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読書ノート「世界インフレの謎」(著:渡辺努 講談社現代新書)

1.はじめに

本書は2022年10月20日に発行されました。私が手にしているのは2022年11月4日に発行された第2刷です。著者は本書の帯によれば日本における物価研究の第一人者と目される経済学研究者とのことです。本書は2023年現在においても世界を覆い続けている今次のインフレについて俗説を排して実証的に原因を明らかにするものです。

2.本書の概要

(1)なぜ世界はインフレになったのか

まず現在のインフレが始まる前は日本以外の先進国でも低インフレ化が懸念されていました。その要因として①グローバリゼーション、②少子高齢化、③技術革新の頭打ちと生産性の伸びの停滞の3つが挙げられます。これらは構造的問題であるため専門家の間では低インフレが長く続くと思われていたところ突然インフレが世界を襲いました。

本書が書かれた2022年後半ではインフレの主要原因はロシアによるウクライナ侵攻との見方が一般的に広がっていますが著者はそれは主要原因ではないと言います。その根拠として専門家によるインフレ率予測平均値の推移を挙げています。例えば米国では2021年1月の予測値が2.2なのに対し2022年1月には4.8まで上がっていました。ウクライナ侵攻は2022年2月24日の出来事ですから戦争が始まる前からインフレが始まっていたのです。戦争によりインフレ率が上がったことは間違いないですが、著者の見積もりによれば戦争の影響は戦争勃発後の予測値の推移からみて1.5%程度だそうです。

インフレの原因はコロナウイルス感染症との見方もありますがそう単純ではないようです。行動規制で生産が停滞すれば物資が不足するという面はありますが多くの経済学者の事前の見立てでは感染状況が落ち着けば経済は速やかに元に戻ると考えられていたといいます。感染症は生産設備等の生産体制を毀損することはありません。死者等は(人口に比すれば)多くはなく高齢者等に偏っているので労働力の毀損も軽微だと考えられていたからです。

しかしワクチンの普及等により欧米で規制が解除されてもインフレは続いています。筆者は世界中でコロナウイルス感染症による人々の行動変容が同期したといいます。リモートワークに慣れた人々が通勤が必要なオフィスや工場勤務などに戻ろうとしないといった動き、またシニア層の早期退職などが広まっているようです。人々の行動がまちまちであれば平均的には安定しますが行動が同期するとマクロ的に大きな変化が起こるのです。

より大きな問題は中央銀行がどのように対処したら良いか分かっていないことです。経済学では失業率とインフレ率の関係を表したフィリップス曲線をインフレ率の予想に用いており、例えばアメリカではこれに基づき失業率が1%改善するとインフレ率が0.1ポイント上昇するといった関係があると考えられていました。しかし、2021年には経済再開により失業率が2%改善する間にインフレ率は2%から5%に上昇しました。これが従来のフィリップス曲線に乗っていないことは明らかであり根拠を持ってインフレ率の見通しを立てることができなくなってしまいました。このため少し利上げしてみてインフレの反応を統計で確認し不十分であればまた利上げする泥縄式の対応をすることになったといいます。

インフレの原因として需要が強すぎる場合と供給が足りない場合が考えられます。フィリップス曲線は右下がりのカーブであり需要が強い場合はカーブに沿って左上に移動するはずです。しかし、今回のインフレではカーブから離れて大きく垂直方向に上昇しておりこれは供給の過小を示しているといいます。

一般に中央銀行がインフレを抑えるために利上げするのは需要の行き過ぎを抑えるためです。中央銀行は供給の問題を解決する手段を持っていません。供給過少によるインフレに対して利上げをすると供給に合わせて需要を落とすことになり、経済が縮小均衡に向かうため望ましいことではありません。

原油価格については化石燃料削減の動きにより原油生産設備への投資が抑えられていたところに各国の経済再開に伴う需要の急増が起こり価格が上昇したといいます。普段から投資をしていないため産油国も急に生産を増やせません。産油国と輸入国の政府が強調して投資を増やす(これとて一朝一夕に生産を増やせるわけではありませんが。)と言った対応が必要となり中央銀行の出番はありません。

そしてデフレに苦しめられていた日本にも海外からインフレの波が押し寄せてきました。著者は日本は慢性デフレと急性インフレが同時進行する稀有な国になったと言います。素人的にはインフレになったらデフレではないのではというのが素直な感想でしょうが、著者はデフレの原因は賃金が上がらないことにある言います。賃金も物価も上がらないならそれなりに居心地が良いとも言えます。しかし著者はいまや日本は物価が上がるのに賃金据え置きという誰が見ても不幸な状況になるか物価も賃金も安定的なペースで毎年上昇する健全な経済へ移行できるかの岐路に立っていると言います。

著者は今次のインフレの背景には世界経済の大きな変化があると言います。パンデミックによる行動変容によって様々な商品の生産と消費のあり方が変化しました。それにより需要と供給の関係も変化し「新たな価格体系」に移行する途中の調整過程にあるのだと言います。

