見出し画像

読書ノート「チョムスキーと言語脳科学」(著:酒井邦嘉 インターナショナル新書)

1.はじめに

本書は2019年4月10日に出版されました。私が手にしているのは2022年1月26日付けの第4刷です。本書は、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーを自然科学としての言語学を初めて確立した者として、その思想の原点と脳言語科学の成果を紹介するものとのことです。

2.本書の内容

(1)普遍文法

著者は、チョムスキーが言語学を文系の一分野から自然科学にしたといい、その理論はダーウィンやアインシュタインと並ぶ革新性を持つといいます。
著者は、サイエンス(ここでは自然科学の意)の基本は客観性・普遍性・再現性の3つだといいます。物理学のモデルのように単純な法則によって森羅万象を説明しようとするものだといいます。原子論のように言語の最小単位を「素性」とし、素性を支配する普遍的な法則を見出します。素性とは個別の言語の単語ではなく、実詞としての性質(N)や述語としての性質(V)などです。名詞はNを持ち、Vを持たないので[+N,-V]とされ、動詞は[-N,+V]、形容詞は[+N,+V]となります。Vの素性を持つ語だけが活用し、持たない名詞や助詞などは活用しないという法則性があるといいます。

言語の法則を生み出すのは人間の脳であり、チョムスキーは人間の脳に言葉の秩序があらかじめ組み込まれていると考え、これを「普遍文法」としました。言葉の秩序は学習によって修得するものではありません。これは人間の行動を後天的学習によって説明しようとする行動主義心理学と対立します。

著者は、行動を客観的に観察するだけの行動主義は現象論にとどまっておりサイエンスとはいえないといいます。こうなっているという記述にとどまらず、「なぜ」に答えるためには再現性が必要だといいます。チョムスキー以前の言語学は博物学的な「蝶々集め」にとどまっていたようなものであり、文の集積データ(コーパスと呼ぶ。)からパターンを抽出しようとしていたといいます。

しかし、チョムスキーは、言語能力(母語を獲得する能力)は直接観察できる形で提示されておらず、データから帰納的手続きを経て導き出すこともできないと考えました。外側から文の構造を分析するのではなく、文を生み出す目に見えない構造を演繹的に作ろうとしたといいます。

子供が親から耳で聞く文には不完全な文を含み、また学校で教わるような文法を確定させるほど十分な文例が網羅的に示されるわけでもありません。ところが子供が母語を覚えると、それまで聞いたこともないような文でも自由に話すことができるようになります。こうした事実は、人がまっさらの白紙の状態で生まれ、学習によって言葉を覚えるという考え方では説明がつかないといいます。

チョムスキーは、人間が言葉を生み出すことの根底として全ての個別言語に共通の文法である普遍文法が生得的に備わっていると考えます。また普遍文法から個別言語の構造の生成を明らかにする文法を生成文法といいます。生成文法は自然の産物であり言葉の意味から独立しているといいます。
例えば、
(1)Colorless green ideas sleep furiously.
(2)Furiously sleep ideas green colorless.
上の(1)の文は意味が通じないけれども文法的に正しい。(2)の文は意味のない単語の羅列にすぎない。この違いは英語を知っている者なら明らかに分かるといいます。

また筆者は、普遍文法が人間の脳に具わったのは進化の過程でそういう突然変異が起きたのであって徐々に言語の能力が進化してきたのではなく、例えばサルなどは手話を覚えて単語を並べてコミュニケーションを行うことは可能でも文を構成することはできないのだといいます。筆者は、言語は無限に長い文と文中の呼応が扱えるように完璧に設計されているといいます。これは環境変化への適応・淘汰の過程ではなく突然変異で生じたからだといいます。

(2)木構造

文の秩序を支えるのは「木構造」です。単語を並列に並べる場合を除き、必ず二股に分岐し、何回でも分岐を繰り返します。木構造は目で見ないと分かりにくいので本書から図を引用します。【P.65 図1】

日本語と英語で語順が違っても同じ形の木構造になっています。より複雑な文では形が違ってきますが原理は同じです。二股の先がまた分かれると階層構造が積み上がります。この階層はいくらでも積み上げることができます。

