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ヰタ・ホモセクスアリス(II)Vita homosexualis

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 中学校。ここで、われわれのプログラムでは、彼を英語に打ち込ませることになっていた。再び、とても優秀な教員と出会わせるのである。研には英国人の過去世もあるので、英語は、勉強さえすれば、平均よりは、はるかに上に行くはずだ。ただし、当時の、いや、今もそうだが、教材はアメリカ英語で、カセットテープもアメリカ人が吹き込んでいる。字と音が合っていないので、違和感がある。"What am I?" が「ワレマイ」に聞こえるのだ。そもそも、こんな例文を話すことはないだろう---「私の職業はなに?」。しかし、十年後、大学院に進んだときは、イギリス英語にふれる機会が増え、一挙に英語への距離が縮まることになる。アメリカ英語、というより、アメリカ自体になじめないのも、研の過去生がからんでいる---彼はネイティヴインディアンの女性であったことがあり、狩猟に出て帰らない夫を待つ苦労多い人生を、白人の来る前の北米でおくっていた。

 中学生といえば、恋する季節だろう。性別など存在しない霊界とちがって、この世はまったくたいへんなもの、ご苦労さまだと思う。中一のとき、予備校の夏期講習が、國學院大学で開かれ、行った。白い袴の神職が行き交う妙な場所だった。ベージュのジーンズをはいたかっこいい少年を見つけ、帰り道、渋谷駅まで尾行したことがあった。もう完全に彼はゲイであった。「ゲイ」という語が世間にあったかどうか。彼の心のなかにはなかったはずだ。「ホモ」とでも認識していたのかどうか。語がないと、それを表す概念を表現できない。話は逸れたが、やはり尾行までしても、罪悪感のようなものはなかった。間違った、キリスト教的、ソドムとゴモラ的な刷り込みがなかったせいだろう。

 初恋というか、もしかしたら、二人目だったかも知れないが、隣のクラスのC君が、好きになった。もちろん、相手のセクシュアリティーなどは分からない。女子(ないし男子)が好きなの? などと聞くことはできない。その辛さ、安易に告白できない苦しさ、というのも、ゲイとしての人生を選んだ学びである。ゲイの生徒は、もちろん、いつの時代でもたくさんいるが、当時は、いまより世間の目が厳しい。C君のジャージ姿は美しく、細い太ももに惹かれた。きれいな少年。ひと言も言葉をかわすことなく、ちらっと見てうれしさを感じるだけ。同じクラスではなかったから、体育の時しか見られない。だから、見かけるときはいつもセクシーなジャージ姿だ。くるしい忍ぶ恋として、中二の一年はすぎた。というか彼の場合、これから何十年も、恋といえば、つらい、忍ぶ恋になってしまう。王朝和歌のようでいいではないかと私は思ったが、現世的にはつらいことらしい。片思い、忍ぶ恋はわれわれの計画ではなく、彼が、慎重すぎて、あるいは、臆病すぎて、一歩踏み出すリスクを回避したためである。もっと勇気があれば、われわれも喜んでサポートしただろう。まあ、この孤独地獄も無駄ではない。しかし、危ない領域まで行く時もあった。そこではわれわれもようやく見守るだけというのをやめて、緊急避難的に助けたが、それは二十四年後の話。

 帰宅部なので、体育会系の生徒にある(と私が聞き及んでいる)ような、面白い経験はほとんどない。これは、彼が、文科系の肉体を選んだときに決まったようなものだ。もっとも、こういう貧弱な肉体に、嫌気がさして、肉体改造へ、マッチョな方向へと行くことも選択肢としては可能ではあった。彼の場合、その体に見合った精神生活へと流されて行った感じ。トレーニングのような、やりたくもないことを、こんな肉体ではダメだ、という義務感でやることはなかった。ゲイの世界では、身体の見かけの良さが大問題になってくるとは、まだ知るよしもない。がりがりなタイプは一番もてないらしいのだが、私はあまりその辺りをよく知らない。だから、彼が、そのみっともない身体で生きていくのに、とくに関心はなかった。バスケットボール部の主将の太ももなどをみて、(うわっ)と、圧倒されてはいた(が欲情はしなかった)。筋肉、マッチョは、彼の好きなタイプではなかったし。

 中三のとき、クラス一のイケメンのA君が、体育のあと、着替える時、数人にとりかこまれて、ブリーフ一枚にさせられていたのを目撃した。まったく陰湿な感じではなく、明るく、ふざけている感じ(こういうのが、実のところ、いじめのことがあるそうだが、これは違う)。そのブリーフが、有名なメーカーのもので、下着になどこだわったことがなかったから、鮮やかなホワイトが一層輝いて見えた。いま、彼の思念が私に伝わってきて、思い出した---その前の年、やはり、着替えていて、T君がブリーフ姿だったのだが、脚が真っ黒で、わっ、と思い、凝視した。毛むくじゃらなのだ。こんなことでいちいち大騒ぎするのだから、現世の中学生というのは、大変だな、と思う。当時は、第二次性徴が顕著に発現している男子ほど尊敬されたものである。今でも、その、サッカー部員の毛むくじゃらの脚を覚えている。その後、フットボール選手となり、大学で活躍し、その後は知らない。きっと結婚して妻子を持っているだろう。ちくしょう、みんな結婚していく、と思った(していないかも知れないのだが)。結婚イコール幸せ、という図式も、克服すべき、誤った先入観だった。いくらでも不幸な夫婦はいるではないか。

 よく晴れた冬のある日、数学のよくできるM君が床に坐りこんで、頭の悪いS木君とS藤君に、股間を揉まれていた。不思議なのはM君が喜んでいるように見えたことだ。後になって、「だから、ホモなんて言われるんだよー」などと、眉間にしわを寄せ、困った顔をしていた。公然と、同性愛的行為をしていたとしても、同性愛者ではない男子がいるのだ、ということをこのとき学んだ。あるいは、M君はゲイでないふりをしているだけなのか、などと、いろいろ、確かめようのないことが、学校ではたくさんあり、そういうことをすべて未解決のまま棚上げにしておくから、頭がひどく重い。こういうのはハムレットの悩みのようなもので、うまいタイミングで旅役者でも来てくれなければ実証できないから、抱えておくのはつらいだろう。ゲイの中学生にはかなりの負担だと思う。

 中二の秋、山の中で合宿があり、夜、二段ベッドの林立するエリアに、数学教師が入ってきて、なにか、叱るような口調で叫んでいた。しかし生徒の笑い声がわっとおこる。妙だな、と思ったが、この人は、数年後、生徒の布団の中へ入ってしまい、騒がれて、ゲイが公になってしまう。きっと、ベッドへはのぞき半分で来たのだろう。ゲイであることだけで首にはできないとおもうが、手を出したらだめだ。妻子はいたはず。それを知ったのは高校のときだが、母がなんとも言えない顔をして別の母親と電話で話していたのを聞いた。その顔を見て、母親がゲイというものをかなり嫌悪しているのが分かった。これは、私が、研のいる時間帯に電話をさせて、わざわざ見せたものである。これで、安易にカミングアウトというわけにはいかないだろう。母親がそれに耐えられない、と思ったからで、私の思いやりなのだ。親にばれてしまう、親が望まないのに知ってしまう、というケースもあるようだが、それは、勝手に息子の部屋の掃除をしたりするからだろう。知らずが花ということもある。自分から言うかどうか、というのは、やはり本人が、親の性格などを見極めた上で、決めることである。また、子どもが同性愛者であることがわかった親の学びというものも、当然、ある。ひとつ言えることは、同性愛者に生まれてかわいそうとか、育て方が悪かった、などと思うのは間違っている、ということだ。

