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紫陽花の耳輪

1-1

 ガラスをへだてて聞こえてくるのは、修学旅行生たちの声だった。どの声も一様にはしゃいでいるようで、純粋の声ばかりである。
 いろいろな制服が入り交じっていて、博覧会だった。
 彼は隣に座る恵を見つめた。恵はかすかにうとうととした目をしていて、眦がたれている。両手には大きな鳥籠を抱えていて、中には青い鳥が二羽鳴いていた。どちらもマメルリハだった。
「すごい人出だね。みんな大仏を見に行くのかな。」
「どうかしら。でも、人が多すぎるのもいやなものね。特に今は外国人が増えたでしょう。」
恵の言うように、数えきれないほどの外国人がいた。中国の団体だろうか、ガラスごしに、今度は中国語が聞こえては消えた。
 車は遅々として進まない。彼はいらいらがつのってきて、
「どれくらいかかりそうでしょうか?」
「歩いた方が早いかもしれませんね。」
そう答えられて、二人はタクシーをおりた。運転手には一時間ほど駅で時間をつぶしてきてくれと頼んだ。
 恵は鳥籠を助手席において、
「ごめんなさいね。少しの間、待っていてくださいね。」
タクシーの運転手に言うと、鳥たちにも挨拶をした。
 彼が恵と再会したときから、鳥たちは彼女の腕の中にいた。白骨であみ組まれたような鳥籠だった。通販で買ったもので、ひとつひとつを組み立てたそうである。その骨の白さに、彼は冷たいものを感じた。
 小町通りは人であふれかえっていた。流れるような人波をさけて、小道に入ると、とたんに人の流れがとぎれて、一年前の景色がよみがえるようだった。彼はそのまま大股で進むと、電信柱にはられた看板にそって、さらに小道に入った。
 黒いログハウスが現れた。ミルクホールだった。彼は手をのばして、ミルクホールの玄関を開けた。
「ここは変わらないね。」
彼は、石膏の胸像がおかれた窓ぎわの席に腰をおろして、つぶやくように言った。
「一年ぶりだものね。でも、この店はもう何十年も変わらないのよ。」
壁にかけられた竹久夢二の絵が、彼の目に入った。恵の言うように、この場所はもう何十年も時をとめているようだ。夢二の描く女性は、両手にたくさんの果物がもられた皿を抱えていて、鳥籠を抱えて北鎌倉の駅に現れた恵を思い出した。
 店員を呼んで、コーヒーとハヤシライスを頼んだ。恵もおなじものを注文した。雑音からきりはなされて、穴蔵にこもったかのようだ。客も、二人をのぞいて一組だけである。
 恵は、ランプにまきつけられたブロンズ製の薔薇の飾りを見つめながら、
「ここは『ツィゴイネルワイゼン』のロケ地だって、あなたは自慢げに言っていたわね。」
その言葉に、原田芳雄と藤田敏八ががい骨について語るシーンを思い出した。死んだあと、そのがい骨を僕の部屋にきれいにかざっておいておいてやるよ、という台詞だった。そう思うと、恵が持っていた鳥籠は、がい骨で組まれていたようなことを思い出した。
 恵は、はこばれてきたアイスコーヒーのグラスに脣をつけた。口紅がかすかにとけた。そこからのぞくほんとうの脣はうすく茜色で、恵の純潔を思わせた。しかし、それはもう昔の話だった。
 一年ぶりの鎌倉だった。恵の生家は北鎌倉にあって、彼は彼女にひさしぶりに呼び出されて、ここに来たのだった。着いてそうそうに、久しぶりにミルクホールのハヤシライスが食べたいと、彼が申し出た。二人の間にあったことを、彼に切り出すのが難しかったからかもしれなかった。
 一年ぶりにあった恵は、記憶となんのへだてもないままで、山猫を思わせるような娘だった。年はもう二十七になるが、昨年まで純潔だった。笑うたびに眦がゆるんで、さかさまの三日月になった。
「あなたがくれた小鳥がもう一才よ。」
「鳥は二十年は生きるからね。長い連れ添いだね。でも、牝だけだったろう。」
「お父さまにお願いしたのよ。男の子がほしいって。女の子だけならさみしいでしょう。」
彼はアイスコーヒーをすすった。恵の目ぶたはかすかに赤くなっていた。
「あの二羽は仲がいいのかい?」
「とても。もう卵を産んだわ。」
「子供はいないようだが。」
「生まれる前に棄てるのよ。そうしないと、どんどん増えちゃうでしょう。あの子たちが寝ているあいだを見計らってね。」
恵は仕方がないというように目を細めた。その言葉に、彼はぎょっとして、心をつらぬかれるようだったが、うなづいて、
「それにしても、ずいぶんと美しい青色になったね。僕があげたときよりもずっと……。」
「ええ。だから、あなたに見せてあげたいと思ったの。だから、鳥籠を持ってきたの。二羽そろうと、とてもきれいですもの。」
恵はそう言うとほほえんで、ほほがゆるんだ。彼はまたうなづいた。
「びっくりしたよ。まさか鳥籠を抱えているなんて思わなかったからね。あとで家によらせてもらおうと思っていたから、そのときでよかったのに。」
そう言うと、恵は目を細めて、
「一羽が二羽になっているのを見て、あなたはおどろいたでしょう?おどろく顔が、早く見たかったの。」
いたずらそうに言った。彼はまたうなづいた。恵は、最後に見たときと、なにも変わりがないように見えた。