(2)パンデミックの影響

パンデミックによる経済への影響については経済学者や中央銀行のエコノミストの間で盛んに議論が交わされたとのことで、ここで著者の発見の道のりを辿っていきます。

まず、リーマンショックとの比較が行われました。ーマンショックは人間の行動が要因となった人災だといいます。人災であるリーマンショックは需要に影響を与えました。米国の大不況を通じて世界中が消費と投資を抑える不況モードに入ったのです。リーマンショックは需要ショックだと言います。

一個人としてはいわゆる「美人投票」に基づく合成の誤謬による金融バブルの発生と崩壊を「人災」と言い切るのはどうかと思いますが著者の言い方を尊重しましょう。(人災とは「人間の不注意や怠慢が原因で起こる災害」です。人災という言葉には特定の人間が重大な過失により招いたものであって通常の注意義務を果たせば避けられたはずという含意があるのではないでしょうか。金融バブルはそういうものではない気がします。)

人災の意味の出典:コトバンク

他方、天災は生産設備や労働者にダメージを与え供給ショックを起こします。そこで東日本大震災との比較が行われました。震災とパンデミックでは人々の行動が違っていました。震災直後は人々は物不足により物価が上がると予想していましたが、パンデミックでは人々が家にこもることにより景気が悪くなり物価が下がると予想していたといいます。(筆者によるクレジットカードの決済データ等に基づく分析による。)

そこで過去のパンデミックであるスペイン風邪との比較を行いました。スペイン風邪では犠牲者が働き盛りの世代に集中し、また当時は工場生産において現在より人手に頼る部分が大きかったことから生産が滞り物資の供給に甚大なダメージを与えました。これにより世界的に10〜30%のインフレになったといいます。この知見から筆者は2020年5月時点で今後インフレになると予想したとのことです。しかしスペイン風邪に比べて死亡率が低く早い段階でワクチン開発の目処も立ったことからすぐにはそうした展開になりませんでした。

筆者は2020年7月にIMFのディスカッションに参加しました。そこではコロナウイルス感染症による健康被害が経済被害をもたらしているというシナリオが語られました。筆者ははこれに反対しました。データに基づけば健康被害と経済被害は直結していなかったからです。

新型コロナウイルス感染症を原因とする100万人当たりの死亡率(当時)を比較すると、日本は54人、アメリカ1493人でした。しかしGDP損失で表した経済被害(当時)は日本はマイナス5.96%、アメリカマイナス6.36%でした。日本が健康被害をアメリカの28分の1に抑えたのに経済被害はわずか0.4ポイントの違いしかありませんでした。世界的にも健康被害1位のサンマリノと168位のブルンジでは健康被害は1万倍の差があるのに経済被害は2.4倍にとどまっていました。

これに対しIMF側は経済被害が国際的に伝播したという反論をしたそうです。しかしリーマンショックでは金融取引が減少したのに対しコロナウイルス感染症ではサービス消費が激減しました。筆者はサービス取引の多くは国内で完結し国際的に伝播するものではないと言います。

また多くの研究者が政府による行動規制が経済被害をもたらしているとし、グレート・ロックダウンと名付けようとしていました。しかし日本では強制力のあるロックダウンではなくお願いベースの緊急事態宣言にすぎませんでしたが経済被害に大きな差はありません。またロックダウンをしなかったスウェーデンとロックダウンを行った隣国デンマークを比較しても経済被害に大きな差はなかったといいます。

著者は謎を解く鍵は「情報」にあると言います。ニュースなどで感染の情報を受け取った人々が自発的に行動を変えたというのです。政府による介入効果と情報効果の2つのルートで行動変容が起こるとして、筆者は情報効果が経済被害の大きさに決定的な役割を果たしたと言います。

筆者はスマホの位置データを利用し、緊急事態宣言が出された県とその時点でまだ出されていない県における外出の現状を比較することにより緊急事態宣言の効果(介入効果)を分析したそうです。それによると緊急事態宣言には外出を8.6%減らす効果があるようです。また全国的に新規感染者数が1%増加すると外出が0.026%減少するという関係もみられました。こちらは情報効果とされます。これを東京都の外出減少に当てはめると行動変容のうち介入効果で説明できるのは4分の1程度で残りの4分の3は情報効果だと言います。

またシカゴ大学の研究チームによると米国のロックダウンの介入効果は8.6%で日本と同じく小さなものだったといいます。米国でも介入効果より情報効果の方が大きかったのです。政府の介入の法的拘束力の有無や国民性の違いがあるにもかからず日米両国の市民が自発的に同程度の外出抑制を行ったという事実に対し、筆者は「恐怖心の伝播」という解釈を示しています。情報通信技術が高度に発達した現代においては世界中の出来事がリアルタイムで伝わるのみならず誰もが自由に情報を得たり発信したりできるようになりました。このため世界各国の人々に共通して情報効果が働くと言います。

