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片しぐれ

1-7

 人形が仕上がるにつれて、計の仕事の量は増えていって、日々に忙殺されるばかりだった。
 計は、下鴨の寺に何度か訪れて、打合せを重ねながら、その会場に置く人形を併せて持ち込んでは、レイアウト作りに余念がなかった。
 屋敷には、計の選んだ人形のいくつか、美登利、薫、春琴に加えて、細雪の雪子や、雪国の葉子も加えられて、日本文学の部屋になっていった。それらは全て、公武と、景の愛する物語の女性たちである。小道具も揃えて、それは小さな箱庭のような、雛壇のような、美しい小世界がいくつもつらなるようであった。
 虫の音が聞こえて、いくつもの木枠で出来た、縦横三寸はありそうな大きな虫籠を、和尚が部屋にいくつも運んできた。その数は、五つにも及び、とたんに鈴虫寺のように、金堂の中が虫の音に溢れた。
「美しい音色ですね。」
計が作業の手を止めて、虫籠に近づくと、中にはおびただしいほどの鈴虫が、思い思いの場所で過ごしている。
「どんどん増えそうですね。この小さな世界で、繁殖を繰り返しているんですね。」
「よく、血族結婚が重なると、虫の音も悪くなると言いましてね。小説で、川端康成も書いていますが……。古都だったかな。それもここが舞台ですね。だから、血を入れ替えるためか、色々と外から血を運んでくるんですな。」
「虫のお見合いみたいなものですね。」
「ええ。そうして出来た虫は、美しい音色を聞かせてくれるんですよ。」
計は、ふいに、この虫籠が、自分の屋敷のようなまぼろしが、目ぶたに浮かぶように思えた。景も、この虫と同じように、血が遠いものと結婚することが、幸福であろう。しかし、景は子供を成すことができない。それは、自身こそ美しいものの、美しいものを産めない、人形の性であろうが、それならば、その景と共に、美しい人形を自ら拵えればいいのではないか、そうすることで、公武が一人で、あるいは百子と二人で拵えた自分たちと重なるのではないかと、奇怪な空想と欲望が鎌首をもたげてくる。そう考えるたびごとに、おぞましいことだと、自分の考えが狂気に近しい悪魔的なものだと思えてきて、計は、この虫籠全てに火を放って、焼き殺してやろうかという悪意に囚われる。
 寺の縁側に出ると、笹岡が煙草を吸っていて、やはり片手には、中原淳一の、黄色い燧火箱を手にしていた。
「寺で煙草を吸うのはよくないことですね。」
「そうですね。でも、坊主なんてみんな悪いことばかりやっていますでしょう。肉を喰らって、女を抱くんでしょう。」
笹岡のその言葉に、計は、一休禅師の書いた、「仏界入易、魔界入難」の揮毫を思い出して、かすかに開いた襖から、床の間に懸けられた軸を見つめた。
「あの揮毫ですか。」
「恐ろしいことに、あの言葉はほんとうだと思いますよ。一休禅師も、後年は森女と乱れた生活を送っていて、坊主に女は厳禁でしたけれども、その戒律を破ってね。芸術家ー……、計さんは芸術に携わっていますから、それを一等感じることでしょうね。真の芸術を極めるには、悪の道や、不浄の世界にまで頭まで入り込まないことにはできんでしょう。」
笹岡はほほ笑んで、煙草の吸い殻を境内に投げ捨てた。
「これも罰当たりですが、こういう行いから見えるものもありましょうな。」
笹岡はそう言うと、そのまま燧火箱を計の掌に渡して、金堂の中に入ってしまった。
 計は、笹岡の言葉を反芻して、景を思った。笹岡は、計の考えていることの全てを知っているのではないかと思えた。計の心の全てを知っていて、素知らぬふりをしてみては、計をあざ笑っているのではなかろうか。
 計は、かぶりを振って、燧火箱を握りつぶすと、そのまま、屋敷に戻り、応接間に置いたままの、服部からの茶封筒を手にした。そして、その書類に書かれている、御牧という男に宛てて、文を認めた。その中に、今日笹岡に渡された、寺での人形展示の招待券を入れて封をすると、急ぎ足で、屋敷の裏手にある郵便ポストへとそれを放った。
 離れに戻ると、景はどうやら小鳥を放しっぱなしにして寝ていたようで、すやすやと、浴衣気のまま、太腿を差し出して寝ていた。計は、毛布を取り出して、景にかけてやると、部屋で鎮座する、景の似姿を象った、二寸ほどの人形を見つめた。人形は、景に似ているけれども、記憶の中の百子のように、どこか歪に、景自身とは違っている。しかし、美しい陶器のような肌色と、薔薇色の脣は景の持つ宝石のそのままである。計は、人形のほほを優しく撫でると、ふいに、おそろしいほどの哀しみに包まれて、遠くに鈴虫の音色が、まぼろしのごとく聞こえた。裸のままの人形は、景のすべてを形どられていて、計はすぐにその小さな身体に、着物をきつけてやると、真っ白な薔薇の花束になった。桃色がところどころにあって、体温のようにきらめいている。
 景に目をやると、景は薄目を開けて、ほほ笑んでいる。
「持っていきますのね。」
「来週から始まるからね。他の人形は、もう準備万端だよ。出番を待っているよ。」
「たくさんの物語の少女たちね。じゃあ、私だけ仲間はずれね。人形の中にいても、仲間はずれね。」
「それは嬉しいことだろうね。」
計がそう言うと、景はほほ笑んで、
「展示会には必ず行きますわ。」
「君が家から出るのは、とんでもないことのように思えるね。」
「少し籠もりすぎましたわ。それから、自分のことをかぐや姫かなにかと勘違いしていたみたいね。たくさんの殿方に、いやな思いをさせましたから……。」
その景の口ぶりに、何か、身を固める前の女の言葉のようだと思い、突然の変わりように、計は、
「人形のモデルの君が来れば、話題になるし、お客さんも喜ぶだろうね。」
素知らぬ風にそう言うと、景はほほ笑んで、そのまままた眠ってしまった。計は、景に触れる事もなく、人形を抱きかかえると、そのまま離れを出て行った。