 

 中三の時、ラジオ英語会話という番組がある、と、中一の時の英語の先生に聞いて、聞き始めた。毎週のスキットを録音して、何十回も聞く。講師は、東後勝明という人で、イギリスに留学した人だった。ゲストのネイティヴには英国人もいて、始めてイギリス英語を耳にした。しかし、まだ、あまり惹かれる感じはなかった。英国人だった前世の影響もまだここでは及んでいない。詰め込むような勉強の結果、感性が鈍っていたのだろう。数学ができなくなった、変な女子からヴァレンタインのチョコレートをもらってしまった、容姿に関して悪口を言われた、と思い悩む彼に、私が、祖父母や両親を通してささやくヒント、メッセージもまったく届いていないようだった。友だちもごく少なく、勉強ばかりしていた。中三の冬、単語を徹底して暗記していた彼は、突然という感じで、英文が読めるようになった。それまでは、一行に知らない単語がいくつもあって、ぜんぜん設問が解けなかった。それが突如読めるようになった喜びは大きかったと思う。私にまでそのはずむような気持ちは伝わってきた。ただ、感謝の気持ちがなく、すべて自力でここまで来たと思っている。若者特有の傲慢さが始まるところであった。このあたりで、彼は謙虚さを学ぶ必要がある。入試では、第一志望に落ち、ごくふつうの高校へ進むことになった。

 高校は一等地にあり、ロケーションは最高であった。自由な校風で、それまでの学生生活とはまったくちがう。ラジオ英語会話はますますわけがわかるようになり、楽しくてしかたがない。英語クラブのようなところにも顔を出した。毎週参加するわけではなかったが、夏、合宿にどういうわけか参加したりした(と研は思っているが、私が、部員でもないのに、うまく参加させ、大自然にふれさせたのである)。東京都の島で、揺れる舟に何時間ものってやっと着いた。民宿の風呂は家庭用で、狭く、二人づつ入ることになった。後輩といっしょになったが、童顔なのにものすごく毛深くて驚いたりした。この時、初めて、同年代の裸体を見たのではなかったか。一年下の男子は無防備に、坐っている彼の直ぐ横に立ち、湯をかぶった。その湯が目の前五センチのところで陰毛をしたたり落ちてゆくのをスローモーションでまだ思い出すことができる。

 高一の時、クラスで一番のハンサムであると思われる子が、別の男子に、ふざけて抱きかかえられていた。これが、ゲイ同士の愛情などではなく、単なる悪ふざけであることも、よくわかっていたが、思い出しては、なんとも、心に白濁が浮かぶのであった。中学の時にもいたが、ゲイでもないのに、ゲイめいたことをする異性愛者は残酷というか、人騒がせ、というかゲイ騒がせである。むしろ、ゲイは抱きかかえたり、抱えられたり、誤解されるようなことは、恐ろしくてしないだろう。ゲイでないからこそ、同性愛を疑われることが平気でできるのだ。

 研のまわりでは、下がかった話はまったくなされない。固くてつまらない男だと思われていたのだ(私の目から見てもたしかにそうだったと思う)。彼のいないところで、下ネタは展開されていた。ときに漏れ聞こえてくる会話はすべて、女子や女性芸能人に関するもので、興味も知識もなく、話の合わせようがない。好きな女性歌手などを聞かれたことがないのは、幸いなことであったかもしれない。たぶん、そういうことに興味がないとみなされていたのだ(実際、なかった)。無意識的にせよ、真面目な顔をして勉強ばかりしている方が、楽で、好きな女優などをでっち上げなくてすむ、と考えたのかも知れない。生き延びるための戦略だ。ほんとうにゲイの若者は大変だ、と思う。カミングアウトしてしまえば、こういう配慮はいっさい不要になって、楽になるだろうか。当時は、カミングアウトという言葉もなかった。公言できる勇気のある生徒がいただろうか。芸能人にも二、三人しかいなかっただろう。しかも、みな、女装し、女言葉で、「わかりやすい」ゲイだった。

 しかし、超然としている態度、気の許せる友人のいないことが、この後、彼を苦しめる。なんとなく、堅物の変わり者として生きてゆく方向へ人生は固まっていったが、これは、私の影響ではない。彼の自発的な選択である。変わり者になってしまえば、ゲイであることも、その変わり者の中の、単なる一つの属性として、大目に見てもらえるとでも考えたのだろうか。私としては、せめて、友だちのいる変わり者であればよかった、と思う(しかし、変わり者の友達というのは、やはり変わり者だろうか)。だが、話が成立するなら、その方がよい。この変わり者キャラは、抜け出すのに時間がかかる、というか、もはや抜け出す意欲さえなく、ゲイであること自体が、変わっているのだから、これでいい、と思ったようだ。というように、異性愛者なら、まったく考える必要もないことを、あれこれ、しかも、将来の不安、危機感などを覚えながら、ゲイの青少年は考えさせられてしまう。これは、学びであり、良いことでもあるのだが、反面、負担も大きく、ストレスとなる。その辺りの兼ね合いがむずかしい。考えすぎて、心を病んだりしては、元も子もない。その辺りは我々も心配し、サポートしたいところである。

 それはともかく、英語の成績が伸びて、学年で一位になると、他の科目の成績も上がっていった(体育以外は)。しかし、われわれは、彼を天才には作っていない。われわれ類魂のなかには、天才もいるが、勉強においてはサポートをしなかった。われわれは、彼を、泥臭い努力家にしたのだ。したがって、順位を維持するため時間に追われ、クラブ活動もせず、勉強だけの日々であった。ほんとうの秀才は、一位を維持しつつも、クラブ活動、趣味を楽しむ余裕があるものだ。彼の方は、まったく人生を楽しんでいなかった。彼を動かしていたのは順位が落ちるかもしれない、という恐怖感だったかも知れない。恐怖が動機になっている人生は辛いものである。

 そんなある日、われわれは、勉強、というか、暗記ばかりする彼に、ちょっと待て、人生をもっと考えた方がいいぞ、とアドヴァイスするつもりで、ふと、自宅で、ふっと気が抜けたとき、お前はゲイではないのか、このまま、他の高校生と同じでいいのか? というふうに、インスピレーションを送ってみた。この時は、今でも覚えているが、彼の心のど真ん中へ、それが、ぴしゃりと入り込んでしまった。アプロディーテーの息子、エロースの矢のようなものだ。このまま勉強をしていればよい人生ではない、「人並み」には生きられないのだ、と一瞬で、ぐさりと悟ってしまい、心拍数は上がった。やりすぎたかな、と私は思ったが、あっ、とまず、彼が思ったのは、ゲイが大学に入っていいのか、というおかしな疑問だった。これは私の誤算で、こういう方へ彼の考えが行くとは思いもしなかった。当時の彼の考えでは、ゲイ=悪、ないし、無知性だったのだろう。まあ、いい、これも学びの一つだ、と私は介入せず、こんなゆがんだ考えをどう解決してゆくのか、ひとときも目は離さずに、静観することにした。この「ゲイなのに」云々、という劣等感は、長いこと心から消えることはなかったと思う。表面的に忘れていても、ひょっと頭をもちあげてくるやっかいな考え。もちろん、われわれからすれば、彼がゲイを選んだわけで、辛いことだろうとは思ったが、仕方がない。指導霊といっても、なんでもかんでも指導できるわけではない。せいぜいが、ヒントを与えるぐらいだろう。もちろん、寿命より早く死にかけたりすれば、あらゆる手段を使って、生かす。早くこちらに来られても、やり残した課題があるので、われわれの方も困るのだ。