パンデミックの1年目は恐怖心による行動変容が生じ各国でGDPが低下しました。これはインフレ率の引き下げにつながるものですが2020年の9月になると米国の予測のプロたちはインフレ率の予測を上方修正するようになりました。2021年5月には2%を超え2021年12月には3%近いインフレを予測していたといいます。

これについて筆者は恐怖心が消費者としての行動だけでなく労働者としての面にも及んだからだと言います。飲食店での感染について言えば消費者としての恐怖より従業員の恐怖の方が大きいはずだと言います。

米国ではパンデミック初期の景気悪化時期に解雇やレイオフが増加しました。経済再開が進むと求人は増えてきましたが労働者が戻らないどころか自発的退職が増えてきたそうです。アメリカではこれを「大離職」などと呼んでいるそうです。筆者は人手不足による供給不足がインフレにつながったと言います。

大離職の原因が恐怖心だとすると感染が収束に向かえば恐怖心が消えて経済活動も元に戻るとも考えられます。しかし、そうはならなかったのです。

(3)後遺症としての世界インフレ

大きな災害の後に人々の生活が元に戻らない場合があります。これを経済学では傷跡効果と呼ぶそうです。コロナウイルス感染症の下でソーシャルディスタンスなどが人々の心に浸透し行動が変わったと言います。

ここで中央銀行によるインフレ抑制のための金融政策の歴史の話になります。アメリカがドルの金兌換をやめた(いわゆるニクソンショック)後、オイルショックによりインフレが起こります。

金兌換が行われていた当時のアメリカの中央銀行(Fed)が通貨価値の安定のために行っていたのは金1オンス=35ドルを維持するための金の売り買いオペレーションでした。筆者はこれがノミナルアンカー(ノミナル=通貨、アンカー=錨)になっていたと言います。第四次中東戦争で原油価格が上昇した当時のFedの議長は金融政策で物価を安定させるという意識に乏しく、筆者はノミナルアンカーを失った世界で起こるべくしてインフレが起きたと言います。1979年にポール・ボルカーがFedの議長に就任してひたすら金利を上げ続けるとようやくインフレが収まりました。しかしその代償として景気が悪化し、アメリカの失業率は10%を超えました。

こうしたインフレを繰り返さないため新たなノミナルアンカーが模索されました。筆者はその集大成が中央銀行の独立性と透明性だと言います。独立性とは政治家や政府が景気を気にして利上げしないよう圧力をかけてくるおそれに対し中央銀行が物価安定に専念できるような法制度を整備するということです。透明性とは中央銀行が情報発信して人々のインフレ予想を制御することです。

独立性と透明性を実際の制度として結実させたものがインフレターゲッティングです。これは中央銀行がインフレ率の目標値を定めて公表しその実現を国民に約束するものです。多くの国で目標値は2%に設定されています。筆者はこれがノミナルアンカーの役割を果たしていると言います。実際に2022年8月の米国のインフレ率をみると9%を超えていましたが、この先5年間のインフレ予想は2.5%程度に落ち着いていたとのことです。

インフレ予想が落ち着いているのにインフレが止まらないのはなぜでしょうか。楽観的な人であれば現在のインフレは気の迷いのようなものでありいずれ収まると主張するでしょう。しかし筆者は現代の物価理論が想定しない事態が今起こっている可能性があるのではないかと言います。

ここで先に出てきてきたフィリップス曲線の話になります。2021年からの異変についてはデータが蓄積が進んだ現時点でみるとフィリップス曲線の変容が起こっていたのは明らかだと言います。

次がフィリップス曲線を数式で書いたものです。
インフレ率=インフレ予想-a×失業率+X
インフレ予想は需要の強さであり、失業率が高いというのは需要が弱いということなので第1項と第2項が需要要因を表し、Xが供給要因を表しています。

aがフィリップス曲線の傾きを表すといいます。先に述べられているようにコロナウイルス感染症以前のアメリカでは失業率が1%改善するとインフレ率が0.1ポイント上昇する関係にありました。このことからaは小さい値だったと考えられます。2021年以降のアメリカでは失業率が1%下がるとインフレ率が1.4%上がる関係になっています。この原因がaの値の変化だとする非常に大きな開きが生じます。現在のインフレの亢進の原因がフィリップス曲線の傾きの変化だとする説もありますが筆者はそれほどの変化がaに起きているとは思えないと言います。

そこで筆者はXの増加によってフィリップス曲線が上へシフトしたのではないかと言います。しかしこれは仮説であり、Xを定量的に把握しインフレ率をどの程度引き上げているかをつきとめることまではできていないとのことです。また経済学は需要が強すぎることによって生じるインフレへの処方箋は考えてきましたが供給要因については検討できていないと言います。供給要因のインフレに対して需要要因のインフレへの処方箋である金融引き締めを行うことは江戸の仇の長崎で打つようなものだと言います。

