ミルキーウェイ
2-2
令嬢が去って、部屋に静けさが戻ると、階下からだろうか、ピアノの音が流れてきた。どこかで聞いたことのある、クリスマスソングだろうか。朧に耳を愛撫する音に、草麻生はうとうとと舟を漕いでいた。そうして、眼前のドガの踊子が、ゆっくりと動き出して、クリスマスの曲に合わせてステップを踏み始めた。美しいパ・ド・ドゥ。バレリーナはピンクのチュチュを花のようにひらひらと舞わせて、草麻生の瞳の中に色を塗り始める。ピアノの音に重なるように、狩屋の言葉が、歌うように耳の底を滑っていく。「君も同じかもしれない。」。俺も、同じかもしれない。薺と同じかもしれない。バレリーナはただ微笑ましく踊っている。そうして、その桃色の肌を、草麻生を近くまで近づけては、弾けるようにパを跳んだ。
「寝ていたのね。」
いつの間にか、寝ていたのか、草麻生が声に目を開けると、薺がソファの傍らに座っていた。鮮やかに赤い脣が、草麻生に冷たい死だった。
「パーティーはお開きになったのか。」
「プレゼントがツリーの下にたくさん。まだ開けてないわ。」
薺はほほ笑んだ。それは人形ではない、年相応の乙女の笑みだが、目は冷たい銀河系のレンズだった。氷のように冷たいから、それが脣までも凍えさせて、あのように赤いのだろうか。ピアノの音はもう鳴り止んでいて、人の気配も消えていた。
「草木も眠る丑三つ時ね。」
「どこで覚えたんだ。」
「パパの本。」
薺はそう言って、狩屋の残していったグラスに手を伸ばすと、その液体を口に含んだ。
「親父の本か。ろくでもない本ばかりだ。」
「あら。面白い本もたくさんあるわ。草麻生には、文学の素養がないのよ。」
薺はいたずらめいてほほ笑んだ。赤で尽くされた白い乙女だった。この娘は、もう法律では、結婚が出来る年頃なのだ。薺は手を伸ばして、テーブルに開かれたまま置かれていた画集を手に取った。
「どうしてパパはバレリーナが好きなのかしら?」
「踊子は人間の芸術の一番だと言っていた。身体で詩を書くから。」
薺はパラパラと画集を捲った。薺の手の甲から指先はミルク色の画集よりも光沢があって、一枚一枚ページを捲るその様は、なにかオルゴール館に飾られた自動人形めいてみえた。
「随分仲よさそうにしていたわ。」
「狩屋か?」
「娘さん。百子さんて言うのね。あの後、少しだけ喋ったわ。」
「僕も初対面だ。特に親しいわけじゃない。」
「あら。その割に楽しそうにおしゃべりしていたわ。」
薺はいたずらめいてほほ笑んで、ワイングラスに口をつけた。草麻生はただかぶりを振って、薺の手からハインデルの画集を奪い取ると、ページをパラパラと捲った。ダンスフロアに並ぶ幾人ものダンサーたちが、亡霊のごとく揺らめいている。誰一人として表情が朧気なのは、それが踊ることだけに特化した幽鬼を描いているからかもしれない。橙色のダンサーたちの肢体は、心の火であろうか。芸術の火であろうか。しかし、透き徹っている。そうして、壁に掛かるドガの絵を見つめると、ドガの絵の狂気が迫ってくる。どちらも美しいダンサーを描いた物であるのに、同一ではない。魂が違うからだろうか。ドガのダンサーは、地獄の中から湧いて出たように、恐怖に引きつった仮面を被っている。あれはドガのペルソナだろうか。それとも、笑顔の下の情念を読み取って描かれたペルソナを被る娘だろうか。ドガの絵とハインデルの絵は、朝と夜ほども違う。
「子供の頃の君はクリスマスパーティを楽しみにしていたね。」
画集を閉じて薺を見上げると、薺は冷たい目差しのまま、
「覚えていましたの?」
「初めて会った日にね。君はクリスマスパーティを羨んでいた。」
「そうね。とても楽しみにしていたわ。でもね、あれからなかったわ。クリスマスパーティなんて、やらなかったわ。」