同じ語順でも木構造が変わると意味が変わります。「みにくいアヒルの子」という句を「みにくい--アヒルの-子」とすれば「みにくい」のは「アヒルの子」ですが「みにくい-アヒルの--子」とすれば「みにくいアヒル」の「子」なので「みにくい」のは親のアヒルの方になります。(本書のスタイルとは異なりますが便宜的に「-」の数で木構造の階層を表しています。)

言語を扱う人工知能ではビッグデータとしてコーパスを集めて統計的に次の単語を先読みする技術が使われているそうです。しかし順を追って予測する技術で「私は---昨日--りんごを-食べた」という文を予測しようとしても「私が昨日」の段階で文の木構造を判断することはむずかしいことが分かるでしょう。著者は、木構造は順を追った先読みの技術では扱えないので、膨大なコーパスを集めて統計的に処理しようとする「力業」では言語の本質に迫っているとはいえないといいます。

木構造はいくらでも長い文を作ることができます。また長くする過程で主語と述語の関係も変わります。「これは--のみの-ぴこ」という文に語を付け足して「これは----のみの-ぴこの--すんでいる---ねこの-ごえもん」とすれば、「これ」が指すのは「(のみの)ぴこ」から「(ねこの)ごえもん」に変わります。

木構造で分析すれば主語と述語の関係は一番幹に近い枝分かれによって決まってることが分かります。私の表記法では分かりにくいかもしれませんが、上の文では根幹の枝分かれは「これ」と「ごえもん」の部分にあって「ねこ」と「ごえもん」はその先の分枝になります。「のみのぴこのすんでいる」は「ねこのごえもん」との分枝であり、「これ」と「ごえもん」の分岐より一階層下になります。語順ではなく階層上の「距離」によって語が結び付きます。

これは日本語と英語のように語順が異なる言語の間にも共通する普遍的な法則だといいます。
(1)これは-----私の-いとこの--友達の---弟の----あきらくんです。
(2)This is ----- Akira ---- who is a brother --- of my - cousin's -- friend.
このように木構造で分析すれば日本語の文も英語の文も同じ階層構造になっていると分かります。

ここまでの説明で木構造の文は同じような構造を何度も繰り返しあてはめて組み上げられるものだと分かるでしょう。このような性質を「再帰性」といい、数学的にはフラクタル構造と呼ばれ、自然現象では雪の結晶などに現れます。

チョムスキーは「言語は雪の結晶のようなもの」というたとえをよく使うそうです。著者は、これに3つの意味が込められているといいます。1つ目は言語の構造が自然法則に従うということ。2つ目は言語の木構造がフラクタル構造を持つということ。3つ目はどの言語の文も無限のバリエーションを持つということです。雪の結晶は全てが唯一無二の形をしています。雪の結晶が成長する時の温度等よって突起の伸び方が変わり全体は6角形ながら部分的に複雑な形になるといいます。

(3)統辞構造論


ここからはチョムスキーの代表作「統辞構造論」の内容を追っていきます。統辞とは複数の形態素や語・句・節を結びつけて文を構成する時の文法規則です。

当時構造論の序文にこうあります。
〈「統辞論(Syntax)」は、個別の言語において文が構築される諸原理とプロセスの研究である。ある言語の統辞的研究は、分析の対象となっているその言語の文を生み出すある種の装置とみなせるような文法を構築することを目標としている。より一般的に言うと、言語学者は、文を生み出すことに成功した文法の根底にある根源的諸特性を決定するという問題に取り組まなければならない。〉

統辞論の対象は文が構築される諸原理とプロセスであって語彙の由来や意味が与えられる過程は研究対象ではありません。著者は、チョムスキーの言う装置(device)とは抽象的には文法だが実体的には脳のことだといいます。そのため文法は自然科学で研究するものとなります。学校で習う文法は装置の結果として現れたものに人為的な理由を後付けしたものに過ぎず、文そのものを生み出す装置が生成文法だといいます。

文法は意味から独立している点、文法判断がコーパスの学習から統計的に導かれるものでない点等、本書で既に筆者が書いてきたことがチョムスキーの本にも書いてあることが紹介されます。またシャノンの情報理論を言語に適用するような考えを「初歩的な言語理論」と呼んで批判します。

