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獣姫

4-1

 柔らかい風に頬を撫でられ眼を覚ます。君の姿が見当たらないことで、思考が明晰になる。辺りを見回すと、小さな身体を思いの丈振り回しながら、君が駈けて来る姿が眼に入る。君は息を切りながら、満面の笑みで僕に小さな花を差し出す。これは?と問うと、君はママへのプレゼントだと笑顔で応える。僕が微笑むと思っていたのであろう、険しく眉を顰める表情に、君の顔が不安で曇っていく。風の囁きが木々を揺らす。目の前に咲いた美しい花は秋桜だった。
 
 「それはお香ですか?」
門馬が少し緊張した面持ちで話しかけて来た。その声に現実へと立ち戻った僕は、ゆっくりと頷いた。
「先生が好きで。あの辺りは寺も多いしね」
門馬が頷く。ゆっくりとテーブルの珈琲に手を伸ばし、軽く口をつけた。
「確かに。先生のお屋敷は独特の匂いで満たされてる。近頃先生は何を?」
「何も変わりませんよ。相変わらず、自分の作りたい物に心血を注いでる」
そう言ってたっぷりとミルクを注いだ珈琲で喉を潤す。休日の午後だからか、土地柄か、北山の一角にあるカフェは客も疎らだ。空疎な店内にはスムースジャズが流れ、何か書き物をしている青年と読書に勤しむ老人の他、僕たち以外に客の姿はない。
「合成生物の研究?」
僕はゆっくりと視線を上げて門馬を見つめた。特別彼を非難した訳ではないが、門馬は僕の視線に瞳を逸らす。
「もう止めたのかと」
「君も何度かお屋敷に来た時に見た事があると思う。たくさんの人形」
「あれは先生が?」
僕は頷く代わりに珈琲を口にした。門馬が感慨深げに浮かぶ。
「間接球体人形っていうんですか?詳しくはありませんが。精々がソフトヴィニル製の人形しか触れた事がないし。確かに本当にたくさんの人形がお屋敷に飾られてますね」
「あれは先生のコレクションの一部です。僕も少しは嗜んでみようかと思いましたが、殊の外難しい。あれには天賦の才がいる。根気もね」
「生物も人形も先生には天分があったと」
「どうだろう。先生の作る人形もどこか歪だ。面白い事に娘が作る人形の方がずっと出来が良いと感じる時がある」
君の人形が脳裏に浮かぶ。金髪をたなびかせた少女の人形。初めて数ヶ月で造り上げた人形の造形は、先生が嫉妬を催す程の色気を帯びていた。
「へぇ。國ちゃん、意外な才能があるんですね。先生以上ー作り始めてまだ間もないでしょう?」
「まだ半年足らずですよ。その間に五体か六体拵えた」
左手の指を数えながら僕は応える。不可思議なものだ。作られた母親を持つ君が次は作り手に回る。先生も同様だ。あの日を境に人が変わったかの様に人形作りに没頭し始めた。球体間接人形ー。人形職人と化した先生は、畑違いの分野で黙々と精進する人生を生きていた。怖くて聞けないことがある。それが僕と千の器のなのかと。無機物をハードディスクとして生きていけ、という義父からの要望は正直笑えない冗談だった。あまりに馬鹿げた冗談。ぼくは一人苦笑してかぶりを振った。
「でも正直この話に乗るとは思いませんでした」
門馬が遠慮がちに口を開く。僕の逆鱗に触れないようにか、それとも先生の逆鱗か。彼の言わんとしていることは即座に理解できた。
「先生はまだ許してないよ」
「そこが一番の問題点ですよ。それで大丈夫なのかってね」
「娘も人並みに生きる権利があります。それにいつまでも親や先生を頼る事は出来ない。野生なら当に放り出されてる」
「それこそ矛盾ですよ。人並みに生きるのなら野生という例えは的外れでしょう?」
僕は苦笑した。門馬は微笑んで珈琲を啜る。店内に流れるスムースジャズは延々と同じ曲のループにしか聞こえない。
「ジャズはやはりピアノですね」
「嗜まれてるんですか?」
「少々ね。僕はあくまでも六十年代シンパですが」
そういえば門馬のクリニックではいつもピアノジャズが流れていた。彼のクリニックに着くといつも睡魔に襲われてしまう。
「スムースジャズも捨てたもんじゃない」
「洒落たカフェと言えばスムースかボサノバでしょう?無難ですよ。でも面白みは無い。面白いのはドラムかサックスのソロ」
「どちらも少し攻撃的だ」
「そこが面白い。それに思いのほか甘いメロディのパターンも多い。懐が深いですよ」
コツコツと地面を叩く高い音が僕らに近づいて来る。音が大きくなるに連れて門馬の言葉が掻き消えていく。
「戻ったよ」
そう一言だけ言うと、君はゆっくりと僕の隣に座った。
「まだ注文は来てない?」
「もう来るよ。少し待ってなさい」
