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生命も名も金も要らぬ人は始末に困る

 明治維新の立役者、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた偉人、山岡鉄舟。江戸城無血開城ための西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた、西郷隆盛と山岡鉄舟の膝詰め談判は後世に語り継がれるべき逸話です。鉄舟に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われています。混乱が拍車をかける現代に、命も名誉もお金も要らず、無我無私の忠胆なる人が求められています。
 
 山岡鉄舟と旧友益満新八郎の2人が昼夜兼行で駿府に到着したのは慶応四年(1868年)三月九日のことだった。すぐに伝馬町の大総督の本営に赴き、西郷隆盛に面会を求めた。
 西郷に面会するや
「先生!」
と、全身が一振りの剣に化したような気迫で、切っ先き鋭く切り出した。
 「この度の朝敵征討の御趣旨は、事の是非曲直を論ぜず、なんでもかまわず遮二無二進撃されるおつもりでしょうか。それとも朝命に服しさえすればそれでよいというのでしょうか、先生のご決心のほどを承けたまりとうございます。」
 禅の問答でいう「虎口に身を横たえる」もので、全生命を相手の前に投げ出して探り棒をいれたようなものである。あるいは相手の剣尖を押さえて、試してみたようなものでもあろうか。
 西郷は例の巨眼をギロリと輝かしていった。
 「拙者が官軍の参謀として出向いて参ったのは、もちろん人を殺すためでもなければ、国家を騒乱に導くためでもござらぬ。ただ朝廷にそむく不逞のやからを鎮定するためでござる。しかし、先生はそのようなわかりきったことを、なぜお訊ねになるのでごわすか」
 西郷もまた鉄舟に対して、「先生」という尊称を用いている。こういうところが西郷の偉大なところで、相手が朝敵になった幕府の士であろうと、卓を叩いていきまくようなはしたないことは決してしない。
 「いや、お仰せご尤もでござる。官軍とあるからは、そうでなければならぬと存じます。そこでおたずねしたいのですが、私の主人徳川慶喜は、専ら恭順謹慎し、上野東叡山の菩提寺にとじこもり、朝廷の御沙汰をお待ち申しております。生死いずれなりとも朝廷の御命令に従う所存でございます。それなのに何の必要があって、このような大軍を進発なさるのですか」
 鉄舟は西郷の答えの逆手をとって、こう詰め寄った。
 「生死は朝廷の意のままとか、恭順謹慎とかいわれるが、しかし現に甲州一円は官軍に抵抗して、戦端を開いたという報告がごわす。先生のお言葉だが、恭順などとは全くもって信用は出来申さぬ」
 「主人慶喜はもっぱら恭順謹慎の実を自ら示すとともに、家臣にも厳しくその旨を命令しておりますが、何分にも沢山の家臣の中には主人の意志に反し、反乱を起こすものもあることは事実です。しかしそんなものは徳川家とは絶縁した鼠賊の輩であって、断じて主人慶喜の関知するところではござらぬ。いま先生が仰せられた甲州地方の反徒は、それらの鼠賊にすぎません。そういう状態であるからこそ、それらと混同されないために拙者が主人慶喜の赤心を朝廷に訴えるべく、こうして危険を冒して推参した次第でござる。どうか先生、大総督宮殿下にこの旨、お取りなしのほどを、ひとえにお願い申し上げます」
 鉄舟は赤心を披瀝して陳情したが、西郷は黙って腕組みをしているだけで、容易にウンとは言わなかった。
 
 西郷がいつまでも答えないので、鉄舟は一膝進めていった。
 「私は主人慶喜に代わって、慶喜の本心を礼を厚うして言上したのです。先生がもしこの慶喜の心をお受け下さぬなら、致し方ございません。私は死ぬだけです。そうなると、いかに徳川家が衰えたりといえ、旗本八万騎の中で決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらぬ。そうなれば一徳川のみでなく日本の将来はどうなりましょうか。それでも先生は進撃なさるおつもりでござるか。それならもはや王師と申せますが、ひたすら謹慎して朝命に背かぬことを誓う臣下に対し、何ら寛大な御処分がないのみならず、敢えてこれを討伐するなら、天下これより大乱となること、火を見るよりも明らかでござる。お願い申し上げます。先生!どうかその辺の事情をご推量下さい。」
鉄舟は必死となって訴えた。この一言は、全身心を捧げての諸手突きの鋭さで、西郷の心臓を刺し貫いた。
 「この間から静寛院宮や天璋院殿のお使いが来ていろいろと訴えるが、ただうろたえているばかりで、さっぱり道筋が立たざった。先生がわざわざお出で下さったお陰で江戸の事情もよく判り申した。ご趣旨を大総督宮に言上しますから、しばらくここでご休息下さい」
こういって西郷は出て言った。