情報理論では情報処理過程をオートマトンとみます。入力に対して自動的に反応する機械といった意味です。これを数学的に理論化したものを有限状態マルコフ過程といいます。言語をそのようなものみてオートマトンが従う規則を有限状態文法と呼びます。動物のコミュニケーションは有限状態文法で説明できるといいます。セミがミーンと鳴いてからミンミンと何度か繰り返し最後にミーンで終わるとすると〈ミーン→ミン(n回ループ)→ミーン〉という有限状態文法に従っています。この処理では前の状態から次の状態が決まり、順次処理されます。これはディープラーニングによる単語の先読みでも本質は同じです。

他方、人間の自然言語は前出の「私は昨日りんごを食べた」にしても例えば「昨日」と「食べた」の間に例の木構造を原理的にいくらでも挟んでいくことができます。チョムスキーは、オートマトンの計算能力(有限状態マルコフ過程)では自然言語は扱えないと言っています。

続いて「句構造文法」の話に移ります。句とは文中に現れる一定のまとまりです。例えば「私はりんごを食べた」では「私は」という名詞句と「りんごを食べた」という動詞句に分かれます。「りんご」と「食べた」を分けることもできます。分けることができる場合の要素を構成素といいます。このとき「私はりんごを」と切り取ると名詞句と動詞句の区切りに遡れなくなるのでそのようなまとまりは構成素になりえません。構成素に基づいて句構造を生み出すような規則を句構造文法とします。

木構造に基づいて句構造を生み出すのは「指令公式」による書き換えだと言います。
①文「私はりんごを食べた」→名詞句「私は」+動詞句「りんごを食べた」
②名詞句「私は」→名詞「私」+助詞「は」
③動詞句「りんごを食べた」→名詞句「りんごを」+動詞「食べた」
「りんごを」を書き換える指令公式もあると思いますが原理は分かるでしょうからここまでにします。

こうした分析は自然言語だけでなくプログラム言語のような人工言語にも適用できます。その場合は木構造の分岐は二股でなければならないことはないでしょうが自然言語では原則二股だと言います。そうした原理が生得的に人間の脳にあると言います。

英語の場合、単数系とか複数形とか現在形とか過去形とかで動詞の形が変わりますがその場合は文脈を指令公式に取り込むようです。主語となる名詞に単数か複数か等を指定し、動詞句の時制が指定してあれば動詞の形が決まります。Z+X→Z+Yという形式に一般化されます(Zは文脈の抽象表現でX、Yは動詞の語形変化。例えば三単現という「文脈」があれば動詞に「s」が付く、的なこと。)。文脈に依存する文法を「文脈依存文法」、依存しない文法を「文脈自由文法」と呼びます。

チョムスキーよれば、文法には階層があり最も強い計算力を持つのがTYPE 0(万能計算機であるチューリングマシンに相当)、文脈依存文法がTYPE 1、文脈自由文法がTYPE 2、正規文法(有限状態マルコフ過程)がTYPE 3で最弱だとします。計算力が強いほど多くの文を生み出せるがTYPE 1までを含む句構造文法では人間の言語を扱うには限界があるといます。また、こうした階層は徐々に進化したものでないと言います。

句構造文法で3つの言語モデルを考えてみます。「カウンター言語」「鏡像言語」「コピー言語」です。カウンター言語の指令公式は次のとおりです。
Z→ab; Z→aZb
これを繰り返し適用すると、ab、aabb、aaabbb…が得られます。これがカウンター言語と呼ばれるのは指令公式を実行するために繰り返しの数を数える必要があるからです。プログラムとしてみると記憶装置が必要であり、直前の状態のみに依存する有限状態オートマトンには収まりません。

鏡像言語の指令公式は次のとおりです。
Z→aa; Z→bb: Z→aZa; Z→bZb
これを繰り返し適用すると、aa、bb、abba、baab、aaaa、bbbb、aabbaa、abbbba…が得られます。前半と後半が鏡像関係にあり前から読んでも後ろから読んでも同じ回文になります。鏡像言語にも繰り返し回数のカウントが必要です。

