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2022年1月14-15日公開作品紹介!!『ハウス・オブ・グッチ』『スティルウォーター』『ひかり探して』など

はじめにロッテントマトを持ち出すバカバカしさについて少し雑談を。

最近、映画を紹介するライターたちが、よくやる行為が「ロッテントマトでは~」という、信憑性のない評価サイトを持ち出して、「だから最高な映画なんですよ!」とバカなことを言っていることが多いです。

そもそもロッテントマトって何かわかっているのでしょうか?

ロッテントマトとは、評論家やライターしか点数を付けられないサイトであることから、信憑性が高いと思っている人が多いのですが、全くの逆です。簡単に言うと、早く試写で観られる限られた人しか評価を入れられないということです。

試写といっても様々なパターンがあって、日本の場合も最初にテレビのレギュラーをもっている人や、芸能人などはマスコミ試写より、先に別の個別の試写が行われることもあります。これが行われる時というのは、観る前からすでに番組で取り上げることが前提。つまり酷評するなんてことはあり得ない空気に包まれているわけです。立場的には、ほぼ関係者側なんです。

そんな人たちが付けた評価が高いのは、当たり前のことなんですよ!!

だから99%とか98%っていうあり得ない評価が打ち出されるわけですし、どこを切り取るかも問題なんです。映画のチラシとかにロッテントマトでは~と書いている時に、よく見てもらうとわかるのですが、〇月〇日時点と書いてあるんです。

このように、限りなく関係者に近い評論家やライターが入れた評価しか反映されていない、限定的な時期を切り取っていることが多いので、私はロッテントマトでは~なんて書き方は、恥ずかしくてできません。

個人ブログなら別に自由ですが、ウェブや紙媒体に載っていながら、ロッテントマトでは~という書き出しをしているライターは、そもそもロッテントマトが何なのかも理解できていない人なので、そんな映画評価は信用しない方がいいです。

だいたい宗教や文化、価値観も全く違う、海外の評価を持ち出してくる意味がよくわからない。

もうひとつ、言いたいことが......今週だとクリント・イーストウッドの『クライ・マッチョ』含め、近年のイーストウッド作品に言えることですが、はっきり言ってストーリーが酷いですよ。監督術としては、申し分ないのですが、脚本家選びがポンコツで、毎回消化不良な作品ばかり。

そんな象徴的作品が『クライ・マッチョ』です。それに対して「さすがクリント・イーストウッドですねぇ~」とか言ってる映画ライターの2割ぐらいは本当にイーストウッドが好きな人だと思いますが、残りの8割は「なんだかよくわからないけど、イーストウッドだから素晴らしいと言っておけば間違いないだろ~」って人ばかりです。

『ハウス・オブ・グッチ』一流ブランドの知られざる裏側!銃が出てこないだけでマフィアの抗争と同じだ!!

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イタリアのファッションブランド「グッチ」は、その名の通りももともとは、グッチオ・グッチによって設立され、その後もグッチ一族によって引き継がれた企業であった。しかし、現在は「グッチ」というブランドにグッチ一族はひとりもいない。

企業の歴史を辿ると、創業者一族が誰もいなくなっているということは、決して珍しい話ではないが、これほどまでに劇的な結末を迎えた企業も珍しい。

今作は史実として、1995年に起きたパトリツィア・グッチによる、夫マウリツィオ・グッチ暗殺事件を描きながら、パトリツィアの目線で描かれる。

リドリー・スコットとしては、『ゲティ家の身代金』に続いての実話ベースの作品となる。

誰を味方につけ、誰を敵とみなす、誰が信用できる相手か見抜く……いった駆引きは、剣や銃が出てこないだけで『グラディエーター』や『最後の決闘裁判』『アメリカン・ギャングスター』など、多くの駆引きによる心理描写を描き続けてきたリドリー作品と共通するものも多く感じられるし、リドリーが監督に選ばれた要因のひとつであるだろう。