ここからはコロナウイルス感染症が人々の行動をどう変えたのかについて考察されています。まず消費者の行動の変化についてです。パンデミック当初はステイホームということでレストランや宿泊施設など人との接触がサービス消費が減りました。これがパンデミックとの間だけにとどまらず経済再開が本格化しても元に戻っていないのです。アメリカでは2019年頃のサービス消費の割合は69%でした。パンデミックにより64%に低下し2022年になっても65%のままだそうです。

先進国では趨勢的にサービス消費が増加していましたがこれが急に逆転しました。モノの生産からサービスへの資本や労働の移動は時間をかけてシフトしてきました。これが急に逆転しても生産の側では急に対応できません。需要のシフトは瞬時になされるが生産のシフトには時間がかかるのです。需給のアンバランスによりサービス価格との対比でモノの価格が上昇することになります。

しかしそれだけでは物価全体が上昇し続けることを理論的に説明することはできません。相対的に価格が上がる商品があっても下がる商品もあれば全体が上昇することにならないからです。なぜ実際にインフレが起きたのか。

筆者はその鍵は「価格硬直性」にあると言います。ケインズは価格が需要と供給をマッチさせるように瞬時に調整されるとする新古典派の想定は非現実的であると言います。価格の調整には時間がかかるのです。しかもサービス価格はモノの価格より硬直性が高いのです。サービス産業のコストの大部分は人件費です。筆者は人件費の硬直性が高いためサービス価格も硬直性が高く下がりにくいと言います。他方モノの価格は硬直性が低いので迅速に上がります。その差が欧米で起きたインフレだと言います。さらにアメリカまでは人件費も上昇し、これを反映してサービス価格も上昇しているのです。

次は労働者の行動の変化の話になります。パンデミックを契機に起こったいわゆる大離職です。労働供給の減少も供給ショックでありフィリップス曲線の右辺のXだと筆者は言います。アメリカではパンデミックの前後で非労働力人口が9500万人から1億400万人(2020年4月時点)と900万人増加しました。アメリカの非労働力人口は趨勢的には増加していました。しかしパンデミックのジャンプアップは過去50年のトレンドから大きく外れています。2022年になるとある程度戻ってきましたが半分以上戻って来ていないようです。また筆者は、スマホの位置情報データからも労働者がオフィスや工場に戻っていないことが読み取れると言います。

シカゴ大学によるアンケートの結果ではアメリカでは60%程度の人がソーシャルディスタンスを続けていることが示され、そのうち4分1程度の人は就労も職探しもしていないと回答しています。こうした経済の「後遺症」がいつまで続くかについて筆者は今のところ経済学者は答を持ち合わせていないと言います。ただし過去の事例に関する研究では、パンデミックによる人手不足に伴う実質賃金の上昇などの影響は20年続くという見解もあるようです。なお筆者は今回のパンデミックは死者が比較的少ないことなどから後遺症の期間は短くなるはずだと言います。

パンデミックではグローバルな供給網にも影響がありました。中国のロックダウンにより半導体が不足し日本などで自動車等の生産が止まりました。アメリカでは密な労働環境にある港湾で感染の影響による人手不足に陥ってコンテナ船が滞留し、これにより世界の物流が混乱しました。これまではグローバリゼーションは生産拠点の新興国への移転により先進国でインフレ率が抑えられる要因となっていました。アメリカではパンデミックを機に生産拠点を米国内や近隣国に移す「リショアリング」の動きが見られるといいます。

パンデミックを契機に人々の消費、労働行動や企業行動が「突然」「一斉」に「同期」して変化し、政府の規制が無くなってもパンデミックの後遺症が続いています。筆者は、これにより経済の長期トレンドが変化し供給要因のインフレが起こっていると言います。賃金が上昇し貿易財などモノの価格が上昇するという見解を示し、これを「新たな価格体系」への移行と呼んでいます。

従来から日本では労働移動や賃金上昇が起こりにくいことが指摘されています。しかし筆者は、日本だけ新たな価格体系への移行が起こらないということはあり得ず政府が円滑な移行に向けた環境整備を進める必要性があると言います。

(4)日本だけが苦しむ2つの病〜慢性デフレと急性インフレ

2022年4月にIMFがまとめた予測では同年のインフレ率はアメリカ7.68%、イギリス7.41%、韓国3.95%に対し日本0.984%で加盟国中最下位となっています。これをみて筆者は日本は世界から取り残されていると言います。

なおこれは本書執筆時点のデータです。実際の2022年の日本の消費者物価上昇率は前年比2.5%の上昇となりIMFの予測は大きく外れました。
また2023年7月では前年同月比3.3%となり、インフレが落ち着いてきたアメリカと同程度の水準となっています。

出典:総務省統計局  https://www.stat.go.jp/data/cpi/index.html

著者はインフレ率が低すぎることの問題点としてよく言われる不況時の金融政策上の問題点のほかインフレ率が低い状態が続くと内外価格差が生まれ「安いニッポン」と呼ばれる現象が起こっていることを挙げています。(2022年4月までは)筆者はIMFのデータなどから日本では輸入物価が上がっても国内価格に転嫁されない傾向があったと指摘します。