この2つの言語モデルには文脈は必要ないので文脈自由文法です。abを名詞句と動詞句の対と考えると以下のように埋め込み文を作ることができます。
太郎が言った ・・・ a¹b¹
次郎が知った  ・・・ a²b²
三郎が思った ・・・ a³b³
三郎が次郎が太郎が言ったと知ったと思った a³a²a¹b¹b²b³

コピー言語とはaa、bb、abab、baba、aaaa、bbbb、aabaab、abbabb...という形式になるものをいいます。前半と後半が同じ連鎖になるのでコピー言語と呼ばれます。文脈自由文法のような単純な指令公式で書くことができません。仮に次のような指令公式を作ります。
Z→aa; Z→bb; Z→ZZ
しかし、これではababやbabaを作ることができません。チョムスキーがコピー言語の指令公式を書いてみたところ、20行程度になりました。その過程は複雑かつ不自然なものであり、自然言語を説明するための単純で啓発的な理論にはなり得ません。チョムスキーは指令公式に基づく構造文法で自然言語を厳密に定義する試みは追求しても意味がないとしました。

そこでチョムスキーは句構造と「文法的変換」を組み合わせたより強力なモデルを考えました。文法的変換ではコピー言語は次のような変換式で表します。
K→K+K
式を構成する「K」などの記号は「連鎖」を表し、連鎖は一定の構成素から成ります。変換式は指令公式とは異なり構成素を1つ1つ書き換えるものではありません。
変換式では倒置や不連続要素も扱えます。倒置とは英語の疑問文のように語順が入れ替わるものをいい、不連続要素とは隣合わない要素が呼応するものをいい、例えば敬語における尊敬語と謙譲語の区別のようなことをいいます。〈先生が生徒に本をお貸しになる〉〈生徒が先生に本をお貸しする〉のように冒頭にくる主語の関係性に呼応して文末の動詞句が尊敬語になるか謙譲語になるかが決まります。倒置は「K+L→L+K」、不連続要素は「A+K+B→A+K+C」のように表します。

連鎖の組合せは構成素から成る抽象的な構造です。構成素のような具体的で単純な要素から計算しようとするとルールが複雑になりすぎて自然言語の説明理論になり得ない。抽象的な構造を直接に変換対象とすることでルールがシンプルになるのですが、これには人間に生得的に抽象的な構造を扱う能力が備わっていることが前提となるでしょう。

ここで2種類の変換が提示されます。「義務的変換」と「随意的変換」です。また両者を合わせた変換のセットを「変換構造」と呼びます。義務的変換とは文字通り必ず行わなければならない変換のことです。句構造から義務的変換だけを施して得られる文を「核文」と呼びます。これらを分析する「変換分析」についてチョムスキーはこう述べています。
〈変換分析を正確に定式化すれば、それが句構造を用いた記述よりも本質的にもっと強力であるということが判る、これは、句構造による記述が、文を左から右へと生成する有限状態マルコフ過程による記述よりも本質的に強力であることと同様である。〉

文法は句構造→変換構造→形態音素論という3段階で構成されます。形態音素論とは形態素を発声のための音声の最小単位である音素に書き換える理論です。形態素の連鎖が変換構造によって後の連鎖に書き換えられます。さらに後の連鎖は形態音素論によって音素の連鎖に書き換えられます。変換構造の規則が句構造と音素の規則を有機的に結びつけているのです。

生成文法は話者が発話を構成する過程の理論です。では聴者が聞いた内容を分析して再構築する過程は含まれないのでしょうか。チョムスキーはこう言います。
〈これまで議論してきた形式の文法は、話者と聴者の間の関係、あるいは発話の合成と分析の間の関係についは全く中立なのである。[中略]実のところ、話者と聴者が行わなければならないこれらの二つの作業は本質的に同一のものであ[る]〉

合成と分析に使われる文法が別物ならば脳に複数の文法中枢を用意しなければならなくなります。文法の習得時にはこれらを同期して更新しなければなりません。しかし脳の設計を考えればそれはあり得ません。脳では入力(分析)には感覚野が、出力(合成)には運動野がかかわります。しかし文法中枢はどちらからも独立して両者を統合すると考えられると言います。