 また話が逸れた。ここで、越路吹雪「サン・トワ・マミー」ではないが「目の前が暗くなる」ほど深刻に思ったのは、(あたり前だが)結婚できないという事実だった。独身のまま生きていくということがどんなことなのか、見当もつかない。親戚の伯母に独身はいたが、男で独り身はいない。ただ、高校に、独身だといううわさの、初老の英語教師がいて、なんとなく親しみを覚えていた。同性愛、独身、ホモ、オカマというような「キーワード」に、敏感となり、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌、友だちとの会話、あらゆるところで、こういう語が耳へ飛び込んでくるたび、びくっとするようになった。自分がゲイである事実を、笑い飛ばせるような青年は、今でもあまりいないだろうが、当時はなおさらいなかった(また、笑い飛ばしてしまったら、学びにならない)。自分の性的指向と向き合って、折り合いをつける、解消する、あるいは、アメリカの黒人における公民権運動のように、社会の方を変える、などが学びである。友人も少なく、孤独な彼にできそうなのは、前者だけのように私は感じた。一人で社会をちょっと変えられるのは、著名人のカミングアウトぐらいのものだろう。大変革ならば、キング牧師、マザー・テレサ級の偉人が必要だ。わずかながらも力を得たのは、深夜放送で、既婚、中年男のパーソナリティーが、生まれ変わったら、この人(男性)と結婚したいとおもっとるんですが、などという発言があった時である。そういうこと---誰がゲイを匂わせることを言ったか---は、今でも、頭にすべて残っている。別の民放で、タックという人が「ゲイのみなさん、こんばんは」と言い始める番組があったが、どうも、自分がゲイと呼ばれるのには違和感があって、嫌な気分だった。私が、うまく彼に聞かせるよう仕組んだのだが、まだ自分の性的指向を認められる段階には至っていなかったのだろう。しかし、その番組は毎週聞いていたのだから矛盾している。これも、まあいいか、という弥縫策だ。

 欧米では、有名人のカミングアウトが多いけれども、そういうことをする伝統がない日本という国を選んだのは、より深い学びのためであるとはいえ、つらいものだ。それに、欧米に生まれたとしても、カミングアウトなどしない高校生の方が多いだろう。世の中は変わりつつあるようだが、三十年前、研にできることは、耐え忍ぶこと、考えないようにすること、ひたすら勉強すること以外にはなかった。もうとっくに『薔薇族』などのゲイ雑誌はできていたが、その存在を研は知らない。

 結婚できない、というか、独身で周りの目が気になる、という悩みは、解決こそしないが、棚上げにはできることを学んだ(が、棚上げは三十代までだろう)。その一方で、自分のゲイ性から逃れるかのように、勉強に打ち込んだ。もちろん、数学、世界史、など、科目それ自体の興味、おもしろさもあった。すべてが逃避だったとは私も思わない。彼の前世、指導霊の国籍(チベット、ドイツ、フランス、イタリア、アイルランドなど)が、彼に、世界地誌、歴史への目を開かせた。特に中央アジアに惹かれたのは、天山南路で、仏教徒のトカラ人だった経験からだろう。日本人であったことが少ないせいか、彼の日本的なものへの関心は、どうも、外国人からみた日本、という視点に限られていた。浮世絵に惹かれたりなどというのがそうである。あくまでも、彼は、外国人的に日本の絵画を見ていた。この時、われわれ類魂の間では、春画、なかでも、稚児草紙的な作品を、公立図書館で見せるのはどうか、ゲイへの違和感が薄れるのでは、という意見があったが、稚児は見た目があまり少女と変わらないので、効果がないだろうと、沙汰止みになった。しかし、話は時間をさかのぼるが、彼が中一のとき、私は、地元の図書館で、『男色』という水上勉の小説が、研の目に触れるようにと彼を導いた。手にとって、最初のところを読み、若い僧侶同士の、寺院における不思議なゲイ的生活を知った。この時の記憶を、彼はずっと持ち続け、こういうことをしても許されるのかな、と力を得ることになる。私の思惑通りになった、嬉しい例である。なかなか、こううまくいくことはないものだ。ふと、偶然、目にした本、というのは、一般論として、まず、われわれからのメッセージであると考えて間違いない。

 さて、国立大学に落ちて、浪人することになった。現役のとき、私立大学の政治経済学部に合格したのだが、政治経済への興味はゼロだったからだ。では、なぜ受験したのか、とたずねられそうだが、私にもよく分からない。きっと、回りがみんな受けると聞いて、ノリで受けたのだろう。他人に影響されやすい性質だった。それでいて、絶対に譲らないところも多い。その証拠に、浪人するつもりがないなら、いくらでも行かれる大学はあったのだ。予備校に行き、ここで、霊界のプランでは、第一の危機が訪れることになっていた。高校時代、なんでも話せる友人どころか、世間話をする相手さえ一人も作らずにきたカルマ、ゲイからの逃避という要素はあるにせよ、エゴイスティックに自分の勉強だけをしてきたカルマに苦しむ時期であった。大手予備校、孤立無援の大教室に詰め込まれ、知り合いが一人もいない。自分から人を誘える性質ではないから、話す人もいない。回りは同じ高校から来たのか、楽しそうに話している(浪人生なのに)。自分から積極的に、というのは研の学ぶべきことでもあるのだが(今なおそうである)、それがもっとも必要な時期がこの十八、九歳であった。何ヶ月も話す人がなく、昼食も一人の孤独地獄。夜は家族と食べていても、理解し合っていなければ一人と同じことだ。心を病む。理由のない不安(ほんとうはあるのだが)。爪が湾曲する。顔色が悪い。食べられない。集中できない。貧血のようになる。やせる。もはや、ゲイであることは意識にさえ登らない。同性への興味(異性もそうだろうが)というのも、強度のストレス下では消えてしまうものだから。

 彼のたましいは、彼に、自己防衛本能から、明るいアメリカのポップスなどを聴くように仕向けた。ビリー・ジョエル、バリー・マニロウなどがはやっていた。しかし、一時的に気は晴れても、根本的に、自分は「浪人生」だという負い目が重くのしかかる。名のない大学でも、そこに入れば「大学生」ではないか、というような、錯乱した考えに支配された。図式的には、現役時代の、「ゲイという負い目」が、「浪人生という負い目」に変わった、あるいは、積み上がっただけ。世間の目というものを考えて「負い目」をもってしまうというのが、解決すべき学びなのだ。このままの調子で生きていくと、一生、あらゆることに負い目を感じつづけ、のびのびと両手両足を広げ、リラックスすることさえむずかしくなってしまう。彼の学びは、日本における、わけの分からない「世間」というものと、どう折り合いをつけるか、適当に無視する術を身につけるかだった。あるいは、日本脱出でもいいのだが、それは研の選択することで、われわれが手を出してはいけない領域だ。シドニーとかヴァンクーヴァーとか、どこか、ゲイフレンドリーな都市へ、私が、うまくお膳立てして、彼を永住させる、などということをすれば、もはや、彼の人生ではなく、私の人生になってしまう。もちろん、彼が、移住への第一歩を踏み出せば、私も全力で、コネクションを作り、シンクロニシティーを起こし、首尾良く運ぶように陰ながら応援はする。しかし、あくまでも、本人が踏み出さなくてはならない。

