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布施は金を騙し取る手段か

貴方は「布施」と聞いて、どのようなイメージを抱くでしょうか。

現代では、カルト宗教のトップが信者をマインドコントロールし、多額の金銭を騙し取る悪質な手段であるかのように吹聴されます。
布施について正しい知識を持たない人々は、その情報を真実と思い込み、漠然とした宗教への嫌悪感を増大させます。

確かに、現代において、「布施」という仕組みを利用し、人々から富や幸福を奪い取る卑しい者が存在していることは否定できません。
しかしながら、「布施」が2600年前のお釈迦様の時代から連綿と受け継がれていることを鑑みるならば、そこに何か深遠な意味合いが存在しているようにも思えてくるのです。

今回は、貧しい癩病患者から施しを受けたお釈迦様の弟子カッサパの詩句をご紹介しながら、布施について紐解きます。


仏弟子の告白 テーラーガーター
中村元訳


わたしは坐臥所から下って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、かれの側に恭しく立った。

カッサパは托鉢のために都市に出かけたと綴られていますが、ここで托鉢の意味合いについて述べておきましょう。
托鉢とは、僧や尼が修行のため、鉢を持って在家信者から食物などの施しを受ける行為のことです。

仏教国での托鉢の様子



在家信者にとっては、修行者へ布施を行うことで、修行の手助けをすることになるため、功徳となり、
一方出家者にとっては、徳のない者に徳を積ませるための大変重要な勤めとなります。

さて、もし貴方が托鉢を行う僧侶だとしたならば、どのような家へ訪れたいと考えるでしょうか。

一般的な考え方の持ち主であれば、より多くの、そしてより味覚において優れた食事を求め、財産を有する者を対象に托鉢を行うことでしょう。
しかし、このときカッサパが赴いたのは、ある一人の癩病患者のもとでした。

癩病はハンセン病とも呼ばれます。現代では治療法が確立されているため、あまり馴染みのない病ではありますが、外見に斑点や結節が現れるような症状が特徴的で、古くから感染症の一つとして恐れられてきました。
癩病に罹患した者は、差別の対象となり、隔離されていたという歴史があります。



かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。


このときカッサパが受けた布施は、わずか一握りの飯のみ。
それどころか、癩病患者が鉢に飯を入れた際に、腐った指がちぎれ、鉢の中に落ちる様が生々しく描かれます。

カッサパの詩句は次のように続きます。


壁の下のところで、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。


癩病患者からの施しを受けらたカッサパは、その供養を口にします。

このときカッサパにとって、腐った指の入った一握りの飯を食べることに、一体どのような利益があったのでしょうか。
私たちの感覚であれば、いかに心を動かさぬよう気を払っていようと、反射的に不快感や嫌悪感を滲ませることでしょう。

しかしながら、
「わたしには嫌悪の念は存在しなかった」
とある通り、カッサパ自身はそのことを心に留める様子はありません。

ただそこには癩病患者への慈愛と哀れみがあり、彼が自己の利益を超えた、他を幸福へと導く菩薩であることが窺えます。

このように、本来の布施の目的は、徳の高い者が徳の低い者から施しを受けることにより、徳の低い者に徳を積ませることに主眼が置かれます。

徳のない者が徳を蓄えることにより、貧しさや病、心の苦悩などから解放され、ひいては真理や仏陀との縁を強めることに繋がるのです。

こうした深遠で尊い意味合いを持つ布施という行為ですが、一方でどのような者へ布施を行うのかということは大変重要な問題です。

最も望ましいのは、最高の解脱・悟りを得た仏陀やその弟子に布施を行うことです。


悪事が蔓延る現代においてそのような対象を見つけることができるのは、本当に稀な確率であることは否定できません。
しかしながら、貴方が強く求めるならば、そして貴方にそのカルマがあるのならば、ひょっとしたら姿を現してくださるかもしれません。

布施についての話は以上となります。

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貴方に最高の幸福と安らぎがもたらされますことを切に願っております。

最後までお読みいただき有難うございました。

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