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機械仕掛けのボレロ③


 そうして、パーティーの夜にロイは初めて屋敷に踏み入れることになったのだった。ファームの中は広大だが、大抵の場所は作業があるのならば入ることは出来る。しかし、屋敷だけは別である。屋敷には、山のような置かれた御父様のコレクションがあると言われていた。改めて近くで見ると、マヤ文明の太陽遺跡を模したブロックで、屋敷は構成されていた。それはアラベスクのように無限に広がる幾何学的な紋様で、ロイは本で見た、二十世紀のアメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトを思い出していた。そうして、ロイは扉の前に立つ、スーツ姿の男に(もちろん、複製人間であろう)、銀色のインビテーションカードを手渡した。男は何も言わずに、じっとロイの顔を見つめた。ロイがその目差しを見つめ返しても、男は何も言わない。ただ、ゆっくりとかぶりを振った。
「これはインビテーション・カードだ。俺はこのカードをもらったんだ。」
ロイは、強い語気で男にそう言った。男は微かに舌を鳴らして、
「まだパーティーまで三十分もある。入れるわけにはいかない。」
男はそう言うと、そっぽを向いてしまった。しかし、急に男の胸の中にある何か(それは、恐らくは携帯通信機だろう)が鳴って、男は持ち場を離れてしまった。そうすると、急に静寂が訪れた。ファームの微か後方からは夕闇が忍んできていて、遠く、宿舎からは火の手が上がっているが、あれは薄雲を照らす暖の灯りだろう。そうして、薄く伸ばされた空は濃い青色に染まっていって、夜が落ちようとしていた。ロイは、男のいなくなった扉を手で押してみた。微かに、反応があった。そうして、ゆっくりと振り返ると、男がいないかどうかを確認する。ファームから嬌声が聞こえてくる気がしたが、幻聴だろう。ロイは幻の声を押しやって、そのまま屋敷の中に足を踏み入れた。
 多くの人が立ち働いているのが見えた。そうして、多くの人が、正装か、何か役割でもあるのだろう、作業着を着ていて、忙しない。ロイは、誰と話すこともなく、ただ一人、初めて見る、屋敷の中をそぞろ歩いた。多くの彫刻があって、多くの絵画がある。そのどれもが、ロイが本で目にしたものばかりで、彼は好奇心で、心がいっぱいになった。そうして、彼は、多くの芸術に導かれるように、そのまま歩みを止めずに、屋敷の廊下を進んでいく。
 そうして歩いているうちに、今度は旋律が彼の耳に触れた。何日も前から、毎夜響いてくる、オーケストラの楽の音そのままである。今日は、プロコフィエフの、『ロミオとジュリエット』だった。ロイは好奇の心で、そのまま音楽が流れてくる場所へと足を踏み入れた。そうすると、何人ものレオタードを着た幼い娘たちが、レッスンバーでアラベスクを形作っている。そうして、その部屋は板張りのレッスン場で、壁一面が白い。窓外はもう夕闇で、冷たい冬の青が白色の間から覗いている。白色と青色が並んでいて、一つの絵画のように思えた。そうして、その中で、若い娘が一人いるのだ。円い線を描いていて、やわらかい。ふいに、彼女が振り向くと、それはどうやら、ロイが見惚れていた、あのフタナリヒラだった。彼女(彼)はきっと眦を上げて、そうして、碧い目の中でバレエを舞った。青と碧が合わせ鏡のようで、その中に、彼女(彼)は閉じ込められている。ロイは、フタナリヒラが舞うのをしばらく見ていた。シャッターを切るように、時折瞬くと、めくるめく碧と白が乱反射した。
 そうしていると、周りの少女たちは踊りを止めて、順々にロイにお辞儀をしては、部屋から出て行った。最後の一人が、
「先生、さようなら。」
その声に頷くと、フタナリヒラは踊りを止めた。男物のレオタードで、女の徴も、男の徴も伺えた。
「随分と碧い目ね。」
「あの子たちを教えているのか?」
ロイが尋ねると、彼女(彼)は呆気にとられたように動きを止めて、そうして、ぱっと笑った。本当に、ぱっと笑った。
「そう。みんな、複製人間だよ。」
「人間と変わらない。」
「あなたも変わらないよ。」
フタナリヒラはバーを後ろ手に立って、ロイを見つめた。ロイの碧い目とは違う、黒い目である。山猫のような眦で、山猫のバレエだと思った。
「随分洒落た格好。」
「今日のパーティーに呼ばれたんだ。」
「私はあそこで踊りを披露するんだ。」
「『ロミオとジュリエット』?」
フタナリヒラは目を細めて、ロイを睨むように見た。
「よく識ってる。」
「楽譜を呼んだ。」
「音楽家気取り?」
「いや。俺はダンスも音楽もわからん。でも、あんたが綺麗なのはわかる。」
ロイはそう言うと、窓枠に、鳥籠か掛けられいているに気付いて、それに近づいて見た。小鳥が二羽、寄り添って眠っている。ロイは瞬きをした。その碧い火に起こされて、二羽の小鳥は目を開いた。一羽は濃い青、もう一羽は、白い火のような青だった。
「マメルリハ。小さいでしょう。」