 展示会の初日、秋晴れで、紅葉が青い空に赤々と浮かんでいた。その光景を境内で見つめながら、計は、人形展示会に訪れた物好きな人々の顔を見つめていた。単純に、その人形の出来に感嘆の声を上げて、計に賛美を送るものもいれば、人形を買い取りたいと申し出る好事家もいたが、しかし、計が一番おどろいたのは、公武の人形たちよりも、はるかに計の作った景に皆の注目が集まったことである。
 景の人形は、一休禅師の揮毫した、「仏界入易、魔界入難」の軸の下に置かれていて、異彩を放っていた。それは、物語の中の少女ではなく、ほんとうの女性を模したものだという触れ込みもあってのことだが、その美しさは、床の間に飾られた花のように、衆目に愛でられた。
 そして、客の一人である御牧は、その人形を熱心に見つめていた。最初、御牧が寺に姿を現したとき、計には、それが御牧であるかどうかわからなかった。しかし、人形を見た後、計を見つけた御牧は、破顔して計のもとまでやって来ると、握手を求めてきた。
「いやぁ、感動しました。あなたがお作りになられた人形。生きているみたいですな。」
「ありがとうございます。」
「妹さんの写真は拝見していましたから……。写真になっても、人形になっても、美しいお嬢さんですね。」
御牧はそう言うと、その濃い眉を緩めて、計を見つめた。計は何も言わずに苦笑して、
「そこまでお褒めの言葉を頂けると、光栄です。」
「あなたから招待状が来たときに、どうしようかと迷ったんです。私も、随分好き勝手生きてきましたから、結婚も、ほんとうはと言うと、あまり考えられないんですね。でも、今日妹さんの人形を見て、心底感動しました。あのように美しい人形があって、あのように美しい人がいるのだと思うと、お会いしたくてたまらなくなりました。」
御牧は、顔を喜びにほころばせてそう言った。その顔つきを見ているうちに、御牧が、景を奪っていきそうだと思えると、計は急な動揺が胸に迫って、落ち着けるために、髪を撫でつけた。
「兄様。」
そう聞こえて、振り向くと、真っ赤なワンピースに、赤い帽子を被った薔薇のような景が、金堂から境内に降りてきた。肌だけは白い薔薇で、西洋のモダンさだが、やはり、花束である。その景は、当初予定していた、モダンな西洋人形そのものの愛らしさで、ゆっくりと計に近づいてきた。
 御牧は、何も言わずに景を見つめて、景は御牧を見ると、ゆっくりと会釈をした。新しい人形かと、御牧には思えた。
「城景です。今日は兄の展示会に来て頂きまして、ありがとうございます。」
「御牧です。今日はお兄様から招待状を頂いておりまして……。」
「存じ上げていますわ。」
御牧はおどろいたように口を開けた。
「服部さんから、ご紹介いただいていましたもの。今日は、図らずもお会いすることになって……。」
景はそう言うとほほ笑んで、小さな脣から白い歯をこぼした。御牧は、
「僕は人形には詳しくないが、とてもきれいなものだと、今日感じました。あなたも、始めてそちらから降りてくる時、はじめは人形だと思いました。」
景はその言葉にほほを赤らめて、
「人形のようなものですわ。」
計は、その言葉に、景を見つめたが、景はもう言葉を紡がずに、御牧と並んで、境内を歩き始めた。計は、拍子抜けをして、景の背中を見つめたが、景はいつまでも、御牧の横顔を見つめるばかりで、計の方を振り返ることもなかった。
 計は、金堂に上がると、さまざまな少女人形の脇を超えて、中央の軸を見上げた。そして、その下にいる、美しい景の人形を見つめた。景の人形は、きらきらとした目で、計を見つめている。それは、そのまま記憶の中の百子に重なるようで、あの阿弥陀如来の美しい姿すら想起させた。あの阿弥陀如来も、野の誰かの姿を模した、野の仏だった。そして、あの記憶は、公武の幼い頃の記憶と、理想とを練り交ぜたものかもしれない。もはや、計には誰の心の中も、記憶の中も、わかりようがなかった。ただ、景を模した人形だけが、仏さながらに計を見つめて、計の心の鏡となって、計を見つめている。

