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美獣

1-9

 ミルクホールで美月と別れて、そのまま電車に乗ると、北鎌倉の『彼』の家まで向かった。公武の頭の中に、あのミルクホールに飾られていた、少年の写真がちらついて、離れることがなかった。あれは自分なのだろうか?しかし、自分であるはずがなかった。
 複製人間という人形。生きていても、過去の知らない人間と比べられる。知らない人間を求められる。自分が何者か、公武にはわからなくなっていた。目を閉じると、振り子のように、恵と美月が現れる。一つに交じりあう。
 雨が降ったせいか、『彼』の屋敷の脇を流れる渠の音が普段の何倍もの大きさだった。水が濁り、木々は毒々しく青かった。
 『彼』の屋敷のインターフォンを鳴らすと、扉が開いて、お手伝いが顔を出した。公武を見るなり、訝しげに目を細めた。不審者を見る目差しである。
「御父様はいますか?」
「先生なら今仕事中です。奥の間でお待ちになってー。」
お手伝いが喋り終える前に靴を脱いで、玄関に上がると、お手伝いは不明瞭な言葉を吐いて、公武を睨み付けた。公武は気にすることもなく、奥の間に向かうと、響き合う獣の声など無視して、扉を開けて、部屋のソファに腰を下ろした。
 音楽はかかっていなかった。冷房が効いていて、部屋は寒いほどだった。お手伝いが『彼』を呼ぶまで、待っているつもりで、公武は立ち上がると、レコード盤に針を落とした。『ピーターと狼』が流れて、部屋に少し温かみが差した。
 三つあるソファの一つに、本が置かれていた。手に取ると、『彼』の書いた本だった。ぱらぱらと捲るが、文字は頭に入ってこなかった。『彼』は、自分の書く本を、駄作だと言っていた。何の価値もない、芸術とは無縁の場所にあるものと、蔑んでいた。『彼』にとって、芸術とは自分の作るものではなく、自分が所有しているものだった。
 しばらく待っても、『彼』は一向に来る様子がない。痺れを切らして、公武は『彼』の部屋へと向かった。『彼』の部屋は、屋敷の二階の奥の間で、裏側が小山になっている。誰にも侵されることのない、『彼』だけの秘密基地である。
 階段を上がり、奥の間の前に来ると、ドア越しに、音楽が聞こえてきた。それは、ストラヴィンスキーの『ぺトルーシュカ』のロシアの踊りだった。
 公武がドアを開けると、『彼』が恵を後ろから抱きしめていた。その抱擁で、恵の豊かな乳房はゆれて、公武の手に、あの女子トイレでの、触覚の幻想を呼び起こした。
 『彼』は気付く様子もなく、ただひたすらに恵を求めていた。四十ほどの男が、哀れな老人に思えた。公武はただその様子を見つめ続けた。恵は、公武に気付いたが、ひとさしゆびを脣の前に立てて、しずかにと、そう脣を動かした。脣は夜と朝を迎える薔薇のごとく何度も開いては閉じていた。
 公武はドアを閉めると、応接間に戻った。何度も同じメロディが繰り返されていた。公武が不審に思って見てみると、レコードは壊れているようだった。