「番か?」
「男の子と女の子。白い青色が男の子。」
そうして、フタナリヒラはレオタードを脱いで、乳房を露わにした。ロイは、驚いて、しかし、目が離せない。
 フタナリヒラはタオルを手にすると、それで汗を拭き始めた。
「ねぇ、もうすぐパーティーが始まる。行かなくていいの?」
ロイは思い出したように、ああと呟いて、頷いた。そうして、
「なぁ、あんた、御父様と一緒に番組に出ていたフタナリヒラだろう?」
フタナリヒラは頷いた。かすかに眦が緩んで、あのモニターで見ていたのと同じ目差しだった。
「恵。私の名前。」
「ロイだ。日本人の名前だな。」
「あなたはどこにでもいる名前ね。」
恵はかすかにほほ笑んだ。くるりと背を向けると、尻が剥き出しになる。柔らかい円みを帯びていて、それは、教典に描かれたヘルマフロディトスを想起させる。いや、実際に、彼女(彼)はヘルマフロディトスだ。
 そうして、彼女(彼)がレッスン場の奥にある鏡に手をかけると、それは開いて、たちまちにクローゼットになった。中には、いくつものドレスが並んで、甘い匂いがした。ロイに、それは女の匂いに思えた。ハイネを思い出した。
「全部君の?」
「女に成るときの衣装はここに。あそこには、男になるために衣装が。」
恵は隣の鏡を指ささした。そうして、少し考える素振りをしてみせて、
「やっぱり、今日は男の衣装ね。」
そうして、クローゼットからタキシードをいくつか見繕って、男物のシャツに袖を通した。恵が女寄りも女らしい素振りなのは、女寄りのフタナリヒラであることに加えて、男でもあるからかもしれない。しかし、タキシードに袖を通すと、みるみると脣が潤う。
 ロイは、しばらくの間、夢にいるかのようで、心が浮つくようだった。実際の彼女(彼)は、モニターで見るよりも、幾倍も透過されたように美しい。それでいて、肉体に神聖があった。その神聖は、御父様が造り出したものである。紛い物の、ロイにはない、神聖だった。
 ロイの視線に気付いて、恵は微かにほほ笑むと、そっぽを向いた。もう、見られ慣れているのだろう。今の彼(彼女)が歩けば、多くの女が意識を向けるだろう。美しい、ロイよりも美しい男だった。しかし、髪をかき上げると、もう彼女(彼)になって、牡であるロイを、雄々しく、猛々しくさせる。恵の牡の形は、幽かの牡で、ギリシャ彫刻のようなロイとは対象である。彼は、牡の牝の交わりの夢、それから、牡と牡の交わりの夢が、めくるめく脳裡に流れた。
「君が呼ばれたのはどうして?」
服装が替わると、もうたちまち男になっている。幼い前髪の頃のようで、それがロイにただただ尊きものに思えた。
「なんでだろうな。俺はただの戦闘兵だ。」
「君は護衛兵?月に付き添いに来るんだね。」
「ああ。御父様とあんたを守るためにね。たくさんの護衛兵がつく。何十人も。」
「シャトルは大所帯になるね。」
ロイは頷いた。何人かの優秀な戦闘兵、それにはもちろんロイも含まれるが(彼にはそれが誇りでもある)、その幾人かにはあの十字架が割り当てられる。死の舞踏を踊る、殺しの剣。
「月には美しい女性がいると言うね。」
「かぐや姫?なよたけの。」
「詳しいね。うちのファームにいる連中は誰も識らない。」
「本を読むのが好きだからな。」
「それから嫦娥。」
「嫦娥奔月?」
「私の話し相手になってくれよ。」
ロイの答えに恵は破顔して、
「嫦娥のように美しい女性が月にいる。それを娶るのが男の私の夢だね。」
「女のあんたの夢は?」
「猛々しいセックス。それから、子供を抱く夢。」
恵は天を見上げた。天上は低い。小さなレッスン場だ。外が俄に騒がしくなって、窓外をちらちらと焔が駆けるのが見えた。
「この時代に馬車で来る連中がいる。」
「馬は高いんだろう?俺も一度しか乗ったことがない。ファームには何頭かしかいない。」
「動物は全てが高い。逆に、人間の価値は暴落して、それを止めたのが複製人間。」
「あんたは俺とは違う。」
「私も複製人間だよ。フタナリヒラなんて、この世には何百人もいる。」
「それでも俺たちよりは何万倍も価値がある。あんたは天使だ。俺たちはあんたを守るためにいるんだ。」
ロイの言葉に、恵は幽かに笑って、
「たくさん本を読んでいるわりには馬鹿ね。物識りなだけ?」
「今は詩を詠むのが好きだ。」
「詩?ポエム?ポエジー。」
何度も、呟くように、恵は片言を呟く。そうして、その幽かに開いた脣をふさぐと、ロイは窓外に移る碧い光に、自分の目色も含まれていることを知る。硝子に手をつきながら、バレエのせいで身体がやわらかいのか、しかし、男性的でもある恵は、フタナリヒラ特有の二つの徴のせいで、ロイを惑わした。それでも、ロイは何も知らないからか、ただ求められるままに、恵の奇蹟を、その五感で学んだ。恵は、ロイの身体に彫られた星座を指先で遊んで、瞬くように、その中に一つの形を見出した。
「白薔薇。」
呟いた恵が白薔薇だと、ロイには思えた。

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