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死中に活を求む・・日露戦争のある少尉

 これは今から120年前、明治37年~38年(1904年~1905年)に行われた日露戦争で、絶体絶命のピンチから立ち直り、大きな功績を挙げたある騎兵少尉の話です。日露戦争では多くの逸話がありますが、この話も大変示唆に富んでいます。「死中に活を求める」言うは易く行うは難し。
 日露戦争の終盤、日本軍はロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する。奉天会戦である。明治38年2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の包囲・殲滅には失敗した。ちなみに、大東亜戦争終戦までは3月10日は陸軍記念日でした。

 さて、物語は奉天会戦の始まる少し前に遡ります。満州軍総司令部から各軍司令部に通達が着て、今度は奉天で戦をするが、大事な戦だからよく前面を偵察して報告せよと言ってきました。当時、近衛後備旅団(沙河会戦での大活躍から「花の梅沢旅団」と呼ばれた。)は満州軍の一番右翼、東の方に配置されていたのです。各軍とも担当正面の前方を一生懸命に偵察している時に、丁度士官学校を優秀な成績で卒業した一少尉が梅沢旅団に参りました。
 非常に優秀だというので、少尉でしたが、旅団司令部付になり、たまたま、総軍から梅沢旅団に割り当てられた偵察正面は露軍の一番左翼の方面で、非常に大事なところであるから、よく調査せよと言ってきてているので、頭も良いし人間もしっかりしているから、彼を偵察にやろうと梅沢旅団長自身が決めました。

 その時の旅団司令部付参謀が、後に関東軍司令官菱刈隆大将、当時少佐でした。菱刈参謀が本人を呼び、梅沢旅団長の前で、地図を拡げて懇切丁寧に偵察の意図を示しました。5名の兵を付けるから、大事なことは、逐次兵を伝令として報告させよと言い、心きいた兵を人選し、馬も良い馬に乗せて出発させました。
 敵の翼の方に出るため迂回を続けていたある日、昼食のためコウリャン畑の中で小休止をしました。季節は冬の2月頃、場所は満州(現在の中国東北部)ですから、コウリャンの葉が落ちてしまって幹だけ残っていたので、それに馬の手綱を結びつけて皆で飯を食べ始めた訳です。兵が5名もいましたので、誰か1名を歩哨に立てて四周を警戒させればよかったのですが、士官学校を卒業したばかりの青年将校ですから、つい気がつかなかったのでしょう。
 それを高い所にいる敵兵が見つけ、約1コ中隊が6名を包囲し、急射撃を浴びせかけました。皆はあわててしまって、自分勝手にどこかえ行っていまい、その少尉もやっと自分の馬の手綱だけをとって馬に乗ったのですが、全部を集める余裕がありません。全く困り果ててどうしようかと思ったが、そこで責任をとって自決することもできずして、遂に独りで旅団司令部に帰ってきてしまうのです。

 旅団司令部でと梅沢少将と旅団参謀菱刈少佐の前に立った少尉は、率直に今までのことを隠さずに報告し、自分の不心得から、こんな重大な過失を犯したことを謝罪しました。これを聞いておった梅沢将軍は、この時非常に大きな声で少尉を怒鳴りつけたのです。「お前は、如何に士官学校を出たばかりの青年将校とは言え、5名の部下を死なせて、その父兄に対し、また陛下に対し何とお詫びする気か。切腹してお詫び申せ。」と叱りました。
 本人は、もとより、その気でおったものですから「はい、承知しました。おめおめ帰って来たのは何とも申し訳ありませんが、過失は過失として報告する義務があると思い込み、ここへ帰って来ました。すぐに自決したします。」と言って旅団長の部屋を出て行ったです。
 その時、梅沢旅団長は直ちに菱刈参謀少佐に耳打ちしました。直後、菱刈参謀は武昌治副官を呼び、次のことを命じました。「武副官、君はすぐ少尉の後について行け。彼の宿舎は、この部落の一番端の筈だ。そこへ言って様子をよく見ておれ。彼が本当に割腹することが判ったならば、その前に止めてくれ。自決させてはならぬ。そして、今度は5人の兵隊はいないのだから、1人で同じ任務をもう一度やれ。」ということを申しました。

 武副官は、「はい!承知しました!」と言って、少尉の後を気づかれないようについていきましたところ、少尉は自分の部屋に入りました。
 副官は見つからないように隠れて見ていますと、最初は泣いておりましたが、やがて涙を拭き、小さな机に向かい多分遺書だと思われる手紙を書き始め、それが終わると軍刀を出して腹を切る準備をはじめたので、武副官は時頃は良しと、そこに入っていったのです。「〇〇少尉、自決するのか。」「まことに申し訳ありません。自決して5人の兵の父母や天皇陛下にお詫び致します。」「そうか、君がそれだけの決心をしたのならば、敢えて止めはしない。しかし、先輩として忠告するのだが、どうせ死ぬつもりなら、こんなところで自決するよりも、敵の中へ行って自決したらどうか。同じ任務をもう一度一人で行って偵察して来い。そこで戦死すれば何分の一かのお詫びが出来るであろう。ここで腹を切ってしまっては、それこそ犬死になり、自分は無意味だと思う。」と諭されたのであります。
 少尉は、しばらく考えておったそうですが、「そうですか、よく判りました。私の馬も異常なくそこにおりますがから、ただ今から行って参ります。」と行って、直ちに武装を固めて出発しました。

