵だった。死ぬ間際なのに、静かな絵だった。
 死ぬ間際には、音というものが消えていくものなのだろうか。この、青い背景に音がすべて吸い込まれたかのような朝とも夜ともつかないサーカスは、古賀春江の死の光景だろうか。虎の色が月の色のように思えて、それならば、この黄色い光は月の光であろうか。朝ならば、陽の光にも思えた。見ているうちに、そこに描かれていない満月があった。
 芸術家の死を思った。芸術家は、死ぬときには、皆がこのような冷たい音の中にいるのだろうか。
 目が覚めると、朝だった。小降りになっていて、細い雨のようで、さぁっという音がまだ聞こえていた。鳥たちは眠っているようだった。ちかづいてみると、眠っていても、美しい匂いをしていた。
 ふと、彼はその籠の中に、小さな白い卵を見た。円錐のようなかたちで、かすかにぬれていた。この卵を、恵が見つけたのならば、そっと取って棄てられるのだろうか。恐ろしいことだった。
 部屋に恵はいなかった。どこにいったのか、屋敷の中をめぐっても、恵の姿はない。
 ふいに、ピアノの音のように、高い音が聞こえた。
 何の音だろうか。彼にはわからなかった。しかし、その音がする方へ、彼は導かれるように屋敷を出て、歩いて行った。歩きながら、ピアノの音ではなかったような気がした。
 音は、明月院の方から聞こえてきたようだった。
 明月院に入ると、また音が聞こえた。
 青い音だった。
 その青い音以外、清水が流れる音と、そして小雨の音だけだった。
 明月院の姫あじさいは、朝の深い青色だった。雨のせいかもしれなかった。
 また青い音が聞こえた。あじさいがからだにふれて鳴る音だった。
 彼の目に、青い色にうかぶ、恵のからだが見えた。悪の魔に魅入られて、水の中にいた。
 彼は水の中に入り、恵を抱き起こした。白い腕がだらりとたれて、目だけがきらきらと輝いていた。
 ふっくりとした美しい赤い耳たぶに、あじさいの青い花びらが落ちて耳輪になった。



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