チョムスキーは文法規則が自然法則のような「法則」と捉えられるために三つの条件を打ち出します。
(1)妥当性の条件 
個別言語の理論には母語話者の言語知識を矛盾なく説明できるような妥当性が求められる。外的条件として操作性テスト(文に変換などの操作を加えて正文になるか調べる。)や行動テスト(ある言語操作に対して理論の予言どおりに文法判断という行動が変化するか調べる)がある。
(2)一般性の条件
一つの言語だけでなくいかなる自然言語に対してもも(1)を満たす個別文法を提案できるような一般理論を定式化する。
(3)単純性
一般理論が個別文法の候補の中から最も単純なものを選択する。一般理論である普遍文法は生後すぐの脳に相当する。個別文法は言語獲得後の脳に対応する。
なお単純性はシステム全体に関わる尺度であり、文法の一部を単純化できても残りが複雑になるようでは意味がないと言います。

一般理論から個別文法を導く上で、当時のチョムスキーは評価手続を採用していました。文を生成できる記述的妥当性をもった個別文法の理論を単純性などの概念によって適切に評価できれば、その理論が言語能力の獲得を説明できる説明的妥当性を満たすとします。だだし、こうした考え方は研究の出発点と方向性を示したものです。「統辞構造論」以降、80年代になると一般理論と個別文法が原理とパラメータとして定式化され評価手続のアプローチは不要となり、90年代には単純性の概念が経済性原理などを中心とする極小性(minimality)のモデルにつながり「ミニマリスト・プログラム」という著書にまとめられたそうです。

次に英語の文法に変換分析をあてはめていきます。変換分析の観点からみると、一見、動機付けもなく説明不可能に見える言語的振る舞いも体系的現象と理解できるようになります。

(1)Adam has an apple
この文の義務的変換を施す前の連鎖は次のようになります。
(2)Adam+C(時制)+have+an+apple
時制が現在で主語が三人称単数という文脈を表すためCをSに書き換えます。これは義務的変換です。C→Sと呼応して動詞の活用変化が起こります。このような現象を「一致」と呼びます。一致要素と動詞が「倒置」されhaveと結びつくhave+Sが形態音素論によって/ハズ/になりhasと書かれます。

今度は疑問文を作ります。
(2')Adam - C(時制) - have - an apple
「-」は分節の区切りです。疑問文を作る変換をTransformatinとquestionの頭文字を取ってTqとします。変換Tqでは最初の文節と2番目の文節を入れ替えます。文脈によりCがdoseに書き換えられます。
(3)dose Adam have an apple?
英語においてbe動詞や助動詞は時制と結びついてから文節となります。このため過去形のwasやcouldは文頭に移せます。しかし一般動詞ではこの結びつきは許されません。けれどもhaveではこれが許されるので(2)が次のようにも分析されます。
(2'')Adam - C(時制)+have - an+Apple
変換Tqにより2番目の文節(C+have)を入れ替えます。
(4)has Adam an Apple?

以下の文は文法的に間違いです。
(5)eats Adam an apple?
(6)is Adam have an apple?
(7)have Adam an apple?
英語を学習する日本人によく見られる間違いで、学校文法ではなぜ間違っているかなかなか理解できずただ覚えるほかないものですが、文脈と時制の呼応のルールや変換Tqのルールにより整然と説明できるようになるのです。

言語理論の説明力については言語学レベルという概念が中心となります。最初に挙げあられるのは構造的同音異義性です。これは音素が同じだが文の構造が異なることを言います。「カネオ(ヲ)クレタノム」は「カネ、オクレ、タノム」「カネヲ、クレ、タノム」「カネヲ、クレタ。ノム」の3つの句構造に解釈できるます。音素のレベルでは多義性が現れないので句構造はそれより1段高いレベルにあるとします。先ほどの時制Cによる文節は句構造のレベルには現れませんから変換構造は句構造より1段高いのです。

