飛鳥部勝則『黒と愛』登場人物論&図像学レビュー

【ネタバレ注意】飛鳥部勝則氏の『黒と愛』のネタバレが含まれています。





天国と破獄

【カドサカ信子】
彼女は物語序盤に出てくる霊能力者である。
彼女が倒れたことにより、急遽代役の霊能リポーター役として示門黒が召還される。

「海のことはわからねえ――わかるもんじゃねえ!嵐がくるぜ」
「きっと嵐がくる。わしにはわかるんだ」
「祈るがいい 祈るんだよ。審判の日が近づいている」
「お前さんに言っているんだよ、お若いの。審判の日はすぐそばまで来ているのだ」
(アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』より)

『そして誰もいなくなった』1章の終盤で登場する、船乗りらしい老人の台詞である。彼はやがて閉ざされ惨劇が起こる運命にある島に渡ろうとする、ブロア氏に忠告する役割が与えられている。
「嵐」「審判」など、物語の重要な要素を言い放ち、すぐさま退場するこの意味深な老人。
『そして誰もいなくなった』が発表された1939年は第二次世界大戦が始まった年でもある。
戦争による終末論なども囁かれたことだろうから、クリスティ自身が「最後の審判」を意識してこの老人を登場さしたこともあるかもしれない。
歪んだクローズドサークル物ともいえる本書の序盤で登場するカドサカ信子が、『そし誰』におけるこの老人の役割を担っているのが興味深い。






【亜久直人】
「亜久直人が名探偵だとしたら、悪くない。奇矯な振る舞いと薀蓄は備えている。推理力は疑わしいけれども」(飛鳥部勝則『冬のスフィンクス』より)

実は『「名探偵≠探偵役」論』を完成させたい、私にとって彼ほど貴重な研究材料はほかにいない。
『冬のスフィンクス』読了後に、ツイッターでも呟かしてもらったが、彼は「変格ミステリの世界に迷い込んだ本格ミステリの名探偵」である。
亜久は確かに「名探偵」である。「手がかりを元に論理を構成し、その論理が示す唯一の犯人を導き出す」という点においては彼は作中で天才的な頭脳を魅せている。
だが飛鳥部作品…とくに涅槃ミステリと呼ばれる一連のミステリ作品は「変格ミステリ」の領域に足を踏み入れている。

しかし、悲しきかな、彼は「本格ミステリの世界の名探偵」である。ゆえに「本格ミステリの論理」で動き、「本格ミステリ的な犯人」を求める。

『人格転移の殺人』の事件を、後に来た法月綸太郎に解けないように、
『すべてがFになる』の事件を、桑原崇が解けないように、
『山魔の如き嗤うもの』の事件を、神泉寺瞬一郎が解けないように…
探偵自身が扱う事件、探偵が遭遇する事件にもよるが亜久直人の場合、遭遇する事件が変格的なため、本格の住人である彼には絶対に解けない。
この辺り、本格ミステリの「分野」が「変格のルール」になるってのもおもしろい話である。



「亜久さんという人、カリフォルニアに住んでいたという、ある夫人を思い起こさせます」p284
終盤、黒により彼はカリフォルニアの幽霊屋敷を建設し続けたサラ・ウィンチェスターに例えられている。
霊媒師の呪いを信じ、死ぬまで家を増築し続けたサラ・ウィンチェスター。
スティーヴン・キングなどもこの屋敷を題材とした作品を発表しているらしいので、モダンホラー好きの作者らしい比喩といえるだろう。

ウィンチェスター・ミステリー・ハウス
ただ、私はこの台詞を読んだとき、亜久だけではなく本格ミステリの世界に蔓延る名探偵たちは、
このウィンチェスター夫人と同様の考えを持っているのではないかと思われた。
自分たちが持っている論理と合理精神だけを信念とし、その論理の先にいる唯一の犯人を指摘する。
これは幽霊という不合理を否定しつつも、どこか論理だけでは腑に落ちない部分がある世界。


「アメリカ西部へ行き着いたその場所へ、あなた自身とその恐ろしい銃で亡くなった人たちの霊のために家を建てなさい。
家の建設を止めてはなりません。あなたがもし建て続ければ、あなたは生き長らえるでしょう。
もし止めれば、あなたは死んでしまうでしょう」


ウィンチェスター夫人に霊媒師が囁いた一言。これを「本格ミステリの名探偵」に改ざんするとこうなるのではないか?
「本格ミステリの地平へ行き着いたその場所へ、事件の解決と合理的着地のために推理を続けなさい。
合理精神を見失ってはなりません。あなたがもし推理をし続ければ、あなたは生き長らえるでしょう。
不合理(幽霊)を受け入れてしまえば、あなたは死んでしまうでしょう」




【桜井康彦】
作中においても、物語の外から見ても一番救われない登場人物が彼である。
作中の彼の役割として犯人と誤認される、暴行、強姦(男に)、監禁、足、そしてネズミ…とこれだけの不幸を受けている。

「作外から見た彼」
メタな視点で見たときの彼も「ただのミスリード役」という神(作者)からも見放され<ている人物であり、それ以上でもそれ以下でもない。
故に彼は登場人物からも神からも見放されたスケープゴートにほかならない。

「名前」と「苗字」の違いがあるとはいえ、犯人の涼子と全く同じ姓を持っているのに<登場人物が誰もそれを言及していない。
犯人を読者の認識外に置くため…作者はさまざまな叙述でこの疑問を回避している。
中盤での過去の視点、後半での視点人物がコロコロと変更している点など…。
この辺り、北山邦彦や筒井康隆の某作を彷彿とさせる。

岡本綺堂の怪談が好きという部分で、いつかあのブランコに乗り酒でも飲み交わしたいものである。



【犯人】
この犯人はミステリの論理から見ると実に「反転的」である。
まず叙述トリック。男性と見えていたものが女性という単純ながら見事な反転。
しかしその女性という体の中に男性の性が存在しているというこれまた反転の反転(故に一周して美しいミスリードとなっている)

作中ではどうだろう?
例えば黒を襲おうとするその動機。処女だからこそ殺そうとするその動機は、「処女では無かったので殺す」というある古典作品の動機の反転である。

「黒さんを犯しませんか。処女なんですって、気持ち悪い」P262



密室作成の動機も「合理を不合理と見せかけるため」とは反対の「不合理など無く、合理的にも不合理的状況は完成する」という反転。
また、この密室殺人事件も「解けないと犯人が密室を作成した動機が完成に至らない」という点が「犯人が密室を創る動機」から見ると奇妙な反転である。
密室トリックは解けるが犯人は不定という状況も、亜久の人物造詣と相まって実におもしろい構図になっている。


【ネズミたち】 後半、黒が指摘するボッスの絵からだろうか?

ヒエロニムス・ボス『快楽の園』


このように一枚の絵に同じ人物が何度も登場する描き方を「異時同図法」と言います。現代では漫画がコマ割りを使って絵によるストーリーを物語っていますが、この時代は1枚の絵の中でもストーリーが物語られているというのが興味深いと思います。

『ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を読む』神原正明(河出書房新社)





注目したいのはこの向かって右側の『地獄』ネズミたちの下、ナイフと壺がある。
このナイフと壺は男女の性器のメタファーらしいのだが、ここに二人の康彦の関係性が見え隠れしないだろうか?
涼子は康彦がネズミに食われることにより、精神構造が崩壊、女の体に封じ込めている男を掘り起こしてしまった。
実におもしろい一致である。


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