なお「安いニッポン」についてはアメリカのインフレ率が相対的に高い時には円高になれば購買力平価の面ではバランスが取れます。逆に異次元緩和で円安になったなら日本国内でモノの価格が上がらないと海外から見て日本のモノが割安になるのです。同時に賃金も上がらないならば賃金も海外からみて割安になります。筆者は、海外から「安いニッポン」が買われることは賃金や価格が上がる第一歩として捉えるべきだと言います。

筆者は日本のCPI(消費者物価指数)を構成する約600品目それぞれのインフレ率を分析してまとめており渡辺チャートと呼んでいます。それによれば執筆時点でガソリンや電気代などは大きく上がっており輸入物価の上昇による急性インフレがみられます。しかし日常購入する財やサービスの約4割はゼロ近辺に張り付いたままになっていました。このため筆者は日本でアメリカと同じような利上げをすると急性デフレを抑えることはできても慢性デフレが悪化してしまうと言います。

渡辺チャートによると日本の物価が上がらなくなったのは1995年以降でありそれまではアメリカと同じように物価は上がっていたと言います。1997年の金融危機を契機にモノの価格、サービス価格、賃金の3つが同時に動かなくなったのです。物価が上がっても賃金が上がらないのでは消費者の生活が成り立たないし逆であれば企業経営が成り立ちません。筆者は、同時に動かなくなるのが両者の落とし所だったと言います。

またデフレが長期化した理由は消費者のインフレ予想が低くすぎたからだとします。これにより消費者の「値上げ嫌い」と企業の「価格据え置き慣行」がセットで定着したと言います。筆者はそのそのような状態を「ソーシャルノルム」と呼んでいます。国が違えばノルムも違ってくると言います。

ノルムとはフランス語で「規範」等を意味する言葉です。

出典:goo辞書

日本のノルムを改革しようとしたのが安倍総理です。筆者は、いわゆるアベノミクスで日銀による異次元の金融緩和が始まると目論見通りに大幅な円安になったが円安が物価に波及しようとすると消費者が悲鳴を上げたと言います。これを受けて当時の菅官房長官がこれ以上の円安は日本の利益にならないという趣旨のメッセージを発すると円安から円高に転じたと言います。筆者はこの経緯を消費者がノルムの改革を拒絶したものと総括しています。【個人的にはそのような総括に賛同していません。この件は後で雑感でも触れたいと思います。】

しかし海外に端を発する今次のインフレでは局面が変わってきてると言います。消費者のインフレ予想が上がっているのです。筆者が2022年5月に5カ国で実施したアンケートでは日本の消費者物価がかなり上る、少し上がるという予想が2021年8月から大きく増え欧米(他のアンケート実施国:アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ)並みになっていました。また行きつけのスーパーでいつも購入している商品の価格が10%上がったらどうするかという質問項目でも他の店に行くという回答が減りいつもの店で値上げされた商品を買い続けるという回答が欧米並みの過半数となりました。また内閣府が実施する消費動向調査によると消費者のインフレ予想は実際のインフレ率を上回っています。筆者は、今次の物価上昇が頻繁に購入されるものであるガソリン等エネルギー関連と食品に集中していることがその要因と見ているそうです。

そうなると企業の行動の変化も予測されます。筆者は、ウイルスによって日本のノルムが変わるチャンスが来たと見ているそうです。しかし越えなければならない山がもう1つあります。企業がコスト上昇を価格転化し消費者がそれを甘受したとしても賃金が変わらなければ長続きしません。筆者は、物価も賃金も上がるという新しいノルムへの乗り換えが必要だと言います。しかし、先程と同じ5カ国の調査で他の国では賃金が上がる、少し上がるとの回答が40%を超えているのに日本ではわずか10%でした。それどころか下がる、少し下がるという回答が20%を超えているのです。物価が上がっても賃金が上がらないなら消費者は節約するしかなく実質消費と実質GDPが低下します。筆者は、このままでは日本はスタグフレーションに陥る危険があると言います。

欧米も当面スタグフレーションのリスクがあるのは同じです。しかし欧米では物価ほどではないが賃金も上がっており、筆者は今後賃上げが加速する可能性があると言います。

筆者は、日本が欧米以上のスタグフレーションに陥った場合は消費者の値上げ嫌いのギアが上がり今以上に価格据え置き慣行が広がると言います。そうなると企業に賃上げの余力はなくなります。急性インフレが起こったことにより慢性デフレが悪化する結果になると言うのです。筆者は、日本は凍りついた賃金という最後のハードルを越えてノルムを変え慢性デフレから脱却できるか岐路に立っていると言います。

(5)世界はインフレとどう闘うか

筆者は、パンデミックの後遺症としての供給インフレについて各国の中央銀行は想定しておらず知見の蓄積がないと言います。労働者を現場に引き戻したりグローバル化を再加速させることは中央銀行にできることではありません。供給サイドの変化を押しとどめられないので需要の方をなんとかしようと辻褄合わせで利上げをしていると言います。インフレ率は落ちつくが景気後退の引き金は引かない金利水準を狙ってるようですがFedのパウエル議長は「経済の軟着陸は非常に難しい」と言っています。