 さて、研が、本当に狂ってはしまわないよう、私がいつも気をつけてはいた。しかし、ちょっとした内出血を白血病だと思い込んで東大病院に行ったりと、おかしな行動もエスカレートしていった。心配性も彼が克服すべき課題なのだが、こういう逆境の時にこそ、こなすべき課題が、ことさら強烈に出てくるものだ。そこで、私は東大の医師の心を操作していらだたせ、「話していても仕方がありませんから」と、強く、ショック療法として、研を突き放す物言いをさせた。もともと人間味のない、臨床には向かない冷淡な医師で、こういう仕事をさせるにはうってつけであった。いらだたせ、暴言を吐かせることに成功し、彼も冷水を浴びせられたかのごとく、生活はすこしだけ安定した。Good job! と、今でも私は自分に言いたい。

 春、ふたたび、第一志望には落ち、屈辱感を抱いたまま、第二志望のカトリック系大学へ進学した。浪人生活のストレスで、ゲイが大学へ入る云々はもうどうでもよくなっていた。中高大とすべて第一志望に落ちたのは、私のせいではない。彼の実力である。すっかり老け込み、同級生より、四、五歳、年上に見えただろう。この大学には独身の教授が多かった。司祭である。ゲイかどうかはともかく、中年や初老の独身者、とくに西洋人神父は、心に落ち着きを与えた。彼のメインの指導霊にカトリックの神父はいないが、ユダヤ教のラビ、ドルイド教の司祭がいる。宗教はちがっても、それは現世だけの話で、霊界に宗教などはない。入学したのは英文科だったが、どうも文学が、わからない。意味が通っても、おもしろくないのだ。もっとも、日本文学もあまりぴんとこなかった。フィクションを受けつけない体質なのだ。これには、過去生が強く影響している。小説を読むのは庶民階級だけだった時代のイギリスにいたことがある。その時、家では、詩を読まされていた。その前世のおかげで、英詩にはすこし分かるものもあって、詩を研究しようとも思ったが、文学の分析という行為に違和感を覚え、明快に結果の出そうな、英語学、言語学的に英語を研究する方へと進んだ。

 学部時代、英作文を担当していたF先生は、語学の天才で、尊敬していた。十数カ国語は読めたのではなかったか。もともとの専門はトルコ語、満州語、などウラル・アルタイ語族だったはずだ。こんな博学な人がなぜ日本にいて作文などを教えているのか不思議であった。自分は独身だと授業中に言ったりはしなかったが、清潔感はあるのに、独身臭がぷんぷんしていた(ずっとあとになって、ゲイ恋愛詩集のようなものを読んでいたら、この先生の詩が載っていておどろいたことがある。なるほど、当時、アメリカでゲイは生きにくかったのかと納得した)。

 このように、大学の教員にゲイと思われる人は何人かいたが、同級生にはいないように見えた。ゲイを探知する能力、いわゆる gaydar の精度もゼロだったから、いても気づくことはなかっただろう。学年全体を探せばいたはずだが、なにしろ、交際範囲が狭い。自由気ままな大学生活に埋もれていると、自分のセクシュアリティーへの悩みも薄れ、まさに心地の良い棚上げの状態であった。ゲイのサークルなどもなかったと思う。また、あっても性格上、そこへは近づかなかっただろう。

 一年か二年のとき、紀伊国屋で洋書を探すので行こう、とクラスの女子に誘われた。女子と二人きりで歩くのは生まれて初めてで、緊張し、また、正直にいって、心地よくはなかった。女性ときゃあきゃあ言っているゲイが目立つかもしれないが、彼のように女性嫌いなタイプもじつは多いはずだ。あまり探した感じでもないのに、本がなかった、と彼女が言い、アイスクリーム食べない? などと妙な雰囲気になってきた。違和感に耐えられなくなり、金がない、と言って一人で帰った。私が出すわ、と言ったような気がするが、とにかく離れたくて仕方がなかったのだ。ひどいことをしたものだ。たぶん、デートに誘うつもりだったのだろう。というか、すでに本屋からデートは始まっていたのかもしれない。二年後、村上君って、相手が好きでも、たぶん言えないから、将来どうするのかって思っちゃう、などと言われた。思いやりのある言葉に、よけい二年前のことが申し訳なく感じられた。研が、仮にストレートでも、自分からは確かに告白できなかっただろうから、やはり独身だったか、或いは、むりやり積極的な女性から結婚へもつれこまされたか、のどちらかだろう。ゲイの属性と、それと関係のない性格は区別すべきで、なんでもかんでも「ゲイであること」のせいにするのは問題である。しかし、むずかしいのは、性格というものも、あきらかに、ゲイであることから無視できないほどの影響を受けていることだ。

 四年が近づくと、進路を考えねばならないが、企業への就職は、結婚できないということで、諦めていた。なぜ結婚しないんだ、と上司に詰問され、答えに窮する、というシチュエーションがありありと目の前に浮かんだからだ。「ゲイが大学へ入っていいのか」と悩んだ高校時代は終わったが、やはり、「ゲイが会社に入っていいのか」、だめだろう、という思いは消えなかった。すると残るは公務員、教員しかない。

 ゲイでも大学には行っていいはずだ、と意識的に思ったわけではなく、もうどうでもいいと、なし崩し的に入学したのだが、その先はどうするのか、と、当然、考えは進んでいく。公務員とゲイの相性は分からなかったけれども(どこかの大使が料理人と関係をもったことがスキャンダルになっていたが)、教員は魅力的に見えた。前述したように、(問題はあったが)中学にどうみてもゲイの教師がいたし、高校には独身教師もいた。独身は隠しようがないが、ゲイは隠せる、と無意識に思ったのかも知れない。教員なら、どうにか排除されず、日陰者かも知れないが、生きて行かれるような感じがしたから。日陰者、といま私は妙な表現を使ったが、小学校の一件以来、美術に惹かれるようになっていた彼は、さまざまな文献から、ゲイの芸術家に関する知識を得始めており、自分が日陰者などとは思っていなかったふしもある。むしろ、チャイコーフスキー、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、バーンスタイン、ホロヴィッツなどがゲイだと知って安心し、芸術家に多いのか、と、選民思想的に、むしろ傲慢なほどの気持ちでいた。もちろん、傲慢は劣等感と表裏一体だ。自分が彼らのような業績を上げているわけでないのも棚上げであった。この程度のゆがんだ正当化は、私もほほえましく見ていた。

 自分の知っている有名人、特に業績を上げている著名人がゲイである、という事実ほど、若者を、安心させることはない。もちろん、これは最終的な解決策にはならないが、一時的にせよ、自分が生きるに値する、ろくでもない人間ではないと思うことはできる、いわば、足場というか、仮の宿、というか、そういう感じのものだろう。最終的には、なんの業績もない平凡なゲイであっても、生きる価値はある、性的指向と人の価値は関係がない、と思えるのが理想である。皮膚の色や国籍と同じことだ。

 そうこうするうち、学部の授業だけでは、どうも教員のキャリアには、知識が足りないのではないか、と考え、大学院の試験を受けようと思った。しかし、今の大学には興味ある分野の教授がいない。仕方なく、別の大学の修士課程を受けることにした。しかし、当時、試験は二月に一回だけで、落ちたら、終わりというシステムになっていた。気が狂いかけた浪人時代のくり返しはまっぴらだということで、今回は、絶対落ちることができないというプレッシャーがかかった。人生第二の危機であった。卒業論文も英語で書かねばならず、他大学からの大学院入試ということで、なにを勉強してよいかよくわからない。また、浪人時代のようにヨーグルトしか食べられなくなり、体重が五十キロを切った。しかし、第一の危機に比べて、話し相手は数人いた。大学院を受験する仲間もいる。相談相手になる友人はいないが、一人だけ、親切なK教授がいた。安全を期して、一応、自分の大学の大学院も受験したが、家の経済状況から判断して、授業料を出させるのは無理だと察したので、奨学金も申請するなど、怠りなく行った。このあたりの複雑な手続きには、私も、かなり綿密に、人の流れをつくってサポートしたつもりである。