 今度は、初めから死ぬ覚悟ですから、梅沢旅団長から貰った命令のとおり、極めて勇敢に行動しているのです。その日の夜に入って、ある高地に達したところ、大砲20~30門が陣地を敷いているのを発見しました。ここに砲兵陣地があるならば、この付近に予備隊もいるに違いないと思って探ってみると、約3~4000名と思われる1コ連隊以上の部隊が天幕を張っていることも判った。この位で帰ろうとしたが、士官学校で戦術を教わって来たばかりなので、砲兵陣地があり予備隊らしきものがあるとすれば、近くに軍司令部などもあるかも知れないと考え、彼は、また馬に乗ってその辺を偵察したのです。
 今でも勿論あると思いますが、昔は小型のロシヤ語辞典というのがありました。彼も敵兵から「誰か」とロシヤ語で問われると、簡易辞書で覚えた「味方の斥候、今帰った。」と答えて、どんどん敵中に入って行くのです。何しろ、いつ敵から弾を撃たれても構わない、また、いつ殺されても良いという覚悟を決めているので、怖いものがありません。
 潜入していくと、大きな天幕があるので、おかしいと思って、その辺に馬を繋ぎひそかに偵察して見ると、参謀肩章をつけたロシヤの将校が大勢で何か机の上でやっているので、これは軍司令部に違いないと、その状況をつぶさに見て帰途につきました。
 帰りの時も「味方の斥候」で敵をごまかして、遂に夜明けまでに旅団司令部に無事帰り着くことができました。

 旅団長室に入ると梅沢将軍が開口一番、「お前は未だ死なないでいたのか。」と大声で言いました。そこで、「はい、死ぬつもりでありましたが、どうせ死ぬのならば敵の中で死のうと思い、昨夕再び偵察に出ましたところ、行った先でこういうものを見てきました。」と結果をつぶさに報告したのでした。それを、傍らにいた菱刈少佐参謀と武副官が、逐次書き取りました。
 旅団長は聞き終わって、「よし、よく判った。直ぐに総司令部に報告するが、総司令部から報告事項について何か聞いてくるかも知れないから、それまでは、俺に言われた自決をしてはいけない。判ったか。」と言われ、「はい、判りました。謹慎しております。」と言って自室に帰り、謹慎していました。

 奉天会戦中満州軍総司令部において最も有利な報告だと言われたのが、この梅沢旅団の一騎兵少尉のその報告だったのです。総司令部の知ることを望んでいた敵の最左翼の配備及び地形等が、どうなっているかということがすっかり判って、総司令部では非常に喜びを感じたものです。
 そこで、奉天会戦が終わると直ぐ総軍司令部から梅沢旅団長に対し、あの騎兵少尉に大山元帥から感状を与えるので手続きをせよと通知してきました。この時、梅沢旅団長は武副官に命じて、総軍司令部に次のような返事をいたしました。「その御好意は、まことに有難いけれども、旅団長としては考えるところがあるので、殊勲甲にしてやりたいと思うが、しかし感状だけは今回は御辞退申し上げます。」といって遂に感状は貰いませんでした。
 ところが、偶然の幸いと申しますか、先刻四散して死んだと思っていた5名の兵が2~3日中には皆生きて帰ってきたのです。兵が5名とも生還したので、少尉の殊勲には何の支障にもならず、梅沢旅団としては大変な功績となり、その将校は殊勲甲を戴きました。

 いよいよ奉天会戦が一段落した時、その将校は菱刈少佐参謀に呼ばれ、「あの時、旅団長が君を叱ったのは、君を生かすために叱ったのだ。それだからこそ、あれだけの良い報告が出来たのだ。」と聞かされました。そうか、そんなにまで旅団長は自分のことを考え、無駄死にさせないで生きさせようとしてくれたのかと、ことごとく感激してしまったのです。それから、その将校は大変勉強し、やがて日露戦争が済むと、彼は一生懸命に頑張って陸軍大学校に入学、私より4年前に優秀な成績で卒業の上、恩賜の軍刀を戴き、その後はフランス駐在武官などもやられ、最後は中将でやめておられます。

 「死中に活を求める」と言うことは、平和な世の中に生きる私達にはピンと来ないことかも知れません。「死の覚悟」ができた人は、全ての欲や邪念から解放され、ひたすら己の道を突き進むと聞いたことがあります。一切の欲や邪念を捨て去り、大変困難な状況の下においても、昼夜を分かたず、「すべきことをひたすらする」ことより、結果として大きな目的・目標を達成していたと言うことでしょうか。
 この話は西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた偉人山岡鉄舟にも、また宮本武蔵の「巌の身」にも通じるものがあります。

 さて、武昌治副官は後に大隊長となり、後に大東亜戦争の末期、南西太平洋の激戦地ラバウルの第8方面軍司令官となった今村均大将の若かりし頃に対して、以下の様に述べています。
 「〇〇少尉が殊勲甲になり、また陸軍大学校を優等で卒業するというふうになったのは、梅沢旅団長のお叱りの効果である。お前達も、地位が上がって人を叱る立場に立つことはもちろんあろう。叱るということは、士気を促すことであるので、殊に全員の注意を喚起するためには誰か1人が悪いことをしても、皆のためにこんなことはやってはならぬ、こんな時はこうせよ、と皆に教える場合には声を大きくして気合いを入れることもある。しかし、上官特に指揮官となった以上は、やはり下の者を怒りの感情により、人格的にいやしめないことが大切である」と、懇々と諭されたとのこと。
 今村均氏は戦後に「武昌治氏は、後に大佐で辞めておられますが、私が少尉の時に聞いたこの梅沢将軍と一少尉の話は、今でも忘れられない教訓であります。」と述べています。


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