中央銀行が金利を決める強力なツールがあります。1993年に経済学者のテイラーが提唱したので「テイラールール」と呼びます。これは足元のインフレ率とGDPから望ましいインフレ率(インフレターゲッティングの目標値)を実現するために必要な金利水準を割り出すことができる公式です。

2020年のアメリカではパンデミックによる契機悪化に伴いインフレ率が低下しましたがこのときテイラールールが指示した金利はなんとマイナス5%でした。そこまでのマイナス金利は副作用が大きいと考えられ実際の利下げはゼロにとどまりました。インフレ率が上昇するとFedは数次の利上げをしました。2022年9月末ではFF金利を3.00〜3.25%に誘導するのがFedの目標となっています。さらにFOMCのメンバーは2022年末までにFF金利は4.4%に達するという見通しを示しました。しかしこの時のテイラールールが指示する金利は約6%でした。

テイラールールに従って金利をさらに引き上げた場合はインフレ率はインフレターゲッティングの目標値2%に近づくだろうと筆者は言います。しかし株式市場には激震が走り金融市場に直接関係ない人々にも高金利に伴うさまざまな副作用が起こります。企業は資金調達に困り住宅ローンの返済は困難になります。アメリカの中央銀行制度は物価と雇用の安定の両方を使命としているので物価を安定させただけではFedの使命を果たしたことになりません。筆者は、しばらく難しい舵取りが続くと言います。

需要の冷え込みは問題ですが欧米の中央銀行はそれ以上にインフレの第2ラウンドというべき「賃金・物価スパイラル」を懸念しています。これは物価上昇が賃金上昇を呼びそれがさらなる物価上昇を起こす事態のことです。物価上昇と賃金上昇がニワトリとタマゴ関係になってグルグル回り続ける事態は日本の現在の状況から見ると現実味がないと感じられるかもしれません。

ここで少し理論的な話になります。物価上昇に直面した労働者が賃上げを要求する場合、それまでの上昇分に加え将来の上昇による目減り分も要求するとします。つまり賃上げ要求は将来のインフレ予想に依存することになります。労働者が10%のインフレを予想して賃上げ要求を高めると人件費の上昇分が価格転嫁され10%のインフレが実現します。予想が自己実現するのです。

労働者のインフレ予想が安定しているなら賃上げ要求も安定します。しかしインフレ予想が糸の切れた凧のように日に日に上がっていく場合は賃金と物価がグルグルと上昇するようになるのです。

インフレターゲッティングが現代のノミナルアンカーになっていることは既に説明されていますがインフレが亢進しているのに中央銀行が有効な手立てを講じないと人々は中央銀行は2%を達成する能力も意欲もないと勘繰りはじめます。ノミナルアンカーが事実上不在となりインフレ予想が不安定化する可能性が高まっていることは否定できないと筆者は言います。

インフレ予想が不安定化して賃金・物価スパイラルが起こるには3つの条件があると言います。第一は労働需要が旺盛であるのに労働供給が増えずに労働需給が逼迫し労働者の交渉力が強くなること。第二は企業の価格決定力が強く人件費の増加分を転嫁できること。第三は企業が価格転嫁する際にライバル企業も価格転嫁を行うと確信できることです。これまで見てきた状況からアメリカではこれらの条件が整っていると考えられる

日本では賃金が凍りついてるのでスパイラルの心配はないように思われるもしれません。筆者は日本の賃金が欧米と異なる点は実質賃金と名目賃金の両方が伸びていないことだと言います。実質賃金は生産性が高まらないと伸びません。しかし実質賃金が伸びていないイタリアやベルギーでも名目賃金は伸びており物価も伸びているのです。

日本では実質賃金が伸びないから名目賃金も伸びないという論者が多いらしいのですが欧米ではそうなっていません。イタリアやベルギーで安定したインフレ予測によるスパイラルが起きているのです。

日本の実情を見ると先の三条件は満たされていないように思われます。筆者は、日本で起きていることは物価・賃金スパイラルと似た構造を持っており日本版スパイラルだと言います。(賃金も物価も動かない方向に相互作用しているという意味でしょうか。)。

本家のスパイラルではまず需要抑制が行われます。しかしこれには失業というコストが伴います。インフレ率が高すぎる場合はコストが大きくなりすぎて社会が耐えられません。このため経済学的には異端ですが政府が価格と賃金を直接統制することもあります(アルゼンチンなどの事例)。

日本のスパイラルに対してはまず需要を喚起するのが正統派の対応です。しかし利下げは失業を減らすので社会が耐えられないということはなくてもゼロより大きくマイナスにすることはできません。筆者は賃金の凍結を解凍するためには日銀のインフレ目標2%が実現されるという予想を全ての関係者が共有し、それに基づく行動をとることが必要だと言います。具体的には労働者が2%の賃上げ要求をし経営者人件費の増加に見合う価格引き上げ実行するということです。これは賃金・物価スパイラルの動きであり筆者は時計回りの動きと言っています。