句構造のレベルで違いがあっても変換構造で統一的説明が得られる場合があります。
①Adam ate an apple.
②Did Adam eat an apple?
③What did Adam eat?
①、③は下降調で読まれ、②は上昇調で読まれますが句構造のレベルではなぜなのか説明がつきません。しかし、変換構造では①から②へ倒置が行われて上昇調となり、②から③へさらに倒置(an apple→What)が行われるので下降調に転ずるのだといいます。

このような統辞論は純粋に形式的・数学的です。他方チョムスキーは意味論は科学になりにくいと述べているそうです。「言語は人間がコミュニケーションのために作ったもの」といった考え方があります。しかし、言語は人間が「発明」したものではなく自然から与えられた言語能力(普遍文法)に基づくのです。 

(4)脳科学で実証する生成文法の企て

チョムスキーのいう文法装置とは脳のことです。チョムスキーの主張を証明するため、著者は人間の脳に存在する文法装置を見つけようとしています。

脳科学では入力である認知機能と出力である運動機能を扱い、それ以外はブラックボックスとされてきたといいます。昔からされている失語症の研究では発語(出力)の障害と理解(入力)の障害をそれぞれ障害が起こる脳の場所に関連づけてブローカ失語、ウェルニッケ失語と呼びます。また理解も発語も問題ないが復唱ができなくなる失語もあり、入力と出力を結ぶルートの途中にある神経繊維(弓状束)の損傷が原因と考えられています。このような研究には「文法」の入る余地がありません。チョムスキーの考えによれば文法装置は人力と出力の両方に同じものが使われます。文法の中枢はどこにあるのでしょうか。

著者はfMRI(脳内の血流量の局所的増大を詳しく調べられる装置)などの実験(差分法によって統計的に意味のある脳内局所の活動変化を調べる)によって脳の言語地図を作成したそうです。それによれば文法装置は左脳の下前頭回にあるといいます。これは従来のブローカ野を含んでいるようです。文の意味を解読する領域は文法中枢のすぐ腹側(下側)にあり独立しているそうです。これらが前方言語野とされます。

語彙や音韻の中枢は左脳の角回・縁上回と上側頭回(ウェルニッケ野を含む)にあります。これらが後方言語野とされます。後方言語野の損傷は音素や形態などの情報の扱いに影響するため入力の障害が目立つことになるのだと言います。また、後方言語野からの情報をもとに文を組み立てるのが前方言語野なので、その損傷により出力の障害が目立つのだと言います。実際には文法・解読・語彙・音韻の4つの中枢が複雑に連携しているのだそうです。

第二言語の習得、例えば日本の学校の英語の授業では4つの要素を断片的に理屈で覚えようとするのでネイティブ・スピーカーのような運用能力にはどうしても近づけません。このような能力は学習で身につく技能ではないと言います。また、学校文法は個別文法から整理しやすい規則性のごく一部を羅列したものに過ぎずどうしてそのような規則が生じたのかは説明されません。著者は第二言語の習得も自然な発話を繰り返し聞くことにより自然に身につけるのが理想だと言います。

fMRIで文法中枢を特定するためには意味などの要因と分離する必要があります。また言語能力と認知能力の区別が必要です。著者の主張する文法中枢の部位は認知脳科学の分野では短期記憶に関係するという報告が多いそうです。猿も短期的に単語の意味を覚えることは出ます。猿でもできることと人間だけが持つ言語能力を区別しなければならないと言います。

なお言語能力を認知能力の一つとする説もあります。これはチョムスキーの説とは相いれません。著者はもし子供が類推や抽象化に基づく推論能力を身につけた結果として言語が獲得されるなら、小学校に上がっても言葉はほとんど話せないだろうと言います。

文法中枢を特定した実験が紹介されています。
太郎は 三郎が 彼を ほめると 思う
この文を文節ごとに順に提示します。その後に課題を出します。
文法判断課題として文中の2つの名詞と動詞の呼応関係や「彼」が誰を指すかを尋ねます。
文の短期記憶課題として連続する二つの語句のペアの順序が正しいか質問します。「三郎が 彼を」なら○、「彼が 三郎を」なら×です。
語句の短期記憶課題として
彼に 太郎に 三郎に 思う ほめると
ような文になっていないものを順に提示して文の短期記憶課題と同じように語順の課題を出します。単に順序を覚えるだけならサルでもできる課題ですが、人間の場合は文の短期記憶課題においても自然と文法中枢が働くはず言います。なお、実験結果では語句の短期記憶課題が1番正解率が低いそうです。