 翌朝、起きるとまだ明け方で、寒気すらした。計は、布団から出ると、寝間着のまま、離れを見た。離れは、明かりが煌々としていて、昨晩、寺から一人で帰ったとき、あの離れに明かりがなかったことを思い出した。
 計は階段から下りて、庭先の鯉を見つめた。鯉は寒さが近づいてきたからだろうか、池の底で固まっている。池の底は温かいのだろうか。計が顔を上げると、離れの戸が開いて、桃色の浴衣を着た景が顔を出した。景は、計と目が合うと、しずかにほほ笑んで、離れからゆっくりと歩いてくると、縁側に腰を下ろした。計と並んで、池の鯉を見つめた。
 池に咲く紅葉が風に揺られて、幾枚もの葉が落ちては、水面を赤く染めた。
「兄様の人形、皆様に好評でしたわ。」
「ああ。君が美しいからだろうね。それにしても、昨日はおどろいたものだよ。君がほんとうに来るなんてね。」
景の桃色の浴衣は朝の光に洗われて、白無垢のようにすら、計には見えた。
「そうですわね。私も、ほんとうにこの家に籠もりきりでね。」
「これで宝塚にも行けるだろう。ポスターだけじゃなしにね。」
そう計が冗談めいて言うと、計は、
「兄様、私は御牧さまと結婚いたしますわ。」
計は黙って、頷くと、
「心が早いものだね。でも、君がそう決めたのなら、それで構わないよ。僕は念願が叶ったわけだな。」
「兄様は、反対するかと思っていましたわ。」
「僕が反対するわけないだろう。僕がほとんど嗾けていたんだからね。」
計は指先をもじもじと遊ばせて、俯いた。それは、普段の計とは違うように見えた。
「昨日は御牧さんと一緒にいたのか?」
「ええ。御牧さん、親切な方でしたわ。私は、御牧さんに、自分が人形のようなものだと、そう言いましたわ。けれど、御牧さんは、そのことを知っていたんです。」
「へぇ。なんでなの?」
「はじめて私を見たときに、人形みたいだと、そう仰っていたでしょう?それは、比喩と言うよりも、何かほんとうの人間じゃない、別のものだと、そう思ったそうなんです。でも、やはり人形じゃないと、そう思えて、余計に安心したと、そう言っていましたわ。」
「じゃあ彼は、君が複製人間じゃない、ほんとうの人形でも結婚したんだろうね。」
計はほほ笑んで、また俯くと、
「兄様には迷惑をかけられませんから。」
とたんにしおらしくなった計に、
「迷惑なんて何もないさ。それよりも、君も結婚するなら、これから忙しくなるね。」
計がそう言うと、計は、
「ええ。そうですわね。でも、私が出ていっても、兄様は人形を作り続けるんでしょう?」
「そうだね。それが僕の仕事だからね。」
計はそう言って、二階の仕事部屋を見つめた。仕事部屋から、人形たちが覗いているような気がして、計は首をすくめた。計は顔を上げて、庭を見た。そして、そのまま視線を動かすこともなく、
「兄様と私の思い出で、天の河を映した鏡がありましたわね。私、あの鏡の話を、今も思い出しますわ。とくに、兄様の部屋で、御母様のお写真を見た日から毎日のようにね。御父様が、私たちにふたりに、同じ思い出をお授けになったのは、なんでだろうかって、私はあれから考えましたの。それは、兄様が、もしくは私が、きっとその思い出のおかげで、どちらかを慕うことになるんじゃないかって、そう思いましたの。それが御父様のお考えだったんじゃないかって、そう思うんですのよ。その思い出の中の兄様は、ほんとうに小さい、子供の兄様ですわ。その兄様の小さいのを覚えていますわ。ほんとうにはいない、私の心の中だけの兄様。それを見つめている私も、ほんとうにはいない、子供の私。背の高さは同じくらいね。その二人が大きくなって、大人になりましたわ。今はほんとうに、御男子の兄様で、私は兄様よりもずいぶん小さくなりましたの。」
「筒井筒だね。」
景はほほ笑んで、その薔薇のような脣を緩めた。景は、何の化粧もない洗われたような顔で、美しい星座のように白々と瞬いている。
 計は、その美しく成長した景と、思い出の中の景とを重ねた。そして、景は、会うたびに、化粧をしていたように思える。今のように素顔な日が、一日としてなかったことを、計は思い出した。
「あら。雨ですわね。」
景の手が人形のように、緩慢に動いた。その掌に雨粒が散って、陽の光の中で、流れ星がはじけるようだった。
 庭は秋の朝で、白い陽が瞬いている。そうして、景の掌にだけ、涙のように雨が降り注いだ。

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