 大学院に入ってみると、その校門前に薄暗い書店があり、ゲイ雑誌がたくさん並んでいた。ある日、用心深く、まわりに人がいないのを見計らって入ってゆくと、品の良い紳士がまさにその雑誌(『アドン』に見えた)を立ち読みしている。どう見ても教授のような風貌だ。もちろん、これは偶然ではなく、私が、研の行く時間に、この教授(実は名誉教授であった)が、毎月読みに行く時間をぶつけたのだ。これで、彼に、さらなる安心感を与えるためである---立派そうな教授にもゲイはいるのだ、と。君もゲイの教諭でいいのだ、というメッセージのつもりであったが、届いたかどうかは、心もとない。たんに、ゲイの教授っているんだな、という感想で終わってしまったようだった。

 大学院生の中に、どうも話の内容から判断して、ゲイらしい人が一人いたが、むしろ距離をおいた。性的指向以前に、口数の多い人で、うるさかったからだ。異性愛者とは違う、独特な饒舌さを発揮するタイプのゲイがよくいるものだ。あらゆる点で、無口な方である彼は、ゲイの中でも少数派、少数派中でも少数派だった。

 このころは、エイズが話題になっており、社会的にゲイ差別、ゲイ蔑視が烈しくなった頃でもあった。フレディー・マーキュリー、ロック・ハドソンなど、有名人でこの病に倒れた人のメッセージはなんだろうか、となどと、考える余裕、というか、心境にはまだなっていなかった。ゲイは、不特定多数と性交する、という偏見がある(多数どころか、一人の相手さえいないゲイはいくらでもいるのに)。そういう淫乱なゲイのせいで、ウィルスが蔓延したなどという議論もあった。私としてはこの点には口をつぐみたい。正確なところはよく分からないからだ。それに、これは、ゲイだけの問題ではないだろう。まあ、たしかに、結婚という制度に縛られないゲイの場合、相手が複数になってしまいやすいという点はある。しかし、結婚していても不倫する男女はいくらでもいる、というか、既婚でなければ「不倫」にならないだろう。もっとも、これからは、同性婚がふえて、ゲイも、男女に近いような関係になっていくのかも知れない。

 修士課程を修了し、二十五歳で、高校の非常勤講師として就職することになった。元気な高校生にエネルギーがもらえるかな、と思ったら、まったく逆で、むしろエネルギーを取られてしまう。一日、授業を行うとぐったりだ。不思議なものである。定収入もあり、もう人目を憚らず(というほどではないが)、自由に生きてよいはずなのに、彼の生活はあまり、大学院生の時と変わらなかった。実家に住んでいたせいもあるかもしれない(このあと、私は、階下の祖母に大声で夜中じゅう、独り言を言わせ、ゲイ活動がしやすいよう、彼を実家から追い出しにかかる---なかなか出て行かなくて大変だった---五年ぐらいかかったのだ)。学校では、美しい男子を見て、目の保養にしていたが、そんなことは誰でもやっているだろう。ふつうは、対象が女子というだけのこと。卒業すると、すぐ、一ヶ月前は女子高校生や女子大生だった人と結婚してしまう教員もいるではないか。研は、一生、報われない忍ぶ恋なのだ、と厭世的に諦めていた。いや、諦めていたから厭世的になったのか---。

 二十代の終わりごろ、『あすなろ白書』というテレビドラマが放映され、男子生徒からおもしろいですよ、と言われ、途中から見始めた。漫画のドラマ化だったらしい。ドラマ前半で、ゲイの松岡という財閥の御曹司が死ぬのだが、死ぬ直前、異性愛者のクラスメートに告白してしまい、気持ちの悪そうな顔をされたと言って自棄になる場面がある。あれを見ると、決してストレートの連中には、思いを告げてはいけないと学ばされた、と彼は思ったが、それは、私の意図ではない。彼の悲観的な解釈だ。ただ、ゲイの人も、異性愛者の男に告白したくなったら、女性から「好きです」と言われたときの気持ち悪さ、とまどいを考えた方がいいとは思う。ゲイに告白された異性愛者の気持ちはたぶんそれよりもっと複雑だろう。

 大学時代の恩師、K教授は、物心両面で世話になった方なのだが、よく見合い話をもってくるのには閉口した。年に二回ぐらい、新宿高野へ呼び出され、インドカリーを食べながら雑談をするのだが、毎回、結婚しないとだめだ、と説教されてしまう。結婚しませんとは一言も言っていないのだが、早くしろ、と会うたびに言われ、頭をかいた。なんと言って断ればいいのか、といつも頭を悩ませた。交際している人がいます、という嘘だけはつけなかった。

 見合い話は、二十代三十代とずっと続いた。もう一人、大学へ非常勤で来ていて、おもに学問の面で世話になったF教授は、いきなり、女性の見合い写真と個人情報を送りつけてきて、大いに困った。みんな親切心でやっているので、余計、それに応えられないのが辛い。他のルートからも見合いはずっとやってきた。いつもしどろもどろになり、汗が背中を伝って落ちるのを感じた。こういう目にあってもゲイだと言う気にはまったくならなかった。理解してくれそうになかったからだ。いや、理解されそうなら言ったかどうかもあやしい。単に勇気がなかったのだろう(しかし、逆に言うと、言うことは勇気があるのだろうか?)。いずれ結婚する「ホモセクシャル」というのは古くからあっても、一生独身の「ゲイ」というのは日本では新しい生き方だ。見合い話は、一回、一回、どうにかしのいでゆけばよいと思っていた。

 毎週、質問に来ていたH君が、ある日、二人きりの面接室で、俺、先生がゲイでもいいです、とだしぬけに言った。そういう話をしていなかったので不意を突かれる。校内ではたぶん噂になっているのだろう。さらに、ゲイですか? と彼は声をひそめてたたみかけてきた。違います、と答えてしまったのが今でも心残りだが、まだゲイの覚悟が出来ていなかったので、仕方がない。ゲイ? と聞かれて、ちがう、と答えるたびに、嫌な気持ちになっているゲイは多いと思う。嘘である、ということだけだろうか。あ、財布忘れちゃった、千円貸して? あ、俺も五十円しかない、という嘘はそれほど後を引かないだろう。アメリカに Don't ask, don't tell たずねるな、言うな、という原則があるが、ゲイなの? と聞くのは残酷だ。肯定してもゲイ、否定してもゲイだ。否定の仕方でばれてしまう。相手に逃げ場を作らない、思いやりのない質問。答えなくてもゲイになってしまう。ゲイなのに、そうです、と答えられない辛さ、気まずさ、うしろめたさ、居心地の悪さは格別である。話は逸れたが、今でもH君の真意がわからない。大学へ行ってから、バーテンダーのバイトをしていたが、そこのマスターがゲイだそうで、「大学生を食いまくっている」などと、H君は、学校に来ては言っていた。ふと、彼もゲイではなかったのか、と思う。あるいはバイセクシャルで、女性とつきあいながらも、ふと、男に惹かれてしまうことがあったのではないか。