ここでfMRIで脳の活動を調べ、「文の短期記憶課題−語句の短期記憶課題」の差分をとれば文法中枢が分かるといます。また、「文法判断課題−文の短期記憶課題」をとれば補助的に働く部位も分かり、これにより左下前頭回と左運動前野外側部が文法中枢にほかならないと結論づけたとのことです。

さらに筆者がジャバウォッキー文と呼ぶ無意味な語句の羅列(ただし助詞や動詞の活用、主語と述語の呼応など文の統辞構造は保たれている)を用いた実験や脳腫瘍で文法中枢を損傷した人の文法判断の低下(失文法)を調べる実験なども行っており、文法中枢に関する研究を深めているようです。

最後に、神経内科の専門家に「酒井さんは文法がブローカ野に局在しているというけれど、自分が自分が診てきた患者さんにその場所の梗塞で失文法が起きたケースは1つもありませんよ」と言われた話が紹介されます。しかし失文法は見えないだけで文法判断を課すような実験をする必要があるとし、また見えない現象を明らかにするためにはそれが起こるだろうという仮説が必要だとします。さらに、筆者の実験では短記記憶が脳にかける負荷を差し引く形で文法中枢と特定したといい、チョムスキーを絶対視しているのではなくバイアスを取り除いた研究を行っていることを強調しています。

3.雑感

まず、言語学を記述的な科学にしようという構想とその場合に対象を文法に絞り込むという考え方は納得できます。

言語というとまず意味を考えたくなりますが、ある程度の高度な文の意味を理解するには様々な知識と論理的思考力が必要です。そうした思考を行う脳内の装置が言語に特化しているとは考えにくいでしょう。その際、論理的思考力ないし一般的認知能力が言語の習得にとって本質的でないということは言語学を記述的な科学とする上で極めて重要です。猿には習得できない言語を人間が易々と操れるのは単純に人間の方が頭がいいからだと思ってしまうところです。しかし、もしそうなら脳内に文法に特化した装置など初めから存在しないわけなので無いものを探す試みは無意味でしょう。

脳内に装置を探す前に、装置に実装されるべき文法を探しておく必要があります。まさにその試みが本書に書かれているわけです。そこでは句構造文法を捨てて変換構造を採用する過程とそうすべき規準も本書に書かれています。観察される文を生成できる演繹的な規則を仮説として立て単純性等の観点から評価するということですが十分に記述的科学の要請を満たしていると思われます。

結論として採用された変換構造について、語句の結合構造を直接扱って再帰的な操作を何回でも加える能力というのは論理的思考力とは別物ですし3歳児でも難なくこなしていますから生得的にそういう装置があるんだと言われたらそうかもしれないと思います。

その上で雑感を何点か述べます。1点目は脳の部位の役割と学習の効果についてです。脳はコンピュータのデバイスと違い生まれながらに機能が完成しているわけではありません。脳の部位に機能が局在してるとしても学習なしで機能することはなく、例えば生まれたばかりの猫を閉じ込めて縦縞しか見せないと横縞を認識するはずの脳細胞がなくなってしまうといった実験があります。

人間の幼児が合併等の文法操作を自在に行うまでには数年の学習期間が必要です。また文法中枢というものが必ず働くとしても他の言語機能や一般的認知機能とも協働して働いているので結局、文法中枢と呼ばれた部位が何をどの程度こなしているのかは依然としてブラックボックスのままです。「普遍文法」があらかじめ局在的にそこにだけセットされているともまだ言い切れないし、ほとんどの言語が木構造、合併、呼応といった要素を備えるとしてもこれに当てはめきれない言語が存在する可能性は消えていないのではないでしょうか。「失文法」が見えないのも実効的には脳の他の部位がカバーできてしまっているという現実があるはずです。