筆者は両者に整合的な行動を取らせるのは難しいと言います。このため政府が働きかける必要があるのですがアベノミクスの初期は反時計回りの政策だったと筆者は言います。まず企業が価格引き上げると値上げによって収益に余剰が生まれ賃上げという形で労働者に還元するという仕掛けになっていて当時トリクルダウン理論と呼ばれました。結果が同じなのであればどちらに回転するかは大差ないように思えるかもしれません。しかし筆者は逆回転については企業も労働者も回転を起こす動機がなく無理がある理屈だと言います。企業が値上げする理由は不明であり収益を労働者に還元する想定についてはそうしたいか個々の企業に聞けばNOという答えが返ってくるはずだと言います。

トリクルダウン理論は本来は新自由主義的な経済思想であり「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなる」(ウィキペディアからの引用)という考え方です。イギリスのマンデヴィルという人物が始祖とされます。これとアベノミクスおける賃金上昇の経路には直接の関係はありません。
アベノミクスにおいて賃金上昇に至る経路は政府による説明では「経済(の)好循環」と呼ばれていました。例えば「骨太の方針2014」など、いくらでも使用例はあります。政府の公文書や安倍総理自身による公の場での言葉でもをこれを積極的に「トリクルダウン理論」と呼んだことはないように思われます。
当時のマスコミがなぜアベノミクスをトリクルダウン理論と呼んで金持ち優遇策批判に直結させるような報道姿勢を取ったのか私にはさっぱり分からないのですがアベノミクスについてトリクルダウンという用語を使うのは批判含みの姿勢を示し中立性に欠けると思います。
またアベノミクスにおいて始点として企業が値上げをする理由は著者が時計回りといってる賃金・物価スパイラルにおける個別企業の動機・行動の合成のような話ではなく、いわゆるリフレ派的な観点から日銀が貨幣供給量を増やすとインフレ期待が上がり名目物価が上昇するというマクロ的な解説が当時のマスコミ等でもされていたと思います。

筆者は日本の賃金解凍には3つの鍵があると言います。1つは物価が上がるという予想が広まるかどうかです。これについては海外発の今次のインフレでインフレ予想が高まりつつあります。

2つ目は賃上げに伴う人件費の増加分を価格に転嫁できるかです。ライバル企業が価格を上げないと予想すると転嫁を躊躇します。筆者は、企業に賃上げの原資は価格転嫁であることを理解してもらうためには賃上げ要望が一斉に行われる必要があると言います。

3つ目は労働需給の逼迫です。筆者は、経済再開後に欧米のようなロング・ソーシャルディスタンスが日本でも起こるかが鍵だと言います。他方レイオフなどが行われる欧米と違い日本企業は雇用調整助成金などを利用して雇用関係を切る事態になっておらず欧米型の労働需要逼迫は起こらないという見方もあると言います。

筆者は、コロナウイルス感染症を契機とした行動変容は人々の選択の結果であり変革の原動力となるものだと言います。それ自体止めようとするのではなくデフレ脱却の契機とすべきだとして本書の幕を閉じます。

3 雑感

現在起こっている世界規模のインフレについて本書で示されている見解は実証的であり非常に説得力があります。

本書中に紹介されるIMFのデータによれば主要先進国の中で日本だけインフレの本格化が遅れたようであり、たまたまウクライナでの戦争と重なってしまったため第二次世界大戦の敗戦後に起こったインフレの記憶などと相まって日本では特にインフレの原因を戦争に求める俗説が広まったのかもしれません。

本書中で示される状況について最新の情報を確認しておきます。2023年8月の月例経済報告関係閣僚会議資料から物価の動向をまとめたスライドを丸ごと引用します。

なおこの資料中の消費者物価指数は注釈のとおり調整されているため総務省公表値と若干異なっています。消費者物価指数は前年同月比では伸びているもの前月比は伸びておらずインフレが落ち着きつつある様子がうかがえます。同時にアメリカと異なりサービス物価も賃金も伸び悩んでいる様子がうかがえます。その上で変化の兆しもあるとしています。

これをみれば、まさに本書が指摘する日本の賃金凍結が解凍されない危惧が続いており慢性デフレからの脱却は現在においても道半ばであることが分かると思います。

世間ではいまだに政府や日銀が円安を放置して物価高を招き国民を虐めているかのようにいうメディア(流石にそのレベルのことを書くのは主に三文メディアですが)やネットへの書き込みも散見されます。そのような向きにはぜひ本書を読んで視野を広げていただきたいものです。