 総督宮の前で参謀会議でも開かれたのであろう。時間にしてはさほど長くもなかったが、再び西郷が姿を現すまでの時間は、鉄舟には針の座に坐って待つ気持ちであったろうとおもう。
やがて西郷が戻ってきて、大総督宮からの申付として五箇条の条件を記した書類を渡した。鉄舟が謹んで受け取ると、それには、
 一、城を明け渡すこと
 一、城中の人数を向島へ移すこと
 一、兵器を渡すこと
 一、軍艦を渡すこと
 一、徳川慶喜を備前に預けること
とあった。
 西郷は、鉄舟が一応目を通すのをみて、おもむろにこういった。
 「どうですか。この五箇条の実効があがるならば、徳川家に対し、寛大の御処置があると思いますが・・・・」
鉄舟は、西郷の顔をジッとみつめながら、
「謹んで承りました。四箇条は異存はありません。ただこのうち一箇条だけは、拙者としてはどうしてもお受け致しかねます。」
と、キッパリ言い切った。
 「それはどの箇条でごわすか」
 西郷は、いささか心外なというような顔色で、不審げにこう問いかけた。
 「ハイ、それは主人慶喜を備前に預けるという箇条でございます。これだけはなんとしても承服できません。これでは徳川家に恩顧を受けたものは、一人として承知しないでしょう。つまり、こういう条件を与えるということは、私どもに出来ないことを強要して反抗させ、無理に戦争に持ち込み、数万の生命を奪おうという挑発であって、天皇の軍のなすこところではありません。そうなれば先生はただの人殺しということになりましょう。その意味で、私はこの一箇条を肯うわけにはまいりません。」
 鉄舟が断固として、こういうと、
 「朝命ですぞ!」
 西郷も思わず語気がつよくなる。
 「たとえ朝命であろうと、私においては承服できません。」
 「朝命ですぞッ!」
 西郷は重ねて大上段から、こう浴びせてきた。たいていの者なら、朝命に背く不届きを憤る西郷の爛々たる巨眼に見すえられて、たちまち居すくんでしまったであろうが、鉄舟は「寒流、月を帯びて澄めること鏡の如し」とでもいった心境で微動だもしない。しかし、さすがは剣の名手、強引な無理押しはしない。

 サラリと身を転じた。
 「それならば先生!先生と私と立場を変えてお考え下さい。先生の御主人島津公が、もし誤って朝敵の汚名をきせられ、官軍が城下まで攻め寄せてくるというとき、島津どのは恭順謹慎しており、先生が只今の私のように主家のために官軍に使いし、しかもこのような朝命が下ったとしたら、先生は唯々諾々として、その命に服して島津公を他家に預けて平然としておられましょうか。君臣の情というものを、先生はどうお考えでしょうか。私には情において到底忍びがたいものがございます。」
 鉄舟が、こう急所をつくと、西郷はしばし黙然としていたが、ややあってから決然としていった。
 「わかりました。先生のお説は至極ごもっともでごわす。徳川慶喜どののことは、吉之助一身に引き受け申した。先生、必ず心痛無用でござる。」
 西郷の一言は、泰山のような重味があった。鉄舟も喜びの色を面に表して、
 「その点さえご承知下さらば、他の条々は決して違背致しませぬ。鉄太郎、謹んでお請けいたします。」
 そのとき南州は、つと進んで鉄舟を抱きかかえるようにして背を叩きながら、
 「虎穴に入って虎児を探るというが、先生が死ぬつもりで来られたことは、おいどんにはよくわかり申す。けれども一国の存亡は先生の双肩にかかっておりますぞ。どうか生命を粗末にせず、自重して下さい。」
 こうしんみりと、そして熱っぽくささやいたという。
 こうして、両雄の誓約は成立した。
 
 明治元年3月13日、勝海舟と西郷隆盛がその誓約の実現について打ち合わせるべく芝高輪の薩摩屋敷で会見することになった。

 後に海舟が言うには、西郷はため息をついて、
 「流石は徳川公だけあって、エライ宝をお持ちだ」          というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、どんな宝かと反問すると、
 「イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。」というから、どんな風に腑が抜けているかと問うたら、「イヤ生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」と、西郷は驚いていたとのこと。
 
 世に西郷の格言とて、“生命も名も金も要らぬ人は、始末に困る”云々と語り伝えられている所以である。日に日に混迷が増す現代において、第2、第3の山岡鉄舟が求められている。しかし、1日にして山岡鉄舟はならず、日々の鍛錬が明日の山岡鉄舟を作る。

参考文献 大森曹玄著「山岡鉄舟」(春秋社)
 
 

 

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