足るを知りたいと思った
29年間生きてきた。
ある人からしたら、たった29年。
ある人からしたら、もう29年。
私自身の感覚は前者。
”たった”と思うことができている今の自分は割と好きだ。
数年前の私は毎年当たり前にひとつずつ重なっていく年齢に対して、どこか嫌悪感のようなものがあった。
「⚪︎⚪︎歳が〜の適齢期」とか、「⚪︎⚪︎歳だと〜は難しい」や「⚪︎⚪︎歳なのに〜?!」のような勝手に決められた”前提”や多数派の”当たり前”が溢れている。
目耳にしたくなくても、何らかの人間関係や媒体を通してそれらは私たちに勝手に近づいてくる。
離しても離しても何度でもくっついてくるそれらは、私自身のこころにももれなくやってきた。嫌悪感の粒子になって、私にふりかかって蓄積していたみたいだ。
周りをふと見渡してみても、ほぼ全てといっていいほど人間が作り出したものでこの世が出来ていることに圧倒される。
物理的な物ばかりじゃなくてこの世に存在するルールも、ぜんぶ。
さっき書いた年齢に対する多数派の”当たり前”も、考えてみたら(言葉を選ばずに表すと)どこかの誰かが勝手につくったものとも言える。
統計や研究データが実証しているような事柄ももちろんあるけれど、
そういうのは一旦置いておいて私が日々気にしていることのほとんどのことは私自身が勝手につくりだした不安や絶望なのかもしれないと思った。
「底の見えないその沼から出ておいで」と自分のこころに話かけてみる。
自分の手の中にないもの、誰かが持っているのをみたときとか、
自分がしたくても出来ないことを、出来ている人をみたとき、
羨ましくなるし、私もそうなっているはずだったのにな…と悔しくも感じるよね。
挑戦したのに失敗しちゃったことを、誰かが成し遂げて進んでいくのをみたら自分に悲しくなったり、自分に絶望してしまいそうになるよね。
最近のわたしはこんな感じで、悲しくなることが多かったな。
その自分のことをうまくフォローしてあげられてなかったから、空回りしてずっと同じ輪の中をグルグルと回っていたのかもしれない。
そして、うまくいかないときほど、さっき書いた世の中の勝手な”当たり前”に気付かぬうちに縛られそうになっている、もしくはこころを縛られているんだと思う。
日々noteの投稿を読んでいると、誰かに、何かに縛られることなく心の声や自分の気持ちを見ることができる。
年齢も性別も関係なく、いろんな人がいろんなテーマについて思うままに書いているからこそ、そこに並べられた言葉はたくさんの色の絵の具で書かれた音符のように見えて、リズムが生まれそうなくらいワクワクする。
かくいう私自身もここ(note)は素直に書きたいと思える場所。
こういうなくても平気なんだろうけど、あってよかったと思える場所が私にもあってよかったなと思う。
旦那さんや家族、大切な人たちはなくてはならない存在だから、
そういう存在じゃない、もうひとつの場所って感覚。
できないことに目を向けて悲しくなってはそのまま落ち込んでいたのは、
クヨクヨしたり悩んだりする方が、自分にとって楽だからなのだと思う。
昔から何かにつけてモヤモヤ族だから、悩むのも考えるのも結局好きでやっているんだろうな。(笑)
だけど、この記事を書きながら私の周りの”ある”ものに目と心を向けてみたら、なんだかいつもより少し穏やかな気分になれたような気がする。
私にもあったか、あ〜こんなことも!気付こうとしてあげられずここまできてしまったね。お、あれもあったか!まだまだこれからじゃないか〜!ってたとえ一瞬でも、少しだけでも、明るく考えられたらヨシなんです。
時々、気付いたとき、気が向いた時でいいからそのクヨクヨをポイっとどこか遠いところへ投げてみるのもいいかもな。
(私は実際に胸に手を当てて、何かを握るような手の形にして、ほんとうに遠くにポイっとするようなイメージで手腕を動かします。やってみると、なんだかすっきりしますよ!笑)
足るを知ろうとしないかぎり出会えない自分がいるとしたら、
その自分のことも知っておきたいから、いつもの考え方を少しだけ変換してみるのもいいな、と思ったという話でした!
今回はここまで。
また次回の記事でもお会いできたら嬉しいです。
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