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【歴史】横瀬七郷武甲の山が 俺が稲田を見てござる(古歌)
江戸からみて秩父は西北にあたる。
秩父の霊峰、武甲山、三峰山、両神山は西北にそびえ、
徳川家康は、その方角が聖なる「要」であると捉えていた。
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西武線に乗って横瀬町へ入ると大きな武甲山がそびえる。
東(東京)から帰省する時に見える武甲山はとかく目立つ。
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トンネルを抜ければ、中世、要塞をおいていた所であり、そこに武甲山が座す。武甲山信仰の始まりだ。
その入口が芦ヶ久保にあたる。
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そこに茂林寺があり、古くは、秩父札所巡礼の最初であったそうだ。
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武甲山を補陀落としてみていた熊野信仰の影響あり
懺悔堂、船乗り観音、海の安全、海民の歴史、補陀楽山、
人々の浄土を導くのが、道案内をしてきた猿田彦命であり、
武甲山へいざなうために猿田彦命は、八坂の神、スサノオの官吏の元、
山里で静かに呼吸をしている。
縄文中期の4300~4500年前から、横瀬町に人が住んで暮らした痕跡がある。
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宇根遺跡があるように、横瀬町で最も古くから文化が栄えたのが、芦ヶ久保~宇根地区と考えられる。
「宇根遺跡」--------------------
横瀬町の歴史をさかのぼると、およそ1万年前の宇根遺跡がある。
2500年前には、寺坂棚田のある明智遺跡、花井遺跡などがあり、縄文から続くアイヌ人の住居だった横瀬町が想像される。
宇根遺跡は横瀬駅構内東側にあった。
西武線の開設のため昭和42年に発掘調査が実施されたところ、縄文時代早期の集落跡で、早期石鏃(やじり)、縄文土器、石器等が出土している。
西武線が開設される前の昭和45年まで、そこに小さな円墳(塚)があり、
大きな松が2本植えられていたそうだ。
その木の側に石碑があったというが、今はその影も形もなく詳細はわからない。
かつて宇根遺跡にあったという「ジジババ石伝説」は、
おじいさんとおばあさんが寝ているような形をした岩だとされる。
「夏の暑い日、じいさんとばあさんが草刈りをしていた時、
あまりにも太陽が暑いので、木の下に入り眠ってしまった。
目が覚めると日が西に沈もうとしていたので、この田の草を刈るまでもう一度、太陽をもどれ。と叫んだところ、太陽は頭の上に戻ってきたけれど、
じいさんもばあさんも焼けこげて石になってしまった。」
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横瀬の歴史
奈良時代(715年)に、「郷」がもうけられ、
地方の藩が住民を治めるのと強制的に金銭や米などの産物を集めるのに便利であった「横瀬郷」が構成された。
現在の宇根・根古屋・中郷・苅米・川東・川西・芦ヶ久保の七地区が
この郷を構成する地域単位にあたる。
江戸時代の横瀬郷には民家が571軒もあり、近くの民家から3キロも離れた一軒家や三、四軒が固まって人里離れて暮らす集落もあった。
そのほとんどが農業と林業によって生計を立てていた。
横瀬町の中でも、宇根・根古屋地区は武甲山の麓にあるため、
武甲山信仰が深く根付いている。
横瀬には、武甲山山頂から神がまっすぐ降りてくるので、
家の中央に玄関を作らない風習がある。
神が通る所に玄関があるのは良くない為、玄関は真ん中に置かれていない。
我が家でもそうだ。これは神社でも鳥居をくぐったら中央を歩かない風習があるのと同じ。
横瀬の文字が古文書に初見されるのは、南北朝時代の「安保文書」より、
1340年安保光泰の譲状に「秩父郡内横瀬郷」とある。
これ以前は、丹党安保氏の所領であったとされる。
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丹党安保氏は秋田県鹿角へ行っている。
(鹿角の安保氏の末裔より系譜に横瀬氏の名があるという)
万葉集に、「横瀬七郷二十五人衆 弓矢とる手に今日は鍬」の一首がある。
横瀬町は平家人の落里であり、武士から農民に帰農している人たちの
組織的集団であった。
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江戸時代まで鉄砲所持者が多かった。
平安時代、京都の都の武芸者は地方に出向き活躍しはじめる。
丹党なる武士団もその始まりは京都にあり、
この同族の武士団は秩父、入間、児玉の地を広く占拠する。
彼らは「坂東」率いる武士団を形成。
奥州合戦にも参戦し東北地方まで勢力を及ぼした。
横瀬町にもその武士団が住むようになり、その数およそ二十名。
みな、それぞれの知力があり、僧侶、修験者、医者なども含めた武士集団であった。
しかし、そのような武士団が力をつけてくると、幕府はその力を恐れ厳しい政策を進める。
17世紀後半には、幕府が出した政策に「分地制限令(※1)」となる決まりがあった。その政策が厳しい為、農民が自分の土地を小分けして零細農家(※2)として生きることを余儀なくされた。
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しかし、一揆、略奪、侵略が増えていく中でも、横瀬郷が荒れた記録はない。
徳川幕府から特別視されていたという横瀬郷。
松平長七郎伝説や天皇家との深い関わり、忍藩(おしはん)にいたのが松平家であり、先祖はその松平家に仕えてきた家臣だ。
代々、徳川家・松平家に仕えたものは、日本全国へ名主になるために派遣されたと聞く。
先祖は、古くから武甲山を見守るために移り住んだと聞いているが、ほとんどの文献、資料に武甲山について書かれているものはない。
先祖の古文書にも武甲山の記録がないことは、
「里山」として位置づけられる「祖霊信仰」として崇められていたからだろう。「歴史としては見られない山」であったが、奇しくもセメント開発のために負の遺産として注目を浴びるようになる。
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※1 江戸時代,農民の田畑所持地の分与に関する法令
※2 農地が少なく、賃労働などを兼ねて生計を立てる農家。
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