事件のこともあって、世間一般的には、財産目当てで近づいたとされているパトリツィアではあるが、 夫婦関係については、俯瞰的に第三者の視点から読み取ることしかできない。

そのため、サラ・ゲイ・フォーデンの原作小説同様に、実際は謎に包まれている部分も多く、今作で描かれていることがフィクション混じりで、どこまでが真実なのはわからないまでも、描き方としては、そこには愛は存在しており、グッチという大きな存在によって運命を翻弄された男女の物語としている。

レディー・ガガの見事な演技がそう感じさせているのかもしれないが、きっかけは何にせよ、愛の芽生えと出発点は同じであったはずが、 欲に溺れた女、愛に溺れた男の運命として、異なるかたちで枝分かれした悲劇にも感じられる。

結果的にグッチ一族を崩壊に導いてしまったのは、パトリツィアとマウリツィオではあるが、 グッチという大きすぎる存在によって、人間性までも見失ってしまったという点においては、ふたりもまた被害者といえるのかもしれない。

時代の変化、トレンドの変化をデザイン性による変化として見せるには、一般的に理解しにくい部分があることから、音楽によって時代の変化を表現している点は、工夫がみられる。だからこそ是非、音楽の使い方にも注目してもらいたい。

↓日刊サイゾー寄稿記事

https://www.cyzo.com/2022/01/post_300840_entry.html

『クライ・マッチョ』脚本家ニック・シェンクの過去2作の組み合わせでしかない!!

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『運び屋』や『リチャード・ジュエル』に関しても、決して悪い作品ではないが、傑作というには、ほど遠い作品を連発している。しかし「さすがイーストウッドだ」とか言っている人が多くて、いったい何処を観ているのだろうか…….

撮影方法や技術面に関しては、否定することは全くなくて、脚本に入っているかどうかの問題もあるが、物語の構築が単調でしかない。

クリント・イーストウッド監督作品は、なんでも素晴らしい作品と言わないといけないようなバイアスがかかっているのは、いかがなものかと思う今日この頃。

今作も地味な作品の割には、特別濃厚な人間ドラマがあるわけでもなく、描いていることは王道でシンプル。しかも今回は全体的なプロットが『グラン・トリノ』と『運び屋』を組み合わせたようなものであって、それは2作の脚本家ニック・シェンクを再び起用していて、脚本家の問題にも思える。

もはやイーストウッド作品に新しさを求めるのは無理な話で、いつものような作品を撮る監督だと割り切って観るのであれば、ある程度の安定感はあるだろうが、観ている側が無理に良い点を探さなければならない負担に疲れる。

当てつけというべきか1週間差で公開される元イーストウッド組ロバート・ロレンツの『マークスマン』がコテコテに、麻薬カルテルや人身売買といった治安の悪さを主張した「ザ・メキシコ」的作品だったのに対して、別方向からのメキシコのアプローチが随所にあることと、少年ラフォ役のエドゥアルド・ミネットの演技が上手いのが唯一の利点だ。

イーストウッドが終始、学校に孫を迎えにきたお爺ちゃんにしか見えず、悪役の女性やメキシコの未亡人からアプローチをかけられる不自然さを感じてしまう。そこはイーストウッドの女性好きな部分や、いつまでも自分を美化する意識が抜けていないようでならない。

未亡人と孫たちと擬似家族のような関係が築かれていくが、たまたま会った80代後半か90代の老人に恋愛感情を抱くだろうか……物好きと言ってしまえばそうだろうが、さすがに無理がある。

『スティルウォーター』アメリカ肉体労働者階級の父親が娘の救出に挑む!!

