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美獣

1-3

 結局、美月は『火の鳥』、『薔薇の精』を、恵が『ぺトルーシュカ』を舞うことになった。そのことに、光本は少しばかりの不満があった。光本は、全てを美月に演じて欲しかった。けれども、公武を安く使えることの方が、傾いた教室の建て直しに役立つから、打算がまさった。
 人形になりきって、毎夜、公武と恵は稽古を続けた。公武は、三つの演目のうち、タイトルロールを二つ演じなければならないから、振付を覚えるのに、てんてこ舞いだった。しかし、公武の肉体は、舞踏のための肉体であって、彼が思う以上に、彼は彼の肉体の主だった。
 腕も、脚も、全てが思いのままである。公武は、踊るごとに、自分の中に花が咲く心地だった。そして、その花を持つのは、決まって美月である。あの日から、週に数度通う教室への稽古が、彼に心待ちになった。美月は、十六の娘で、まだ高校生であるが、卒業後にロシアに渡ると、そう語っていた。
 ロシアと聞いて、公武は妙な心持ちだった。自分の肉体に、日本ではない別の血が流れていて、しかし、喋る言語は日本語で、踊りを乗せる音楽はロシアである。
 公武の持つ日本的なものと、ニジンスキーの持つロシア的なものとが入り交じって、新しい人間が生まれている。それが、『彼』にとってよいことであるのかは、公武にはわからなかった。自分がニジンスキーの複製であることが『彼』の喜びで、『彼』の育てた舞姫と、美しい舞踏を見せるのが、きっと『彼』に一番美しいことなのだろう。それならば、公武には、それを全うすることこそが、本懐なのであろう。
 そういう思いが浮かぶたびに、公武はそっと胸の中の火にゆびで触れてみる。そうすると、それは火ではなく、美しい花であることが知れる。この美しい花を、どうすれば美月に届けられるだろうかと、そういう思いばかりが、公武を悩ませた。
 公武は夜に一人で耽る遊びでは、美月を思い出すことはなかった。そうして美月を汚すことが、何よりも罪深いことで、どちらの純潔も滅ぼしかねないことに思えた。一人で自分を慰めたあと、途方もないほどの暗闇の中を、公武はのぞくことになった。そして、そういう自分を恥じた翌日に恵と会うと、決まって、山猫のような目で、公武を覗き込むのである。恵は、公武の心の花を知っているのだろうか。公武には、恵が全てを知っていて、公武を笑っているように思えた。

