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稚児桜③

 
 其の参 『弓術場』

 
 日新館で教えのあった弓術は三流あり、一つは日置流道雪派、一つは日置豊秀流、そして一つは日置流だったが、此処の諸生のほとんどは、道雪派であり、君もそれの例外ではない。君は、文武の中でも槍術、剣術よりも、弓術に長けていた。そうして、君は友人の和助と共に、師範について弓術を学んだ。日新館は西北側に弓術場が置かれ、東側より日置流、道雪派、豊秀流となっており、無論、君も和助も道雪派である。これは三つの流派はそれぞれに令状が厳しく敷かれていて、それは日新館よりも以前のことからであり、大変に歴史も深い。道雪派には他に試業があり、合格しなければ本意には進めない。四寸引きの弓を使い、一尺四寸ほどの垂的に、百矢をもって、中箭が八分で合格となる。この試業において、基本的には師範の見立てでこの者はと思う者のみが受けられるものだった。であるからして、自信があろうとなかろうと、まぁ、全ては客観的に評価されるべきことである。君は、直ぐと試業を受けるようにと、言われた。
「百夜あって、百矢を箭てる。」
和助が冗談を言っても、それは幻想などではない。君は、百夜をもっても、百矢を箭てた。恐ろしい才覚で、十三だった。
「御前は腕があるな。石山の……。」
「血筋ではござりませぬが。」
「血統だけではないのかもしれぬな。育ちもある。天稟も。」
君に、その言葉は誉れ高きものだが、然し、安興の追鳥狩で、数多の鳥獣が射抜かれて、その鳴き声を、真似てみせる祖父に、幽かな稚気のようなものを抱いたことを思い出した。そうして、矢を番える中途、君の耳に、またその鳴き声が聞こえた。矢は外れて、あーあと言う、和助の声が辺りに漂った。確か、白い鷹を射抜いたと、そのようなことを言っていた。その白い鷹の声を真似するのが、安興の下らぬ興だった。
 次に番えた矢は、垂的を見事に射抜いた。音が晴れた。そうして、雨が蕭蕭と降り始める。
「今日はここまでだな。」
師範が独りごちた。君と和助は御辞儀をして、最後の矢を番えた。
「御前ら、勝負をしてみたらどうだ?」
「虎と?御免です。先生、俺に勝ち目はないでしょうや。」
「強者と戦わなければ、いつまでも強くなれないだろう。」
「相手が悪すぎます。虎となら、剣でならいつでも勝てる。」
君は肩をすくめた。確かに、和助は剣に酒に、天稟があった。
「諏訪の社の祭りでは引かないのか?」
君が尋ねると、
「とんでもない数のやつらが集まる。あれは神楽見物目当てよ。それが終わったら、あの場所にいる意味はないね。」
和助はそう言いながら、矢を幾本も握ると、弓術場から出ていった。諏訪の社には毎年大祭日に、各流派の射手も交えて、四百を超える者たちが、弓を射る。和助の言葉の通りに、祭りは終わり、ただただ各流派の提灯と篝火だけが、燭の海のようになって赤々と射手を染める。その光景を、音の消えた、矢の箭たる音だけが、君の目と耳に浮かぶ。そうして、あの白い鷹の、鬨の声も。
 雨勢は勢いを弱めて、然し、確かな音だった。日新館、夜半、君の部屋に悪友が集う。和助は酒を飲みながら、大日祭のことを繰り返し話していた。そうして、その話の幾つかが、つらつらと聯想の連なりで、何時しか君の屋敷からほど近い、郭内本一之丁の御用屋敷に纏わることへと飛んでいた。曰く、遊女の霊が出る、曰く、鬼火に祟られるなど、実しやかな噂が囁かれる場所である。昼日中でも、御用屋敷は重い空気を倦んでいて、人気もない。其処に行く勇気はあるものはおるかと、和助は酔に紛れて言うのである。二歳下の捨丸は、あんなところ、怖くもないと、そう嘯いた。
「それならよ、度胸試しといこかい。」
「えっ。」
捨丸は後悔していたが、もう遅い。和助は畳の縁を脇差で切り取ると、即席の籤(くじ)を作った。
「これでよ、籤引きだ。運が悪けりゃ、度胸試しだ。」
和助の悪酔いだった。然し、もう後には退けまいと、捨丸は同意して、他の什の者たちも同意した。その日は、清玄はもう帰っていて、君が什長代理であったが、君もまた面白いと、その籤引きを了承した。
「俺、運だけはいいのよ。」
和助は大きな目を瞬かせながら、外れ籤を皆に見せた。反対に、切れ長の目が一層に涼しく、君はため息をついた。
「行ってくる。」
「的と違って、御前は外ればかりだね。」
和助は囃し立てるように君の背中に声をかける。さりとて、君には特に大きな恐怖などはない。その御用屋敷も、確かに不気味ではあるけれども、別段廃墟のようなものではない。鬼火など、もう十三の君には寝物語にもならない。雨は止んでおらず、深更で、人気はまるでない。君が傘に灯火を掲げて、まるで自分こそが鬼火のようだと自嘲すると、雨音が御用屋敷の屋根を叩き、音が俄に変わった。そうして、はっと、白い火があるのが見えた。白い日とも、君には見えた。その日は、白い鷹だった。それは、幼き頃に見た、『お話の什』の折に姿を見せた白い鷹にも思えた。雪のように白い羽に包まれて、鷹はまた物言わずに君を見ていた。不可思議なことに君には思えたが、魔には思えなかった。聖だと思える。そうして、雨音に紛れて幽かにその白い鷹は鳴いていて、ようよう見ると、右側の翼に血が滲み出ている。
「動いてくれるなよ。」
君は静かに白い鷹ににじり寄り、その身体に触れると、思わぬ軽さだった。白い日を抱くようで、紅点が目に留まる。矢じりが穿った傷跡が見える。
「御仏を射抜くか。」
そう独りごつと、暫くの間、雨音を聞きながら鷹を温めてやる。雨音は、詩を朗するように、優しいように、君に聞こえた。そうして、暫く経つと、最早飛べぬその白い鷹を抱いて、そのまま御用屋敷から離れようとする。君は、あっと思い出して、小太刀を取り出すと、一閃、杭に傷をつけた。これを証拠として、什の者たちにここに来たと話そうと思い、また歩こうとすると、はっと、白い鷹は大きな翼を広げて君の腕から抜け出すと、途端に雪のように白く紅い天女になって、そのまま雨空に浮かぶ月へと消えていった。
 君に、はたと夢か現か判然できぬけれども、然し、これが御用屋敷の為せる業なのかと独り合点した。然し、今見た夢幻は和助にも黙っていようと、寮へと向かった。道中、先程の夢幻を忘れ得ぬように、屋敷の軒先に坐り、火を灯した油紙に雨水を墨に見立てて指先で物語を草した。
 寮に戻る頃には雨は止んでいて、襖を開けた君の顔を見て、和助が莞爾なく笑った。

キャラクターイラストレーション しんいし 智歩

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