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アメリカの田舎、オクラホマ州スティルウォーターに住む、日中は肉体労働で汗をんがし、夜は家やバーで酒を飲みながらスポーツ観戦をするような典型的な労働階級の父親ビルが、単身で言葉の通じないフランスに無実で投獄されている娘を助けるために向かうところから物語は展開される。

娘のアリソンとは関係が決して良いものとはいえないが、母親はすでに亡くなっている。祖母も高齢ということもあり、頼れる人物が他にいないことから、ビルが行くことになったという状況である。

アリソンから手渡された手紙を弁護士に渡すが、返事は絶望的。しかし、アリソンに正直に言えないビルは上手くいった嘘をついて、独自で解決法を探っていくのだが、労働者階級で学のないビルにとって、言葉も通じない異国の地で、さらに法律も関わることもあり、協力者も現れるが、釈放にはほど遠い。

希望がないという事実を知り、アリソンは激怒し、絶望する。

不器用ながら、がんばっている父親に対して酷いようにも感じられるし、ビルの心境も考えると複雑でもあるが、この2人の関係は母の死によって大きくこじれた状態が続いているのだ。

信頼関係が欠如している父と娘の距離感をどう詰めていくのかも、今作の見所のひとつといえるだろう。

また舞台となるマルセイユは、『海辺の家族たち』でも描かれていたように、観光地として知られる一方で、移民や貧困層の多い場所でもあり、かなり治安が悪く危険も伴う。

たまたま出会った英語がわかる役者のヴァルジニーのサポートもあり、事件に関わりがありそうな人物を特定していく過程で、ビルはヴァルジニーと、その娘のマヤの間で奇妙ではあるものの「疑似家族」のような関係性が構築されていく。

そのことによって、アリソンのために捜索を続けるたい思いとは別にヴァルジニーたちの危険に繋がる可能性や、ビル自身もその疑似家族の中にある安心感を壊したくないと考えるようになっていくことで、自分の娘と新たにできた家族を天秤にかけなくてはならなくなってしまうのだ。

アリソンは投獄されて数年が経ち、模範囚でいれば、あと数年で出られるかもしれない。無難にそれを待ち擬似家族との生活をおくることが正しいことなのか、危険を冒して、擬似家族を崩壊に導くとしてもアリソンのために行動することが唯一の父親としては正しいことなのか……。

そしてビルの決断は正しかったのか、それとも間違いだったのか、娘を助けるためなら許されるのか。大切な人の人生を左右する決断を前にした時の人間として、親としてのモラルが試される作品といえるだろう!!

『MONSOON/モンスーン』自分の故郷は消えてしまった……ヘンリー・ゴールディングにとって半自伝的物語!!

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ベトナム戦争のときに混乱を避け、国外に避難したボート難民であるキットが、6歳のころの脆い記憶を辿りながら、故郷に30年ぶりの帰還。

ベトナム人でありながら、母国語よりも英語しか喋れない。ホーチミンは自分のあやふやな記憶にある頃とは、全く違うほど経済発展を遂げている。

今作はキットの自分のルーツを探求するロードムービーであると同時に、異国から見た、現在のベトナムを映し出している作品ともいえる。

唯一の知り合いである従兄のリー。英語が少し話せるとはいっても、ときどき会話がままならない。一番近い人物とのコミュニケーションもままならないことから、自然と話しをする相手は、英語の話せる観光客やグローバル企業なとに努める若い世代。

故郷であるはずなのに、疎外感や喪失感を味わうキット。子どもの頃に遊んだ池は跡形もなくビルになっていて、そのビルさえもすでに過去の産物になりかけている。 ノスタルジーに浸れるような場所がどこにもない。

戦争に限らず、何かしらの理由で、母国を離れた移民の人々には、少なからず共感できるような作品ではあるが、何よりもキット役の ヘンリー・ゴールディング 自身がその経験者だ。

ヘンリーは7歳から、イギリスで育っているが、生まれはマレーシア。大人になってから、自分のルーツを探しに20代の頃にマレーシアに帰国していることもあって、半自伝的要素も感じられる役どころである。

ヘンリーのいつもとは違った、繊細な演技をみられるのも、自分の経験を重ね合わせながら演じているからなのだろう。

『ひかり探して』生き辛い環境に留まり続ける理由なんて実はないのかもしれない…….