 『彼』が公武を食事で屋敷に誘ったのは、梅雨時の頃だった。ちょうど、明月院の紫陽花が、見事な青色でつらなる季節になっていた。
 公武が『彼』の家を訪れるのは、月に数度のことであるが、やはりさまざまな鳥獣の鳴き声が、玄関口に立ったときから、公武の耳に届いた。まるで音楽祭である。色々な音が混ざり合うのは、人間の音楽とは違うけれども、しかし、そこには規律が存在するかのように機械的にも聞こえた。
「オーケストラみたいですね。」
「鳴き声がかい。うるさいだけだよ。」
「じゃあなぜ飼うんですか。」
「うるさいけれど、きれいだろう。造花の妙だね。生き物の全てだろう。姿形と鳴き声と。鳥や虫は求愛の踊りをするだろう。」
『彼』は文鳥を手に乗せて、その目をより大きな目で見つめている。文鳥にとっては、その手が世界の全てのようで、彼は文鳥を包み込んでいる。
「そうですね。動物は、求愛をするときは、踊るそうですね。身体を使うんですね。」
「舞踏は愛だね。さしずめ舞踏家は求愛の踊りを、僕らに見せてくれているわけだ。」
『彼』はそう言って、文鳥を籠に戻した。呼び鈴がなった。お手伝いが、恵と美月をつれて、応接間に入ってきた。公武はおどろいて固まった。
「いらしてたんですね。」
美月はほほえんで、畳の上に座った。汚れのない制服姿で、聖処女の面影だった。恵も同じように制服を着ていたけれども、しかし、スカートは膝から上で、胸元のリボンはほどけていた。
「学校の帰りですか。」
「ちょうど中間試験があるのよ。こんなときでもレッスンは休めないもの。」
「踊りで食べていこうってんなら当たり前だよ。ほんとうなら今すぐでも学校を辞めさせたいところだね。」
「恵さんもどちらの高校に通っていますの?」
恵は聞いているのかいないのか、指先のマニキュアを見つめたまま、何も言わない。
「反抗期というやつだね。僕の舞姫はわがままでね。光本君の舞姫は、ほんとうに育ちがよさそうだね。」
「まぁ。舞姫だなんてお恥ずかしいですわ。私はただのダンサーですわ。」
「ダンサーか。バレリーナか。プリマを目指すんだから、バレリーナと言わないと。ダンサーとバレリーナは、近いようで遠いんだから。さっき公武とも話していたんだけどね、舞踏家は求愛の踊りを見せる商売だろう。ある意味水商売だ。」
水商売という言葉に、美月はほほを染めた。恵はちらと『彼』を見つめた。『彼』はそのまま続けて、
「俳優や広告屋、それから僕ら文筆家も水商売だな。芸術に絡む人間はすべて水商売だよ。その中でも、バレリーナやバレエダンサーは、一番美しいね。芸術に絡む人間の中で、一番美しいよ。舞踏は女の美しいのと、男の美しいのを見せてくれる。」
「そんな風に言われると恥ずかしいですわ。自分で自分をきれいだなんて、思えないですもの。」
美月の言葉に、恵は何も言わずに冷たくほほえんだ。公武は、
「でも、御父様の言葉通りだと思います。だって、美月さんも、恵さんも、踊っている時は本当に美しいですから。」
「そうだね。今ここで踊ってみせてほしいね。」
唐突に『彼』がそう言うと、美月は両手をほほに当てて、恥ずかしがった。しかし、恵は立ち上がって、
「演目は?」
『彼』は腕を組んで、考え込むように、
「『瀕死の白鳥』を。」
アンナ・パブロヴァの代名詞である。公武は慌ててオーディオ機器の電源をいれた。トゥをないが、白いソックスが畳の上で爪先を立てた。恵は、すぐに役になって、白鳥になった。畳の上が水辺になった。白鳥が恵のゆびさきから現れた。飛び立とうともがき、羽根をばたつかせる白鳥の首が伸びて、死の苦しみに喘いでいる。『彼』はその踊りを、うれしそうに見つめていた。恵の中の天才が花ひらいているのか、寒々しい死の香りを持つ白鳥である。
「人間が動物になれるのも、精霊になれるのも、神になれるのも、やはり舞踏だけだね。」
美月は、切れ長の目を見開いて、じっと恵の踊りを見つめている。山猫のような娘が、目の前で白鳥に変化して、死に絶えようとしているのが、美月の目にたしかに映っているよである。
 踊りが終わると、美月は立ち上がった。恵は代わりに畳の上に腰を下ろして、リボンをするするとほどいて、それで髪を結った。肩までの黒髪が上がって、うなじが見えた。うなじには汗の玉がきらきらと光っている。
 美月は一礼すると、一目散に逃げるように、応接間から出て行った。公武は立ち上がると、慌ててその後を追った。美月は廊下も玄関も、音も立てずに歩いて行って、すぐさま屋敷を出た。公武はそれをただ追うだけだった。
 外に出ると、蒸し暑い梅雨の匂いがして、さぁっと細い雨が降っていた。小さな雨粒が、公武のほほをぬらしていく。屋敷の周りを囲う、山の木々と生け垣とは、雨で濃くなっていた。北鎌倉の山並みにある屋敷は、閑静な住宅街の中にあって、その場にはひとけはない。
 公武は、明月院へと入っていく美月を認めた。すぐさま追いかけて、金を払うと、院内に入っていく。雨のせいか、人通りはだいぶ少ない。美しい青色が咲き誇っていて、その中に、赤い薔薇のような美月の脣がひらくのが見えた。
 美月は立ち止まって、公武を見た。汚れのなかったローファーが、泥でぬれている。
「おどろきました。突然でしたから。」
「ごめんなさい。あとで先生に謝らないといけませんわ。」
「どうされたんですか?」
「恵さんの『瀕死の白鳥』、素晴らしかったですわ。」
「恵さんはほんとうに才能に恵まれています。ご自分では謙遜してますけれど……。」
「名前の通りですわ。美しさにも恵まれて。」
人の声が、雨音にけされていた。もう夕方で、観光の客はまばらになっている。
「やきもちを焼いてしまったんですわ。あんなに才能のある人が日本にいるんですもの。」
「御父様が目をかけて育てたんです。御父様の舞姫ですから。」
「白鳥のようでしたでしょう。衣装を着ていれば、ほんとうの白鳥……。」
ほんとうの白鳥という言葉に、公武は恵の踊りを思い出していた。ほんとうの白鳥という美月の言葉はほんとうで、『彼』の思想もほんとうだと、公武も思った。しかし、目の前の娘は、目から大粒の涙がいくつもあふれてはこぼれていく。このように涙を流す女性を、公武は見たことがない。慰めの言葉すら浮かばず、公武は、あじさいを一つ手折ると、それを美月の黒い髪に添えた。
「まぁ。いけませんわ。」
美月はおどろいて、紫陽花の花びらにふれたが、すぐにほほえんだ。公武は、そのままステップを踏んで、美月に手を差しのべた。美月はほほえんで、ローファーを脱ぐと、そのまま泥の上に白いソックスをひたした。純白はすぐに汚れた。しかし、美しい汚れだった。公武は美月の手を取って、彼女をリードした。『薔薇の精』のパ・ドゥ・ドゥである。美月は、可憐な若い令嬢になって、公武は薔薇の精になった。公武の脣が、美月の目にあざやかな薔薇に見えた。そうして、真っ青な紫陽花の中に、薔薇が一輪咲いて、その薔薇に美月のゆびさきがふれると、公武の肉体は花びらのようにしなやかに舞った。
 恵が片手に傘を二本持って、二人の舞を見ていた。さぁっという雨音が消えていって、いつしか『薔薇の精』が三人の耳に流れてきた。紫陽花や、雨や、心臓の、その全ての音が規則正しく鳴っていた。機械的な規律すらあった。

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