さらに同資料に参考として消費者物価指数の国際比較が掲載されているのでこちらも引用します。


この資料を見れば日本では欧米型の賃金・物価スパイラルは起こっていないことが一目瞭然に分かります。アメリカと日本の足元の物価上昇率はほぼ同じです。しかしアメリカでは住居費など国内需要が問題なのに対し日本は食品価格が問題となっておりこれは海外からの輸入コストの反映が強いように思われます。また日本だけこの部分が高いのは食料自給率の低さと円安の影響なのかもしれません。

だからといって国内需要や賃金上昇の動きが弱いのに円安是正をするためだけに金融引き締めをすれば景気が大きく後退してデフレに逆戻りするリスクがあります。日銀が慎重にことを進めている理由も本書を読めば理解できると思います。決して政府に対して過剰な忖度をしているわけではないのです。

現在(2023年9月)ヤフーニュースで「しぼむ景況感と高止まりするインフレのはざまに揺れる欧州」という記事が読めるのでリンクを貼っておきます。

リンク切れに備えて一部を引用しておくと『ECBの…ラガルド総裁は、世界経済の構造変化として「労働市場と業務の性質の変化」と「エネルギー変革」「地政学的な分断」を挙げ、これらがインフレ加速に寄与したと論じた。さらに、今後インフレ加速につながり得る問題として、①エネルギー供給やリショアリング(生産拠点の国内回帰)、フレンドショアリング(友好国に限定したサプライチェーン構築)に伴う供給変化や投資拡大が価格上昇をもたらす可能性や、②環境変化に伴う資源再配分が価格上昇もたらす可能性、③労働市場の逼迫が賃金とインフレのスパイラルをもたらす可能性──を指摘した』
この部分は本書の内容と一致しておりこれが世界の中央銀行の共通認識となっていることが分かります。にもかかわらずECBが利上げにこだわっていることはドイツを中心としてユーロ圏の景気を押し下げる要因になっている可能性もあります。現在ドイツの景気はかなり悪くなっているといわれ原因として中国経済悪化の影響などが挙げられます。そのような中で物価にこだわって利上げを続けるのは良いことなのでしょうか。

私は読書ノートで批判めいたことを書くことが多いのですが本書については多くの方に読んでいただきたい良書だと思います。その上で気になった点をいくつか書いておきます。

イタリア等を例にして実質賃金が上がらなくても名目物価が上がる経済が普通という見解について、ユーロ圏と日本を単純に比較できるのでしょうか。インフレというのは通貨から見ればその価値の下落です。同じ通貨がイタリアでは下落せずドイツでは下落するということはあり得ないし域内の貿易は自由化されているのでモノの値段は同一にならざるを得ません。そうした中で賃上げ要求や最低賃金の引き上げも一国一通貨の場合より進みやすい面はあるのではないでしょうか。本書の説明を見ても名目物価と名目賃金がとも連れで程よく上がるスパイラルが自然発生する理屈はなくノミナルンアンカーとしてのインフレターゲットを信じ込ませる中央銀行の能力を過大評価しているような気がします。

次はアベノミクス直後の円ドルの動きについて。当時の日銀の説明やマスコミ等における解説などから推察すると黒田総裁は当初いわゆるリフレ派的な発想により日銀がマネタリーベースを増やすとインフレ期待が上がり国内物価が上がるという考えだったようです。したがって為替レートが動くことを基点としてコストプッシュ型インフレを起こそうと目論んでいたわけではないと思います。

リーマンショック後の市場動向から現在の為替レートはほとんど相対金利差で決まるのではないかという見解はありましたが当時はそこまで常識とはなっていなかった気がします。私の当時の受け止めとしては目論見が外れて国内物価がなかなか自発的に動かないのに為替レートだけが急速に変動したことはむしろ政策当局にとっては想定外だったのではないかと思っています。

急速な円高に対して当時の菅官房長官が行った口先介入について。これは本当に消費者の声を聞いたのでしょうか。円安の経済効果を考えたとき輸出企業にはメリットがあります。逆に輸入企業にはデメリットです。このメリット・デメリットのバランスから110円が程よい円安だという指摘は当時多くの経済誌やエコノミストが言っていましたがこれは生産者サイドの見方であり菅官房長官の発言はこれを念頭においたものではないでしょうか。消費者の悲鳴に耐えられずに政策当局が白旗を上げたという見方には賛成できません。ここにも筆者による中央銀行の能力の過大評価があると思います。私としては黒田日銀の当初の思惑は単純に外れたのだと思っています。短期決戦は不可能と悟った日銀が長期戦に備えて編み出したのがイールドカーブコントロールなのではないでしょうか。

最後にトリクルダウン理論という用語について。これは要約の中にかなり注釈を入れ込んだのでその部分は繰り返しません。この言葉の本来の意味を考えるとリフレ政策的発想の「経済好循環」にトリクルダウンというレッテルを貼るのは不正確だし経済学者なら当然分かっているはずだと思っていたのでこれほど優秀な研究者がそういう捉え方をしているのにはちょっと意外でした。リフレ派の考えは特に金持ち優遇ではないと思うのですが私の方が勉強不足なのでしょうかね。

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