 卒業生と宴会のようなこともある。その最中は、まあまあ楽しいのだが、やはり、終わった後、なにか不全感が残る。セクシュアリティーは、人生のすべてではないのに、なぜか、楽しみ切ったという感覚がない。卒業生たちもうすうす気づいているのだろうが、私が明言したとして、なにか変わるだろうかとも考える。ゲイの知人と話している時と、異性愛者の知人とでは、たわいもない話題のときでさえ、たましいの開放度が違うと感じる。セクシュアリティーというのは、そんなに全人格的な力を持つものか、と今さらながら驚く。図式的、原理的に考えれば、異性愛者との違いはベッドの上だけで、あとは、同じように仕事をし、休み、食べ、飲んでいるはずなのに。が、そんなに単純に割り切れるものではなく、二十四時間、異性愛者とは、生き方が、脳の働き方が、感情が、精神が、生き様が違うのかもしれない。ゲイとは性的指向だけの分類だが、性的活動をしている時以外でも、意識的かどうかに関わらず、常に働く力なのだろう。

 研は、趣味というか、実益も兼ね(実家が真言宗だったので)、サンスクリット語を、湯島にある東方学院という私塾のような所で学んでいた。三年ぐらい経った時、『マハー・バーラタ』を予習していて、なんでおれは何時間も辞書引いているんだ? これは一生続くのか? という深い疑義が脈絡もなく浮かんできた。脈絡がないと彼は思っただろうが、これは、わたしが、もう時間がない、とかなり強引に介入したためだ。こんなことをしている場合ではない、という焦燥感を一気に、彼の左脳へ注入したのだ。このとき、彼は三十七歳だったから、もう、ゲイの盛りはとっくに過ぎている。たぶん、ちやほやされるのは三十ぐらいまでだろう。まして、イケメンでもない、若さだけが取り柄の人なら、二十代で終わりなのが、厳しいゲイの世界である。私は、こんな、現世の、しかも容姿や年齢といった基準に合わせるのはくだらないと考えたが、この際仕方がない、と妥協した。四十が近いというのに、都合良く時間をつぶしてくれる難解な古代語などに逃げこみ、何もゲイ能活動をしていないのでは、生まれる前の計画もずれてきてしまう。

 時間を食うサンスクリットはやめて、その秋、いよいよ「デビュー」することに決意した。自ら、ゲイの世界へ飛び込み、ゲイの人びとと向かい合う、というか、よくわからないが、場を共にする決意である。英語教育関係の学会には、ときどき顔を出していたが、大阪にいったとき、初めて、ゲイバーに入ることにした。三十七歳も終わりに近づこうという冬である。当時さえ、大学生でもバーに行っているし、それどころかカウンターへ入っている子さえいるというのに、「おくて」もいいところである。東京では、誰かに会うのではないかと、怖くてバーなど入れなかった(会っても、お互いゲイのはずなのに)。ひどい臆病である。このあたりは、私も、ただ、彼が危険な目に合わず、知っている人に見られないよう、見守り、場合によっては、人の流れを変えた。ところが、雑誌で探して、行ってみると、バーのドアに「会員制」と書いてある。二軒目、三軒目、「会員制」。どこにも入れない。どうやって会員登録するのだろうか? 大阪でも、さすがに閉鎖的なんだな、と納得しつつ、五、六軒目、ようやく、何も書いていないところに入る。ドアをこわごわ開けると、中から、ふつうのバーとはまったく違う、きらびやかな光があふれてきた。さえないおじさんと、若者二人がカウンターにいて、いらっしゃい、と言った。

 二軒目に行ったかどうか覚えていないが、その夜、なんばの発展場に行ったのをおぼえている。ヴィデオボックスという形態のところ。前と左右に穴の空いた小部屋で、ヴィデオを鑑賞するというコンセプトである。このあたりは、霊界からだと、霧がかかったようにあまりよく見えない。波動があまりに低いからだろう。なんとなく人の大まかな動きがわかるだけである。ヴィデオを見ていると、右の穴から人差し指と中指が出てくる。これは、なにかの合図なのか。指二本は、Hしよう、とか? 人差し指だけだと、別のメッセージ? などと頭をいろいろな考えが回る。わけがわからないので放置して見続ける。指は海中のイソギンチャクのようにもやもや動き続けたが、数分で引っ込んでしまった。すると、その穴にティッシュが丸めて押し込まれてきた。覗くな、という意味だろう。見てみたいが、この、押せば、猫の力でも落とせるような軽いティッシュの玉は、なぜか、神聖な、日本の障子と似た機能を果たし、察しなさい、と訴えてくるので、落とさなかった。人が二人いる感じはしないので、一人でヴィデオを見つつ楽しんでいるのだろう。邪魔することはない。あの出てきた指を握りでもしたらどういうことに発展しただろうか、とも考えた。

 閉店近く、20代後半の青年が一人で座っている。ドアは空いており、誘いを待っている。が、あまり熱意を感じない。中に入るが、とたんに閉店の案内が流れ、仕方なく二人で出た。タクシーで梅田まで行って、生まれて初めてラブホテルに入る。仕組みが分からないので、困惑する。三十七にもなってなにやっているんだろう、と思う。わけがわからず、受付のおばさんに、男二人ですけど、私すぐに帰りますから、と告げると、にこりともせず、どうぞ、と言った(気がした)。どこかで、男二人だと断られた、という話を聞いていたから、言っておいたのだ。二十代だと思ったこの青年は私より年上だった。小柄で童顔なので、若く見えたらしい。さあ、なにをしたらいいのか分からない。彼はただベッドに横たわっている。仕方なく、コンドームを装着し、手を動かした。こんな時、相手の男にコンドームをつける男はいないと思うが、手に微細な傷があるかも知れない、ウイルスを持っていないとも限らない、と心配したのだ。こんなに臆病ではなにもできないのではないか、と思ったが、霊界からはもやがかかったようによく見えない。まあ、危険なことはなさそうだと放置した。どこの誰かも知らない男と、と思わないでもなかったが、中学生のやるようなことだ、かわいいものである。男はシャワーを浴びると言い、研は、旅先ということもあり、いつもより大胆になって、じゃあ、あした会いませんかと言い、連絡先を交換し、ラブホテルから出て、自分のホテルに戻った。こんな妙なことをする人はいないだろう。そのまま泊まってしまえばいいではないか。やることなすこととんちんかんなのは、遅すぎるデビューのせいなのか、いや、若くてもこんな感じだったのだろうか。翌朝、彼がホテルのロビーに来ていた。名古屋から来たという。相手はこちらのことはいっさい聞かない。変な人だな、と思った。名古屋まで一緒に帰って、改札で握手をして別れた。帰京後、一度電話で話したが、会話がかみあわず、向こうで洗濯機がパシャパシャ回る音の中、携帯を切ると、それきりになった。