「親父が嫌がったんだろう。親父も、君が来てから変わってしまったね。」
「その話は初めて聞いたわ。」
薺は眦をつり上げて、興味深そうに草麻生の目を見つめた。山猫の屋敷に住む山猫。
「君が来てからの親父は、ますますふさぎ込んだね。薺の代わりに来た君は、ほんとうに薺にそっくりで、ほんとうは嬉しいはずなのに、親父は君を恐れているみたいに、避けようとした。」
「私と薺さんとでは、魂が違うからよ。パパは、それに気付いたのね。小さな私の頃から、気付いていたのね。」
薺はゆっくりとワイングラスの液体を飲み干した。そうしてグラスを置くと、ほほ色が紅に染まっていた。
「どこか他人じみていたからね。親父は、君を避けていると、君が来てからすぐにわかったよ。愛していないわけではないが……。」
「器だけ同じだけじゃね。魂が違う。いいえ、私には魂がないわ。複製人間には魂がないわ。」
「酔っているのか?」
薺は先程まで吊り上げていた眦を緩めて、その黒い弓なりの睫に露を光らせていた。その美しい水球が一粒零れ落ちると、薺が泣いているのかと、草麻生には思えた。
「少し眠いだけですわ。だってもう、草木も眠る丑三つ時ですから……。」
そう言って、薺は両目を閉じて、すやすやと寝息を立て始めた。こうして眠ると、それはもう幼子に見える。頑是無い子供の魂が、そのまま彼女の胸に眠っているように見える。草麻生は立ち上がると、そのまま薺をソファに下ろしてやり、ブランケットを掛けた。冷たい人形のようで、意識がない。水底で死ぬこともなく妹が成長していたのならば、このように育っていたのだろう。そう思うと、これは妹に似せた似姿で、妹の生きた幽霊なのだろうと、草麻生には思えた。
薺は複製人間だった。死んだ薺の細胞とDNAの塩基配列を組み替え、模して作られた、寸分違わぬ模造品だった。ただ、魂はない。性格には、人間にも魂などはない。しかし、複製された人間は、魂がないと信じていた。それは、自分があくまでも模造品で、代替品であることを成長する最中に理解するからである。
原田は天才だった。天才が咲いて、彼の手は複製された人間を作った。数体の複製された人間。屋敷に住む、幾人かの喋ることの出来ない使用人たち。
そうして、その狂気を死んだ娘に使ったわけだが、複製人間には金が掛かった。フランケンシュタインは墓場を暴いて死体から怪物を作りだしたが、原田には初めから死体はあった。ただ、その死に逝く冷たい命の欠片を使って命を作り出すための金がなかった。狩屋が原田のパトロンになった。二人はどちらも生態学を学んでいた。原田も狩屋も、合成生物を造り出す研究で、切磋琢磨した仲だったが、ある時を境に袂を別っていた。その原因を草麻生は知らなかった。草麻生が狩屋と初めて会ったときに感じた、あの冷たく鋭い目に、何か原因があるように思えたが、それを聞いたことは一度もなかった。薺が複製人間だと聞かされたのは、もう五年も前のことになる。
原田は薺を恐れていたが、愛してもいるだろう。それは草麻生に感覚として理解できた。しかし、今ここで眠る薺は、器は薺と似ていても、その性格の質が異なるように、成長するにつれて、恐ろしいほどに美しく育つのに、人格も異なるのである。いや、これがそもそもの薺の性質だったのだろうか……。いくら考えようが草麻生にはわからなかったが、しかし、声は変わらず薺である。薺の声で、草麻生と、原田の名前を呼ぶ。それは奇怪な歪みに思えた。
アトリエから出ると、どこからかピアノの音が聞こえた。しかし、それは自分の脳内を流れる音楽のようで、幻聴だった。そうして階段を下りて広間に出ると、ソファに腰掛けて眠る原田がいた。原田はひどく疲れていて、そして老けてみえた。顔に生彩を欠いていた。原田はゆっくりと目を開けると、目の前の草麻生を認めて、また目を閉じた。
