見出し画像

「あの人は天才だから、優秀だから…」に対する違和感

学振特別研究員の審査結果が開示された。数年前を思い出す。私はDC1は不採択、翌年のDC2で採択された。酸いも甘いも味わった。twitter上では前途有望な若手らの一喜一憂の図を見ることができ、懐かしい気持ちになる。

私がDC1に不採択だった一方で、無事採択された同輩を見て、「ああ、彼・彼女は優秀だからな、天才だからな」という気持ちになったし、実際に祝福半分妬み半分でそのような会話をしていた。
1年後、今度は私がDC2に採択され、周囲からは優秀だの云々言われるようになった。論文も順調(?)に刊行しつつ、PDに採択され就職も決まり、さらに研スタに採択される中で、特に同輩、後輩からそのように言われることが増えていった。

「あの人は天才だから、優秀だから…」と言われることが、こんなにも不愉快だとは思っていなかった。正直、私は自分が天才だとも優秀だとも思っていない。勉強すればするほど、論文を書けば書くほど、先人の研究者の偉大さとは対照的な自分の平凡さを痛感し、それを少しでもカバーするためにもっと調査しよう、研究手法を学ぼう、調べよう、論文を書こうという気になる。私は残念ながら根っからの研究人間ではないので、よりよい研究者になるには、時には苦痛な努力を重ねるほかない。
DC2をはじめ科研に採択された時は、予備研究や申請書の推敲にかなりの時間を費やした。大学教員公募に至っては、何十回も申請書を修正し、写真や履歴書のフォント、印刷(紙やトナー)にもこだわり、時間を見つけては大学研究をしていた。「厳封」に対応するための封緘印を探すために文具店を渡り歩いたこともあった。自分が限界と思えるまで努力してきたつもりだ。

「天才」「優秀」というのは、誉め言葉でも何でもない。言う側は、自分の努力不足に目をつむり、さらに言われる側が積み重ねてきた努力にも目をつむることになる。私が不愉快だと感じたのは、まさにこの点だ。天才でも優秀でもない自分が生き残るために積み重ねてきたものを、才能の一言で片づけられるのは悔しい。

世の中には、確かに天才、優秀に見える人がいる。しかし、彼らはおそらく、陰で努力している。我々には想像が及ばない努力かもしれない。「あの人は…」という前に、結果に裏打ちされる基礎、経験、努力を想像し、見習った方が何倍も自分のためになる。

…と、twitterの様々な投稿を見ながら思った。過去の自分に対する戒めも込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?