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猟師のこと(江戸幕府から唯一許された横瀬郷の鉄砲頭)

江戸城から鉄砲を借りることができ、横瀬郷のみ名前が記されていたこと。

1750年、この年、横瀬村の数(名主組頭含む)およそ、
650人~700人の内、鉄砲をもち猟をする者50人~60人。

秩父領16ケ村合わせて、300人~400人と推定することができる。

江戸城に家臣を派遣し、各地の豪族領土に忠誠心を誓わすために
食料や鉄砲の数量を調査していた。

鉄砲請書というものがあり、江戸城から鉄砲を貸してもらうと、

「日常の手入れに関わらず猟時を守り、それ以外の時には打ちません。
もし破損した場合はお願いを差し上げて修繕し何度も使用できるようにし、
背いた場合はどのようなお咎めも受けます。」

という誓いをたてる。

猟師というのは誰でもなれるわけではなかった。

鉄砲頭という人がいて、各地域の名主が代官あてに押印願を出していた。
しかし、誰でもそれを出せば鉄砲が貸してもらい猟師になれるのではなく、
横瀬村、根古屋城、鉢形城以来の鉄砲所持者の家系をもち、由緒正しい家柄の者が優先されていた。

根古屋

親から子へ受け継がれることもあり、猟師は共同責任もつきまとうという事で人物証明でもあったという。

江戸時代の管理体制が、今よりもずっと厳しく秩序を保つことを優先することにより、日本は繁栄していったと思う。

今の日本の政治に比べて昔は、江戸と秩父などの他の地域での信頼関係は太く保たれていたことがわかる。

宇根

昔はこの森でも猟師はいた。
この森から南へ行けば武甲山に辿りつけるが、登山道はない。

しかし、田畑を荒らす動物や鳥をうつだけではなく、
乱党が起こった時などの招集に使われることの狙いもあり、
また熊の胆(い)のような薬物を上納させる(有料)ためでもあった。

それは幕府や藩が無料で、火薬、玉(弾丸)の製法から、
鉄砲に普段から慣れさせておくよう指導したこともあった。

猟師のメンバーは、横瀬町のみ名前を記し(猟師数50名)他の三沢地域などは、数のみ記した。
上三沢村 猟師数 11名 
中三沢 猟師数 11名 
下三沢 猟師数 20名
山田村 猟師数 19名 
定峯村 猟師数 8名 
栃谷村 猟師数 2名
浦山村 猟師数 42名 
日野村 猟師数 8名 
白久村 猟師数 13名

秩父16ケ村に300の鉄砲を貸したことは、この時代の農民一揆が全国的に広がっていたこともあり、戦力として鉄砲の製造能力を上げ、秩父はその江戸城からの信頼を受けていたとも考えられる。

また、鉄砲に信頼を置かれた秩父の理由の一つとして、
吉田町の龍勢祭りで有名な塩硝燒(えんしょうたき)きもあると思われる。

龍勢の台(吉田)

塩硝燒きは、黒色火薬(火縄銃、花火などに使う)製造の原料となる
硝石を製造する作業のことで、横瀬郷伝統の特殊技術であった。

北条氏が根小屋城に立てこもった時に、この技術が伝われたと考えられており、自然の塩硝は日本ではほとんど手に入らないため、中国からなどの輸入に頼っていた。

特にその交易で繁栄し塩硝生産されていた代表的な地域は、白川郷の和田家であったとされる。

他には九州:薩摩、山口県周防、広島県安芸、 四国:愛媛県伊予、徳島県阿波、飛騨白川、長野県信濃、東北:秋田県出羽最上地方、仙台地方など。
関東では秩父のみ。

根古屋(神を降ろす梵天)

龍勢は、鉄砲の技術を発展させたものと思われるが、秩父の山人の象徴になった祭の歴史背景には、江戸城を守る要人を置いた意図があったのかもしれない。

参考:横瀬町史「人と土(前編)」

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