「久しぶりのクリスマスパーティーだった。」
「もうクリスマスパーティという歳でもないだろう。」
「クリスマスはいつだって楽しい。」
「薺は?」
「あんたのアトリエで寝てる。」
原田はまた目を開けた。そうして、その目は煙のように白く濁っていて、すぐにでも危うくひび割れそうだった。何か、薬漬けの目のようでもある。
「狩屋の娘さんと会ったよ。」
「百子さんか。」
「きれいな娘さんだ。でも、狩屋から生まれたとは思えないね。純粋そうだった。」
「手塩にかけて育ててるんだろう。あいつの薔薇だよ。」
「なぜあいつが来たんだ?」
草麻生は枯れかけている暖炉の火に薪をくべた。火の子が舞って、弾けた。
「薺を見に来たんだ。」
「何のために?」
「俺の愛娘がどのように成長したのか、その経過を見るために。」
「複製人間を商売にするんだろう。おぞましい話だね。」
暖炉の火が息を吹き返し始めた。そうして、草麻生は原田の対面に座ると、彼の目を見つめた。
「金儲けのために人を売るか。人身売買と何ら変わらない。」
「それよりも質が悪いかもな。」
「人ごとだな。他の何人かの複製人間も、あんたのせいであいつに売られることになるんだろう。それであいつはいくら稼ぐんだ?」
「そんなことは俺の知ったことじゃないさ。」
「人形作りに逃げようが、あんたが過去にやったことは変わらないさ。」
原田は紫煙のようにゆらめく瞳を、草麻生に向けた。そうして息をゆっくりと吐いた。酒の匂いが漂った。
「あいつに何か言われたのか?」
「どうして?」
「ひどくいらついているからさ。」
草麻生は何も言わなかった。君も同じかもしれない。その言葉だけが、耳朶の奥で反響している。
「俺はレシピを渡すだけさ。もう料理人じゃない。」
「何で変わった?」
「疲れたから。人形を作るだけの方が性に合っている。」
「複製人間も人形のようなものだろう。」
「喋らない人形。意思のない人形。魂のない人形。」
「まだそんな与太話を信じているのか。自分がそう思いたいだけだろう。」
草麻生の言葉に、原田は黙った。そうして、静かに目を閉じた。草麻生は苛立って、
「薺は自分に魂がないと信じているよ。それはあんたの希望の通りさ。あんたは怖いから、魂がないことにしたいんだろうが、薺はもう人間だ。」
「複製された人間も、合成された生物も、本来はこの世に存在しない人形だ。俺たちは神さまじゃないから、交わりで生まれなかった人間に魂がないのは道理だ。魂は全て、神が与える。神の意志だ。」
「それが与太に思えるんだよ。あんたはただの責任逃れのマッドサイエンティストだ。」
原田は黙った。拳を握りしめている。そうして、目は狂犬じみていて、草麻生を睨み続けている。
「お前は何が言いたいんだ?」
「今日狩屋が来た本当の理由だ。あいつが薺の成長を見に来ただけとは、僕には俄には信じがたいんでね。」
「つまり?」
「薺を引取に来たのかと思ったんだ。」
原田は何も言わずに、ただ草麻生を目を覗き込んだ。しかし、原田は目を瞑った。そうして、もう何も言わなかった。それが答えのように草麻生には思えたが、しかし、草麻生もまた目を閉じた。目を閉じると、狩屋の声が聞こえてくる。あの囁きの残響が、まだ耳もとを擽る。
「君も同じかもしれない。」
草麻生に不吉な思いが、あの狩屋の言葉と、狩屋の瞳と、それだけで充分だった。薪が砕ける音が聞こえて、夢が破れたように、この部屋そのものが夢のように思えた。
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