 その夜に、『彼』はそのまま部屋で眠ってしまって、下りてこなかった。代わりに、恵が下りてきて、公武に気がつくと、ほほえんだ。ぬれた身体に、美しい絹のローブを着ていた。バレエの衣装に思えた。
「やぁ。」
「ひどいわ。ノックもしないのね。」
「まさか。君と先生とが、そんな関係だとは思わなかったから。」
そう言うと、恵はほほえんで、ソファに座った。髪の毛がぬれていて、かすかにシャンプーが匂った。
「芸術家とパトロンだもの。そういうことになるのは当たり前だわ。」
「恋とか、そういう感情はあるの?」
「すこしだけあるわ。先生のことは好きよ。でも、あなたのことも好きよ。」
その言葉に、恵と交わした愛を思い出した。それが今度は、針のように心臓を貫く痛みになって、公武を苦しめた。
「だからあなたはぺトルーシュカなのよ。」
そう言われて、公武は顔を上げて、恵を見つめた。恵は、勝ち誇ったように、美しい黒い目で公武を見つめた。
「君はよくそう言う。僕をぺトルーシュカ、ぺトルーシュカって。」
「そうよ。だから、それを認めて、あなたは馬鹿になるがいいわ。傀儡だって割り切って、人形を生きるのよ。そうすれば、もっと美しいわ。」
「美月ちゃんが言っていたよ。君は素晴らしいって。僕もそう思う。君はほんとうに素晴らしいダンサーだよ。でも、人間として破綻している。」
「仏界入易、魔界入難。」
「なんだって?」
「仏界は入りやすいの。魔界は入りがたいの。」
公武はよくわからずに、首を傾げた。恵は足を組み直して、
「芸術家は魔界にしか棲めないの。この言葉、先生に教わったの。私、美しいもののためなら、泥水だって啜るし、豚に犯されたっていいわ。」
公武は『彼』を思い出していた。骨董欲しさに金を湯水のように使い、動物たちを従えて、一人の娘を舞姫にしようとした。そうして、魔術師のごとく、公武を買って、美しい踊りを舞わせようとしている……。『彼』も魔界に入ろうとしているのだろうかと、公武に思えた。
「ニジンスキーは狂ったわ。それは、色々なことがあったからでしょうけど。彼の手記を読んだことはあるかしら?彼は、自分が踊るのは、神に触れることだと思っていたのよ。でも、戦争や、ディアギレフとの諍いで、だんだんとおかしくなっていった。でも、結局最後には彼はほんとうの芸術を産んだわ。ゴッホだって、ゴヤだって、みんな狂ったでしょう?」
「だから君も狂いたいって?狂って、素晴らしい芸術を残したいって?」
恵はほほえんで、静かに爪先を立てた。白い絹がするりと落ちて、美しい身体があらわになった。白い乳房が、ライトに照らされて、黄金に輝いた。そうして、ステップを踏むと、宙に浮いたようだった。時間が静止したかのようだった。やわらかな肉体が、相手を求めて歌っていた。公武は恵を抱き留めると、そのまま応接間のガラス戸を開けて、庭に降り立った。
 庭は、月明かりで一ぱいだった。その灯りの下で、銀色の乳房が美しく光っていた。新しい花が咲いたようで、恵のゆびさきの一つ一つも銀の光で月の花だった。その花を掴もうと、公武は恵を抱き寄せて、パ・ド・ドゥを舞った。踊る内に、舞う内に、だんだんと、神と交信しているという、ニジンスキーの心が、公武に理解できるようだった。舞姫は神のようになって、公武の腕の中で一輪の花になった。

さぁっと拍手の音が耳に流れ込んでくる。
 『彼』は目を開けて、目の前に立つ男を見つめた。筋肉は張り詰めていて、しなる弓のようだった。
 男ー公武は、まだ子供である。しかし、大人でもあった。身体が大人なのだ。彼は複製人間だった。
 公武は美しい目を、一人のバレリーナに向けていた。美月の『火の鳥』が終わり、観客は、美月に盛大な拍手を送っている。それを緞帳の裏手から、恵が見つめている。恵は、『ぺトルーシュカ』のバレリーナの衣装で、爪先を上げて、ストレッチしていた。ほんとうのロシア人形のようで、ほほが林檎のように赤い。化粧と血が交じって、見事な赤色だった。
 恵は振り返って、公武を見つめた。
「言ったでしょう。私は人を跪かせるのが好きなの。それに、あなたはお人形。私にこの役はお誂えなのよ。今日はよろしく頼むわ。」
恵はそういうと、目から光が消えて、人形になった。やはりおろしたての美しさで、公武よりも人形じみていた。 


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