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不祥事でしばらくの間、職場を離れていた刑事ヒョンス。プライベートも離婚問題で精神的にもボロボロの状態。

復帰するための雑務として、少女の失踪を自殺として事務処理をすることになった刑事ヒョンスを演じるのは、クールな役がよく似合うキム・ヘス姉さん。しかも今回は、ほぼノーメイクということで気合もいつも以上に入っているといったところ。

ノーメイクであっても、キム・ヘスは、やっぱりキム・ヘス。やたら髪をかき上げるシーンが印象に残るほど、やっぱりカッコイイ。

勿論、今作の魅力はキム・ヘスだけではない。濃厚な人間ドラマを描いた作品なのだ。

簡単な仕事だったはずが、自殺の調査をするうちに、隠された事実が徐々に見えてくる。今作が特徴的なのは、謎解きミステリーではないことだ。

事件を解決することが最終目的というより、その結末によって、悩める人を癒すようなテイストになっていく構造が斬新に感じられた。

自殺したとされている少女は、父と兄が起こした密輸事件によって、家族だというだけで、風評被害が苦しんでいた。

この状況は、ヒョンスが職場に居場所がなく、影でコソコソと陰口をたたかれている状況と似ていることから、いつしかヒョンスは、無意識に自分を少女と重ね合わせていることに気づいていく。

生き辛い環境に、無理やり場所を作って、そこに居続ける意味があるのだろうか……辛い立場から逃げ出すことは、悪いことのように言われる世の中だが、時には、そんな場所からは逃げてしまってもいいのではないだろうか…….

「こうしなければならない」と勝手に世間が作り出した勝手な概念の中で苦しむぐらい、人生に行き詰ったのであれば、自殺してしまいたいと思うほど苦しいのなら、いっそ逃げるのも、ときには正解なのではないだろうか。

何かに悩んでいる人は、今作を観ると、少しかもしれないが、心が軽くなるような、そんな作品だといえるだろう。

ただ……何となく、少女が本当に自殺したのかどうかが、冒頭の方でわかってしまうのが難点だ。

『シチリアを征服したクマ王国の物語』権力や環境によって変化してしまうのはクマも人間も同じ……

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ひとり息子トニオを人間に誘拐されたクマの王国の王レオンスが主人公。

人間たちはクマを恐怖の存在と思い、攻撃をしかけてくる。クマたちはそれでも平和的に解決しようとこころみるが、人間たちは聞く耳をもたず、すぐに武力で解決しようとする。

人間だけではなく、食人トロルやゴーストたちの妨害を乗り越えて、トニオをサーカスで見つけ、人間の王を倒したことで、レオンスは人間とクマ共通の王として君臨し、クマと人間は共存して幸せに暮らしました…….というのが前半はおとぎ話テイスト全開の物語。

しかし、後半からは少しトーンが変化する。クマは自由や権力得て、人間を支配下においたクマの心情がどう変化していくのかを描いているのだ。

息子のトニオも人間の生活に慣れてしまって、魚を捕るともできないどころか、スモークサーモンの方が良いと答え、そんなことは古臭くて、新しいクマは酒やギャンブルもすると言い張る始末。

ある日、魔術師の杖が盗まれ、金庫のお金も盗まれた。友人だったサルペルトは、独裁者のようになっていく。

性格や価値観、概念といった、本質的なものは誰もが、それぞれ少しずつ違うものの、それを良くも悪くも後押しするのは、おかれている環境であるということなのだ。

今作で描いているのはもクマになぞってはいるものの、非常に教訓的なものであって、クマや人間は、本質的には変わらないが、与えられた権力や、それを取り巻く環境によって変化してしまうということを描いているのだ。

そういった黒い部分を徹底的に描くというよりは、あくまで子ども向けということもあって、なんとなく描いているのも丁度良いといえるだろう。

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の記事から抜粋しています。


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