 ゲイ専用の出会い系サイトがいくつかあって、相談室や、恋人・友だち募集が行われている。そこに、勇気をふるって、友人ではなく、恋人募集の書き込みをした。当時、画像はまだ一般的でなく、載せなかった。携帯にカメラはついていたかどうか。多くの人は、直接会って、イメージと違うとか、ぴったり(ということはまずないはずだが)だとか判断していた。年下、と限定していたので、十歳ぐらい若い(年上好きの)若者からメールが届き、メールの往復が続いて、自然消滅したことも、会いましょうか、ということもあった。十数人に会っただろうか。最初に会った人は二十五、六歳のフリーライターだった。紀ノ国屋で待ち合わせたが、来ない。ほんとうにこの本屋は鬼門だな、と大学時代のことを思い出した。フロアじゅうを歩き回る。こちらには、先方が眼鏡をかけた、背の低い青年という情報しかない。向こうには、紺のジャケット、茶色の革のバッグとしか言っていない。十数分経って、見つけたが、後で考えると、私を見て、うわっ、なんだあの人、と思って逃げていたのではないかと思う。逃げるなら新宿駅へ逃げればいいものを、いつまでも紀伊国屋にいるとは、煮え切らない奴だ。つかまってしまった、というオーラを出していたが、お決まり通りのカフェ、映画館のコースへと進んだ。お茶を飲んでいるときも、目が全く笑わないのに早く気付くべきだったのだが、海千山千(と思われる)相手に比べて、高校生よりも、デートとか、交際の機微に関しては無知だ。映画なんか行かず、じゃあまた、と別れればよかった。気まずい中、『リプリー』という救いのない映画をみてしまい、雰囲気は最悪だ。映画館の外へ出て、やっと、相手の気配を察し、別れた。後味がとても悪い。帰宅してから、チャットをしていて、友だちならいいですみたいなことを言われ、現実の厳しさ、というか、筋肉も話術もなく、容姿にも恵まれていない自分のレヴェルを思い知らされた。その相手にしても、イケメンなどではなく、ふつうの人だったから。まあ、これは男女でも同じかもしれないが、好きになるポイントというのは、微妙で、説明がつかないことも多い。ただ、結婚を前提とした交際と決定的に違うのは、相手に地位とか、収入、学歴、家柄とかを求めることがないことだろう。逆にいうと、ゲイの世界では、東大だろうと、年収一億円だろうと、顔が嫌だ、などと言われてふられることは日常茶飯事だ(と思う)。金持ちだから顔には目をつぶって交際しようなんていうことはまずない(はずだ)。それほど、ゲイの価値観は容姿・容貌・年齢に集約されている。これが、純粋な愛と呼べるかどうか、わからないが、政略結婚などと対極にあるのは事実だろう。相手の、視覚的な属性にひかれて付き合い始める。もちろん、人柄も重要である。ただ、その人そのものではない属性の、学歴、収入が効かないというのは、それを持ち合わせないが、容姿のすぐれた人にとっては、愉快だろうと思う。自分は周りからちやほやされるのに、隣で、イケメンでない東大出や、金持ちが、まったく相手にもされず、薄ら笑いを浮かべ、一人で坐っているのを、バーで見ることができるのだから。

 そのあと、会うところまでこぎつけた人びとの記憶はおぼろげである。だいたい、一回会ってあとが続かなかった。私も、お膳立てをすることはなかった。変な人もいたし、研の方から、ふった、というか、連絡しないようになった相手も少ないながら、いた。ここは、彼の学びの場である。これまで、バリアを張って、人間関係を希薄に保ってきた、いわば、「つけ」なのだ。傷つき、立ち直る訓練。こんなことは、高校生の時に経験するべきなのだが、まあ、たしかに、普通より二十年遅いのは、精神的にもきつかっただろう。過去生でも、一人だけ、あるいは、僧院での暮らしが多かったので、あまり、人に拒絶される経験はなかった。私としては、何度も言うように、命の危険でもない限り、手を貸すわけにはいかない。不思議なのは、ゲイの特性かもしれないが、突如、音信不通になる人が多いことで、しかも、原因はまずわからない。社会常識が通用しないことも多い。掲示板の恋人募集コーナーや、チャットで知り合った青年たちは、いまや誰一人として、つながっていない。生死も不明だ。たぶん、しぶとく生きているだろうが。

 大阪で、発展場デビューをすると、大胆になって、東京でも行くようになってしまった。誰かに会ったらどうしよう、という初々しさはもうない。新橋のヴィデオボックス。暗めの狭い個室に入ってみると、流れていたのは、外国もののヴィデオだった。研はアジア人にしか関心がない。できれば日本人がよい。ゲイ差別に敏感になると、整合性をもって生きようと思うなら、あらゆる差別や差別的考えができなくなる。人種差別、男女差別、年齢差別。こういう差別をしつつ、同性愛者のみ差別するな、というのは矛盾している。日本人しか観たくない、というのは、嗜好の問題で、仕方がないが、心は狭いと言われるだろう。それはともかく、当時、今と違い、牧歌的だったその発展場で、ふと見たヴィデオに心引かれ、しかし、なぜか、中へ入って坐る気にはならず、ドアを半分開けて立ったまま見ていた。すると、うしろからそっと若者(と思われる人)が接近し、右耳に生暖かい息を吹きかけ、いきなり股間をもみ始めた。どんな顔なのか気になるが、シルエットしかわからない。自分よりはイケメンそうだ、と判断し、されるがままにしていた。ふと、思い出す---中一のとき、塾の前で、二人乗りをしていると、うしろに乗っていたH君が右耳を舐めた。暖かくぬめっとした感じが伝わり、くすぐったいが、なんとも言えない不思議な感覚。嫌な感じではなく、むしろ、深い、大地の感覚とでもいうような、動物的な、大きなエネルギーを感じた。今は、あれとは、かなり違って隠微な感じ。相手が研のベルトを外してくると、右の太ももに暖かいものがさっと走り落ちるのを感じた。なんだかわからなかったが、ちょっとすみません、と言ってトイレに行った。実は、この時、触ってきた青年と研が面倒なことになりそうなので、私が介入し、引き離したのである。この青年は、「大丈夫?」と言ってトイレまで着いて来たが、研が出てくると、顔をそむけた。成功だ。発展場とは、妙なところである。今回妙なのはどちらかというと研の方だったが。妙な行動をとらせて、危険な青年から彼を守ったのは私である。

 ある冬の日、出講してみると、いきなり、校長に呼ばれ、村上先生は好きな人いますか? と聞いてくる。セクハラではないかと思ったが、この人は、そういうことが理解できる年齢ではない。しかも、目が笑っておらず真剣だ。お見合いだな、と勘付いて、えー、はい、います、と嘘を言うと(正確には嘘ではない。Kというバーにいる二十一歳の男子が好きであった)、そうか、とため息をつく。いや、結婚したいという人がいてね、と言った。以前から、女性職員にそういう人がいるとうわさに聞いていた。むず痒い気分になると同時に、見る目がない女性だな、と思う。そういう事務方は、情況から判断して、二人に絞られるのだが、どちらも色白の美女である。ただ、観察力がない、致命的だと思った。見合い、縁談をぶつけられるのは、私のせいではない。私としては、彼が、世間体に妥協してしまわないか、と不安になって見ている感じである。幸い、今生、彼は、生育上の理由なのか、女性に嫌悪感が強い。過去生と違って、妥協したくとも、生理的に無理であるらしいことがわかり、ほぼ安心して見守ることができた。世の中には、どういうわけか、ゲイにばかり惹かれてしまう女性がいる。ゲイにとって、女性から恋愛感情をもって近づかれるのは、人にもよるだろうが、筆舌に尽くしがたく気持ちが悪いということが、彼女たちには決してわからないだろう。

 とある夜、チャットで会話のキャッチボールがうまく運んだ青年と会うことになり、会った。ある省庁の臨時職員のような人だったが、仕事の話はしないで、ひたすら、過去の性的体験を話す。薄暗い、キャンドルの揺れるショットバーだった。そうこうするうちに、うちに来ませんか? と言われ、軽い気持ちで、いいんですか? ええ、と答えると、不敵な感じで笑って、うちに来るってどういう意味か分かってます? と聞いてきた。えっ? と言ったが、家に行ったら肉体関係をもつものだ、というようなことを言われた。びっくりして、じゃあ、行きません、と答えて、帰った。その後、二、三回、茶飲み友だちとして会った気がするが、やはり、自然消滅してしまった。