「國ちゃん、人形作ってるんだってね」
君は淡い桃色のグロスを塗った唇でライムレモネードを啜る。つい数ヶ月前にはなかった色気が君の中から立ちのぼる。
「先生、誰から聞いたの?」
恥ずかしそうに僕を睨む君は、犯人は誰か知っているようだ。
「お父さんだよ。君の人形の出来映えをとても褒めていたよ」
君は再度僕を睨むが、僕は知らんぷりを決め込んで珈琲を喉に流し込む。
「人形作りは真田先生の影響?」
「うん。まだおじいちゃん程上手くはできないけどね」
「そうでもないさ。君の人形は先生の腕を超えてるよ」
君はかぶりを振って照れた様に髪をかき上げる。柑橘類の甘い匂いが漂った。
「そんなことない。おじいちゃんは凄いのよ。本当になんていうか鬼気迫ったー」
「それには同意だね。先生は何を作るにしても気持ちを入れ込み過ぎだ」
研究に没頭していた時の先生を思い出す。人形に向かい合う時の先生を思い出す。どちらも同様に瞳は充血し、目の前の事象に取り憑かれていた。対象の中からこの世の真実を取り出そうとするかの様に、その瞳は使命感と狂気に満ちている。先生は産まれてこのかた四十年変わる事等ない。時折、人の数倍の長さを生きて来たのではないかと思わせる。フランケンシュタインは苗床を変えただけで、先生の中に完全に着床しているのかもしれない。その行い自体は今まで同様何ら変わる事等無い。
「國ちゃんも球体間接人形を?」
君は頷く。君の部屋にばらまかれた人形を作る為の道具の数々。作り込まれた精巧な人形。僅か数ヶ月でこの領域にまで来るとは到底信じ難いが、目の前の現実は受け入れざるを得ない。相対性理論を思い出す。君の時間感覚と僕の時間感覚は違う。先生の時間感覚も。時間は誰にも平等だと散々聞かされてきたが、感覚が違えば平等ではないのだろう。
「私のは女の子。それに動物も。おじいちゃんの部屋に積まれた剥製ー。あの影響かな」
「先生は人形オンリーだよね。それも十代の少女の」
「変質者めいてるね」
僕の皮肉に門馬は苦笑する。
「人形の相場は少女か少年ですよ。美しさはやはり若い肉体に介在するからかな」
「制作者本人の魂が投影されてるのかもしれない。魂は純粋でしょう。イノセントな自分に思いを巡らせてみれば、辿り着くのはやはり少年だ」
君の忍び笑いが僕の話に水を差す。
「何かおかしいか?」
「だってパパ、いつも研究や持論を語り出すと熱くなるんだもん」
君はさも面白い話でも聞いたかの様に笑いを堪えている。それに釣られて門馬も笑った。
「國ちゃんの言う通りですね。難波さんは何でも分析したがる」
君たちが楽しそうに笑うからか、僕も思わず口元が緩む。
「でも難波さんの洞察は存外当たっているかもしれません。人形は自身の魂の投影だと」
「だとすればそれは器に成りえませんね」
僕はぽつりと一言漏らす。門馬が怪訝な顔で僕を見るが、こちらの話ですと珈琲を飲んで話を終わらせる。
「お待たせ致しました」その声と同時に運ばれて来たのは君が所望したサワークリームチーズケーキだ。
「うわぁ、美味しそう」
君は満面の笑みを浮かべ、チーズケーキにフォークを突き立てる。君がチーズケーキを頬張る姿を見つめながら珈琲を啜る。思いを巡らせる。今夜君の許嫁と会う。お見合いのようなものだが、両者の合意が得られれば結婚へと進む段取りだった。今から三時間後の顔合わせ。先生は反対だった。歳はもう十六だが、実年齢は僅か二歳三ヶ月だ。僕自身、本来ならあと数年は手元に置いておきたいと、そういう欲があるかと問われればイエスと応える。だが、君の未来を考えたとき、それはあまりにも酷だろうと千が言った。僕ら男親はいつも娘の幸せを一番に考える。と、同時に自分が不本意だと感じてしまった場合、何故かそれは娘の不幸せに直結するのだ。目の前でチーズケーキを頬張り、レモネードを流し込む君はやはりまだ子供そのもので、とても結婚出来る歳だとは言い難い。つい一年前まで幼かった君がもう大人の女性の一歩手前にいる事に戦慄を覚えると同時、深い感慨すら込み上がる。先生はふて腐れたかのように蔵に籠りきりになり、再び人形作りに没頭した。先生は病み上がりの僕を捕まえて、必ず僕たちの器を造り上げると豪語していたが、君が産まれてその思いが弾けたのだろうか、人形作りに埋没していった。あまりにも呆気ない幕切れだった。どこか憑物が落ちたかの様な表情だった。それでも人形に触れている時は、同様に恐ろしげな表情を浮かべてはいたのだが。

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