 外に出ると、かすかに雨の匂いがした。そう思うと、すぐにふりだした。しかし、俄雨のようで、すぐにやみそうである。修学旅行生たちは、大きな声を立てて雨から逃げていた。
 恵はスマートフォンを取りだして、運転手に電話をかけた。ミルクホールの玄関口の軒下にいると、すぐにタクシーがやって来て、ふたりは雨からひなんした。
「ここから明月院まではどれくらいかかるの?」
「三十分ほどですかね。」
運転手はこたえながら、車を発進させた。雨粒が窓をすべっていくのを見つめていると、ぴよぴよと、小鳥たちの鳴き声が聞こえた。のぞいてみると、やはり、青く美しい鳥たちだった。一羽はかすかに濃い灰色が交じっていて、ぬれたように沈んだ青である。もう一羽は、胸がうっすらと青白く、ところどころに白色がある。ソーダ水のようだった。
「男の子と女の子か。」
彼が言うと、恵はうなづいた。小鳥たちはおたがいを呼び合うように、小さな鳴き声をあげている。自分たちの卵が、寝ているあいだに棄てられているのを知らないようで、夫婦だけの愛が、籠の中にあるようである。
 明月院には、運転手の言葉どおり、三十分足らずで着いた。車をおりるとき、恵は、折りたたんでいた紺色の布を、ハンドバッグから取り出すと、さっと鳥籠にかけてやった。小鳥たちはとたんに闇につつまれて、突然の夜に、さぞおどろいているのではないかと、彼には思えた。
「君の家は、もうすぐそこだろう。おいてきても、いいんじゃないか。」
「ええ。でも、今日は誰もいないって言ったでしょう?すぐちかくだし、待っていていただくわ。あとでまた鳥籠をとりに戻りますから。」
タクシーを待たせて、ふたりで、明月院までの道を歩いた。
 北鎌倉はずいぶんひとけが少なくなって、緑が濃いように思えた。緩い勾配になっていて、その両脇を、緑がえんえんと茂っている。瀟洒な屋敷が立ち並ぶ住宅街も緑の中にあって、水音が聞こえていた。小川の音だった。
 姫あじさいが見頃の六月半ばは、長い行列ができるというが、五月の終わりの、夕暮れ時は、人はまばらだった。しかし、もういくつかのあじさいが、見事な青色を咲かせていた。水音と青色がかさなって、あじさいの音のようであった。恵はそっとあじさいに手をのばして、ゆびさきで花びらにふれた。
「花びらの色が、マメルリハの羽の色みたいでしょう。」
言われてみて、たしかにあの小鳥たちにとても似ていた。花と鳥は、どちらも健やかに生い立った美しいからだをしていた。
「でもいくらかは淡いね。白色がおおいのかな。それとも青がすくないのかな。」
彼も手をのばして花びらにふれた。
「これからもっと濃くなるのよ。青色が深くなって、どこまでも染まるの。」
 青いあじさいのとなりに、清潔な美しさがひらいたように、恵のほほと脣があざやかだった。
 雨にふられたせいか、明月院の緑は、周りの山よりも濃いように思えた。鶯や、なにか他の鳥たちの鳴き声が聞こえて、人の声は消えていた。タクシーで待たせている小鳥たちの声も聞こえるようだった。彼がそう言うと、
「あの子たちをここに連れてきたら、見つけるのが大変ですわ。」
恵はそう言って、いたずらそうにほほえんだ。
 道なりに歩いていくと、青と白のあじさいを数房抱いた地蔵が見えた。地蔵の腕の中は椀型になっていて、そこにためられた水の中に、花が浮かんでいる。ちかづいて、その花にふれると、花はおよぐように水の中に揺れた。
 雨はやんでいても、しかし川音はえんえんと続いていた。
 境内には、兎が幾羽か飼われていて、その小屋にちかづくと、恵はしゃがみこんで兎を見つめた。月の庭と書かれていて、彼はなるほどと思った。その言葉を読んで、この庭園全体を見渡すと、ここが月の宮かどこかのように思えてくる。
 彼と恵と、あじさいの青色だけがここにあった。
「動物たちの小屋があるのね。」
そう言って、恵は小さな鳥小屋を指さした。見ると、「花子」や、「浩子」と書かれた名札がついた木の鳥小屋がいくつもおかれていて、ときおりそこに雀がとまるのである。餌付けをされているのだろうか。恵はそれを見てほほえんで、楽しそうにスマートフォンで写真を撮っていた。
 明月院から出ると、院の前の道路で待っていたタクシーの運転手に礼を言い、恵は客席に身体を入れると、ふりかえって、彼を手招きした。彼が顔をちかづけると、嬉しそうな笑いを浮かべて、鳥籠にかけていた布をはらりと取った。そうすると、こうばしい上品な香りがたち上った。恵はほほえんで、
「いい匂いでしょう。この子たちの匂い。とても美しい匂いがするのよ。」
 会ったときはほかの匂いにけされていたのか、たしかに良い香りが車内にあった。彼は、自分がこの小鳥を贈った時には、この匂いに気付かなかったのだった。そして、この匂いに、彼は恵の純潔を奪った夜を思い出した。この美しい匂いは、あの夜の恵のからだからも匂っていたような気がした。彼はその美しい匂いと、化粧の匂いとが交じるのを、娘の匂いだと感じた。恵の清潔の匂いは、鳥と花のように、かぐわしい匂いでもあった。

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