また個別言語の文法の中には普遍文法には収まりきれない文化的な「発明」の要素が一切ないということではないでしょう。むしろ発明された要素も大きな割合を占めている(からこそ、世界には実に多様な言語が存在する)のではないかと思われます。そうなっているのは現実に言語が人間共同体(コミュニティ)におけるコミュニケーションのツールとして機能しているという事実が厳然としてあるからではないでしょうか。言語能力については生得的だから人為的発明の要素はないと0か1かでいう話でもないような気がします。

2点目は一般的認知能力が自然言語レベルに到達する可能性についてです。これは猿の脳では不可能だとするとAIが焦点になります。これについて、この本が書かれた頃にはなかったものが2023時点で存在しています。ChatGPTをはじめとする生成AIです。

ChatGPTが本書でいうところのコーパスを集めて確率的に次の文字を計算する技術を使って作られていることは明らかです。実際にChatGPTを使ってみれば一文字一文字順を追って文が生成されていく様子を見ることができます。しかもその生成された文章は極めて自然な日本語の文章(日本語で質問した場合)であり受け答えの内容もしっかりしています。一問一答形式に制限されたコミュニケーションとはいえ、その限りでは素人目にはいわゆるチューリングテストをクリアしているようにすら見えます。

私は技術者ではないので理解が不正確なのはご容赦いただきたいのですが、例えば常に1番確率が高い文字を選択するのではなくあえてランダムに2番目や3番目の確率の文字を選択したり生成の途中で先読みの技術を逆用した後ろ読みを行なって整合性を検証するといった細かな工夫はあるものの、利用可能な計算量が大きく増えたことが自然な文章を生成できるようになった最大の要因のようです。

私は技術者ではないため定量的な比較はできませんが、一定時間内に実行可能な計算量という点では現代のコンピュータは人間や猿の脳を大きく凌駕していると思います。本書でいう「計算力」が低い階層の技術でも「計算量」でカバーすれば自然な文章を生成できるとすれば、人間の脳に文法中枢があるとしてもこれと協働して働く言語知識や一般的認知能力が自然言語の文法生成に寄与する程度を科学的に評価することも行わないと科学的な統辞論にならないのではないかと思います。

3点目は規範的で哲学的な議論を記述的な科学に置き換える可能性についてです。チョムスキー以前の言語学は、音声の研究などを除けば規範的で哲学の一分野のような議論や単に知識を集めて分類する博物学的議論、言語発展の歴史的経緯に関する考証学的議論などを中心とした文系学問というイメージです。これに対し、人間の脳の機能に着目してそうした議論を記述的な科学に置き換えようという試みは大変魅力的であり基本的に良い試みだと思っています。

またそうしたアプローチは言語学だけでなく他の様々な文系学問にも応用できるのではないかと思われます。ここから先は楽しい形而上学みたいな話になりますが、例えば倫理学という分野があります。何が正義かを論理的に確定しようという試みは様々なアプローチで行われてきましたが「理性」をベースにした規範的議論では「なぜ人を殺していけないのか」といった問題に万人が納得するような回答を与えることは不可能であることが判明しています。

一方、社会生活を営む人間が自然に抱く道徳感情(例えば、自分と直接関係ない事件でも殺人者を憎む等)については何となく教育とか条件付けのようなものがあるのかなくらいで科学的に解明されているわけではありません。特に道徳感情がある場合でもそれが働く範囲はかなり個人差があります。殺人の場合、間接的ではあるが比較的強く関わる事件(近所とか母校での事件)でなければ無関心な人もいれば世界中のどこでも誰が被害者でも義憤を感じる人もいます。

道徳感情が近代的学校教育のない時代や場所でも育まれることは古い時代の文献などを見れば明らかです。どういう対象にどういう感情を抱くかは時代や場所によってかなりの幅があります。しかし、何を対象とするかは帰属集団によってある程度異なるとしても自分に直接関係ない事柄にも道徳感情がわいてくるという事象に関して人間の脳に道徳感情発生装置のようなものが生得的に備わっている可能性もあるかも知れません。ただし直接目にした他人の状況に対する共感、同情など科学的にありそうな脳の機能と独立してそういうものがあるのかは全く不明であり、もしそういうものが科学的に発見されたら興味深いな、などと思った次第です。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?