 翌年、渋谷のバーに入ると、マスターが薄ら笑いを浮かべつつ、研さん、あちらの席へ、と言われ、坐ると、左隣に青年が坐っているようだった(シャイなので、じろじろ品定めなどできない)。酒が飲めないので中国茶をいただいていると、その青年に話しかけられる。話の内容から、うちに来ませんか?の青年だと分かった。もてるようにするためなのか、以前にはなかった髭を生やしており、ぜんぜん気づかなかった。この世界は狭い、とよく言われる。びっくりした。その夜、すぐにメールが来たが、友だちでいましょうという趣旨で返信するともう来なくなった。

 高校にもゼミナール形式の授業がある。その議論で、主要テーマではなかったが、余談的に、世界の同性婚について触れた。日本では、政権政党が、結婚は男女のものなので、同性婚の議論は不要である、と言っている。その考えは、なにも保守的な老人たちだけのものだけでなく、男子高校生でさえ、元気な連中は、(同性婚なんか)勝手にやってくださいとか、キモイだけでしょう、と言う。発言しない生徒の意見は、どうだっただろうか。しかし本音を言い合えるのはいいことである、とはいうものの、釈然としない。こいつらにゲイのアダルトビデオを見せたらほんとうに吐くかも、吐かせたろか、と思った。卒業するまでは見せられないが。

 課外授業で、三人の出来が悪い生徒を教えていた。その中の一人、野球部のマネージャー男子が、あっ、ハーパンの上にジャージはいて来ちゃった、というと、別の男子が、どういうこと? と言ったので、マネージャーがわざわざ立ち上がり、私の横に来て、ジャージを脱いで、ハーパンを披露した。いいんですよ、この生地、と言いながら、私に生地を触らせた(私が触らせろと言ったわけではない)。先生、分かっているんですよ的オーラを感じる。いろいろと悩ましいことは学園生活では多い。

 例えば、生徒に、結婚しないんですか? と毎年のように聞かれる。昔は、ノーコメントなどと言ってきたが、最近は、しない、女性が苦手、と答える。「苦手」のニュアンスをくみ取れる男子はこれで解決。女性、いいじゃないですか? などとたたみかけてくるのは頭が悪い。もし、察したらどう? とでも言ったら、ほとんどカミングアウトだ。そこまで言わせるんじゃない、と言いたい。しかし、「察する能力」は、学校教育の中で身につけさせることではないような気がする。

 滅多にないが、カムアウトしてくる男子もいる。そういうとき、こちらが曖昧なセクシュアリティーのまま接していいのか悩むことがある。卑怯な気がするのだ。いや、ほんとうに卑怯かもしれない。苦しい(生徒も苦しいはずだが)。しかし、「はっきりさせなくていい、あやふやなままでいい」と甲本ヒロトも歌っている。自分の行為に都合のよい言葉を探せばたいてい見つかってしまう。しかし、たいてい、それと矛盾する名文句も同時に思い浮かぶ。困ったことだ。カムアウトした相手が、実は俺も、という話はよく聞く。しかし、教員と生徒だとそう簡単にはいかない。それは甘えなのか、向こうは命がけでカムアウトしているのに、と自分を責める。ずっと、後になって、卒業してから、実は、僕、先生が好きだったんですよ、と、なぜか怒ったように言われ、意気消沈したこともあった。二十歳以上年上を好きになるとは予想もしないことだ。この男子は、研と過去生において、寺の師弟関係にあり、毎晩、相手をさせていたのである。いわゆる稚児であった。袖振り合うも多生の縁、というのは真実である。

 今日は大雪がふった。思い出す。デビュー直後、初めて着た、コムデギャルソンかどこかの明るい服で、新宿三丁目あたりを新宿駅へむかって歩いていた。それまで、黒い服ばかりだったので、自分でないような、妙な気分。デビューすると、世界観も変わり、服まで変わった。なぜ、雪の中を歩いていたのか。二丁目で誰かと会っていたのだろう。たしか、静岡から来た子だった。話をして、彼をショットバーのカウンターへ置き去り、というか、先に帰ります、と言った。惹かれるところがなかったからだ。今ならもっと丁寧に接しただろう。マナーもまったく知らなかった。恋人募集の書き込みをして、連続して、会った十数人にごめんなさい、と言われていた頃。ふられても楽しかった、わけではないが、次・次! と前向きだったのは不思議である。いまなら、がっくりしてしまうところだ。デビューしたての昂揚感に助けられていたのだと思う。

 年が明けて三月、恋人探しのサイト経由で、Y君という青年から、唐突にメッセージが来た(じわじわと来るはずはないが)。新潟からで、遠いな、と思ったけれども、恋人にはなれないと思いますが、月一回、東京に行くので友だち感覚でお願いします、と礼儀正しく書いてあった。返事を出すと、やりとりはいい感じで続いた。しかも、来週、上京するという。仕事ではなく、サルサを習っているらしかった。その点で、まったく身体を動かさない研とは正反対の性格だったが、友だちなのだから、いいと思って、会うことにした。もう会った人は二十人近いのだから、慣れたものだ。

 恵比寿駅の恵比寿様の前で待ち合わせる。待ち合わせは、約束よりかなり早く行って、遠く離れたカフェなどからそっと容貌を確認するという人のことを聞いていた。で、タイプと異なれば、そのまま、都合が悪くなった、などとメールして会わないのだという。ひどいものだ。こんな人の道に外れたことをすれば、かならず、カルマの返済をしなければならなくなる。わかりやすくいえば、自分も、誰かから---それは職場かも知れない---同じ目にあう。研も用心深いから、こういうアプローチに惹かれないでもなかった。しかし、良心的すぎてできなかった。この時、Y君は、とても無防備に、恵比寿様の真ん前、しかもけっこう道の前の、目立つところに立っていた。後ろから、どうも、と言って近づく。ふりかえると、彼はフリーペーパーのような雑誌をもっており、ランチの店を決めてある、といった。こういうアレンジが苦手な研にはありがたい話。ついていけばいいのだから。西洋人客の多いビストロのようなところへ行った。(外人好きなんだな)と思った。大きな犬がテーブルの下にいたりする。彼は革のジャケットを脱いで坐った。混んでいる。このジャケットは中国で買ったフェイクのレザーで、などと、まったく見栄をはらないのを、不思議に感じた。気取らないゲイというものもいるんだ、と思った。そのあと、チェーン店のカフェに行って、別れた。明日、また会いましょう、とY君が言った。二日連続というのは、かつてない、初めてのパターンだ。(友だちだよね?)と心の中でつぶやいた。

 翌日、また彼のエスコートで、メキシコ料理を食べ(割り勘にした)、有栖川宮記念公園へ行った。桜は散りつつある。一番奥のベンチに座る。言葉がつづかない。沈黙。花だけが音もなく風に舞ってゆく。すると、いきなり、右肩にY君が頭をもたせかけた。かなりびっくりしたが、逃げるわけにはいかない(し、逃げたいとも思わなかった)。手を握る。周りを見る。誰もいない。誰か来るとさっと手を離す。数分後、立ち上がって、Y君が、じゃあ、いいよね? と言った。うん、なんで? とまだ混乱している研が答えた。十三年前、三月二十六日のことであった。〈完〉






二〇一四年 三月二十八日 初版。

二〇十五年 二月二十一日 改訂第二版。

著者 Kenn

©Kenn 2014

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