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武甲山信仰③狼煙から塩硝燒きへ 

横瀬町の歴史では、武甲山を蔵王権現の基として猿田彦命を置いたと伝わっている。
かつて武甲山の山頂には、蔵王権現社・熊野権現社・大通両権現社やその末社などが所々に鎮座していたという。

蔵王権現社が本社とされ、明治初期には御嶽神社と改称された。
蔵王権現は541年に祀られた記録がありかなり古い。

御嶽社(横瀬町資料館)

武甲山の御嶽神社の秋祭りでは盛大に行われた記録がある。

「十月一日、払暁の雲をついて武甲山御嶽神社秋大祭の号砲煙火が響き渡る。里宮では神官が潔斉し心身を浄め祝詞を奉し神楽を奉納する。
午前十時より村長を初め村の指導者氏子崇敬者学校生徒等参列し、厳かに大祭の儀が執り行われる。
午後三時、猿田彦命(お天狗様)が先導露払いし、宮司神官村長氏総代村民等供奉し、神輿は猛けく勇しく御神幸し、夕刻和田河原へ御着きになる。

この日のために用意した煙火数千発は早朝より打ち上げられていたが、これよりいよいよしげく打ち上げ、夕空夜空を彩り、その音は山狭に響きわたる。」

和田河原の煙火

当時は、露天が並び横瀬川は見物客でにぎわった。
仕掛煙火が最高潮に達しやがて12時になると神輿は里宮へ帰る。

個人で作り、打ち上げる身近な煙火として、また中には年季奉公一か年分の賃金全部をこの一発の煙火にかけた人もいると言われている程、豪快で人気のあったものだと今に伝えられている。

この煙火を「和田河原の煙火」と言われ、横瀬郷は塩硝燒き技術が優れていた為、江戸時代まで鉄砲所持者が多かった。

狼煙(のろし)と猿田彦命


猿田彦命を先導した祭りは、現在の神事で行われる典型になっている。
神話に残るニニギの先導であるが、秩父では煙火や狼煙が猿田彦命と関連づけられているところが興味深い。

吉田の椋神社

秩父吉田の龍勢の里、椋神社は猿田彦命を祀る。

椋神社
吉田町の龍勢

「皆野日野沢」でも大みそかに猿田彦命の先導により形代を村堺の川に流していたという。また、昔は、狼煙をあげていたそうだ。

インディアンも狼煙をあげる(wikipedia)

塩硝燒は平家の伝統技術

塩硝燒(えんしょうやき)とは、黒色火薬(火縄銃、花火などに使う)製造の原料となる硝石を製造する作業のことで、横瀬郷の伝統の特殊技術。

自然の塩硝は日本ではほとんど手に入らないため、中国からなどの輸入に頼っていた。

特にその交易で繁栄し塩硝生産されていた代表的な地域は、白川郷の和田家であるとされることから、白川郷は平家落里であることが秩父との共通点。

塩硝燒きの伝統は、九州の薩摩、山口県周防、広島県安芸、四国の愛媛県伊予、徳島県阿波、飛騨白川、長野県信濃、東北の秋田県出羽最上地方、仙台地方などにあり、関東では「秩父のみ」伝わっている。

平家の技術が武蔵の武士を強くした。その技術は、源氏の財源力にもなっていく。
※参照『横瀬のあゆみ』より

鉄砲祭:ルーツは播磨国


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